十一話 いわかん?


 天音さんが、浴室に居る。

 

 考えるより先に目を瞑った。

 眼球が潰れるほど強く。強固に。

 次いで背中を向け、叫んだ。


「あ、天音さん! 何故、いえ、早くお出になってください!」

「おいおい、何でこんな冷たい水を浴びとるのじゃ。頭を冷やすって、普通は比喩じゃろ」

「天音さん!」

「ええと、温度を変えるのは……お、これじゃな」


 己の言葉を聞かず、彼女は近づいてくる。

 誓って、その様を見たわけではない。

 わけではないが、頭を伝るこの冷たさが消えたのも、また事実。

 そして温度を調節するハンドルは己の眼前にある。

 つまり、そういうことだった。


「……っ」


 最早、これ以上の思考は不要。 

 天音さんが退出しないのなら、此方が出るまでだ。

 秘部を両手で隠しつつ身を翻し。


「む、なーにをしとる。まだ体を洗ってはおらんぞ? これ、『動くでない』」

「ぐっ、ぅ……っ!?」

「ほぅら、いい子じゃからここに座って。儂が背中を流してやろう」

「な、ぜ……!」


 彼女の声に従うまま、己は湯椅子に座る。

 逆らえない。

 どれだけ力を込めようと、歯を食いしばろうと、全く。

 ぴくりとも動けない。

 不味い、不味い、不味い。

 

 せめてもの希望をかけ、口を開いた。


「くっ……なりませんっ。貴方のような御方が、こんな!」

「んにゅ?」

「今すぐお止めください。まだ、まだ間に合います。故にどうか……!」

「……くふ、かかかか。何を言うかと思えば」


 背中の後ろ。そのすぐ傍に彼女がいる。

 柔らかな両手が、そっと肩へかけられた。

 顔と顔の距離が縮まる。

 さらさらとした髪の感触。艶やかな肌の触り。薄い布の隔たり。

 魔性の気配。

 やがて唇が左耳に触れるまで近づき。

 

 掠れた声で、囁かれた。


「儂らはずぅっと前から一緒に、風呂に入っておるぞ……?」


「……は、ぁ?」


 前から、ずっと。一緒に、風呂を。

 誰が。誰と。

 ……己と、天音さんが?


 否、そんなわけがない。

 彼女と共に、入浴をしたなど。

 あるはずがない。あってはならない。

 

 第一、己にそのような記憶は。

 

「覚えておる、じゃろう?」


 記憶、は。


「っ、ぁ……? そん、な」

「にゅふふふふ。ほぅら、思い出した。全く、忘れてしまうとは悲しいのぅ」


 嘘だ。まさか。何故だ。あり得ない。


 覚えて、いる。


 ……そうだ。そう、だった。

 己が言い出したのだ。いつの日か、妙に心寂しく思って。

 風呂を一緒に、入ってはくれないかと。

 懇願したのだ。恐れ多くも、彼女の手を掴みながら。

 己が願ったのだ。

 彼女は優しく微笑んでくれて。

 連れられるままに浴室に行って。

 それで、彼女の、着物が。


「あ、ぁぁ……っ」

「んーと、ぼでぃそーぷ、じゃったか? えー……ん、これじゃな」


 シャコ、シャコ。


 シュリ、シュリ。


「おー、すごい。あわあわじゃ」

「……」

「よし、じゃあ洗うからのー? おーい、聞いとるか孝仁ー?」

「……は、い」


 どうすればいい。

 腹を切るか。それとも首を落とすか。

 いや、最早そんなものでは償えぬ。己の矮小な命でなど、とても釣り合わぬ。

 天音さんは神に等しき御方だ。神に認められし神獣だ。 

 

 だのに、己は。


 そのような御方に、入浴の同伴を乞い。

 あまつさえ、体を洗わせている。

 

「ん、しょ。ん、しょ。お客様ー、お痒いところはございませんかー? なんての、にゅふふ」

「……大丈夫、です」


 負債が貯まっていく。

 人生を百周しようとも返しきれぬ、莫大な負債が。

 何より恐ろしいのは。

 彼女が、天音さんが不満を言わないことだ。

 甘えてしまっている。

 その優しさに、寛大さに。卑怯な己は付け込んでいる。

 

 ……やはり、ここで命を終わらすべきか。

 今後天音さんに対して、無礼を働かない保証はない。

 寧ろ大いにあると言える。

 賢明な判断をするなら、今この瞬間。

 舌を嚙み千切って死ぬべきだ。

 しかし。


「うにゅぅ。孝仁よ、お前さんの背中は相変わらず細いのぅ。ちゃんと儂のご飯を食べて、元気になるんじゃぞ」

「はい」

「んふふふふふ。良い返事じゃ。なら明日は何がいいかの。今日は魚じゃったし、今度は肉か」

「はい。それが、いいかと」


 再三言うが、彼女は優しい御方である。

 己のような汚物に気を遣っている時点で、それは明白だ。

 

 故に察する。

 もしこの時、己が自刃を図ろうとすれば。

 彼女はきっと心を痛めるだろうと。


 無論、所詮は己の死だ。

 感じる痛みなど高が知れている。

 それでも、今。

 楽しそうに己の背中を洗っている彼女の顔を。その愛らしさを。

 たとえ僅かだったとしても。


 己は、曇らせるわけにはいかなかった。


「にゅふー。じゃあ次は、前じゃの」

「そこは自分で致します」


 とは言え、それはそれ、これはこれ。


 こんな己にも、最低限守るべき尊厳はあった。














「ふぃー。いやぁ、いい湯じゃった」

「……そう、ですね」


 風呂上り。

 何だか、どっと疲れた気がする。ここまで疲弊したのは四轍で会社に通勤したとき以来か。

 体に問題はないが、精神的な消耗が激しかった。

 理由は言わずもがなである。


「しっかし、お前さんも頑固じゃのぅ。儂は気にせんと言うたのに」

「気にする、しないの問題ではありません。人間の常識に則ったまでです」

 

 天音さんがやや不服そうに口を開く。

 それは、己が唯一勝ち取った防衛線でもあった。


「大体、同じ湯舟に二人で浸かるなど、夫婦でもそうそう致しません。別々に入るのが普通かと」

「うにゅぅ、そうかもしれんがのぅ。儂、天狐じゃし。人間じゃないし……の?」

「なりません」

「にゅぐぐっ。……孝仁のけち」

「けちではありません」


 たとえ不敬だとしても、ここを譲るわけにはいかない。

 この三週間でお互いの貞操観念の差異は十分に理解できた。

 別に天音さんが間違っているだとか、どちらが正しいだとかを言うつもりはない。

 ただ、彼女はあまりに純粋なのだ。


 自分の幸福より相手の幸福を。

 それは素晴らしく尊き願いであると思う。

 先程の行為も、きっと己を労わってのことなのだろう。

 

『孝仁ぉ、孝仁も一緒に……お風呂、入ろ? すっごく気持ち良い、よぉ?』


 浴槽の縁を指でなぞりながら、彼女は微笑んだ。


 やけに熱っぽい目をしていたので、のぼせていたのかもしれない。

 そんな状態にも関わらず己を気遣って。 

 ましてや、断ったことに憤りを感じるとは。


 聖女がこの世にいるなら、恐らくこの方のような存在なのだなと、愚昧に悟った。


「……先にお休みください。歯を磨いてきます」

「儂が磨いてやろうか?」

「結構です」


 故に、己なんぞが汚してはならぬのだ。

 今もそうだ。

 正座のまま膝をポンポンと叩く彼女の誘いに、乗ってはいけない。

 乗れば最後、己は終わる。落ちていくだけになってしまう。

 彼女の優しさに甘え、堕落するだけの。

 廃棄物にも劣る、寄生体に。

 

「……」


 洗面台に着き、歯ブラシを手に取る。

 次いで何かが百パーセントらしい安物の歯磨き粉を付け、口に含む。

 磨く間、何とはなしに鏡を見た。

 酷い顔である。

 特にこの、生気のない目つき。

 隈はどうにもならないとして、もう少し元気にはならんものか。

 これでは映画に出てくるゾンビの方がよっぽど活き活きとしている。

 やはり分からない。


 本当にどうして、天音さんは己なんかと。


「……ん、べ」


 ジャー。


 口のものを吐き出し、水でゆすぐ。

 排水栓に流れる不浄が完全に見えなくなった後、蛇口の水を止めた。

 歯ブラシと歯磨き粉を片付ける。


 心の内で言葉を発した。


「……」


 そのことに関しては、もう考えぬと決めたはずだ。

 彼女がよいと言ったのだ。ならば、それで終わりの話だろう。

 疑問は必要ない。

 何度も繰り返した結論だ。


 彼女は願い。

 己は応えた。


 あと一週間と少し。

 契約が切れるその日まで、己はただ生きればいいのだ。


 それだけの。

 全く、それだけの話である。

 

「……ふぅ、ぅ。そろそろ、戻るか」


 歯磨き一つに、いらぬ時間を使ってしまった。

 明日も早い。

 就寝の準備をせねば。

 

 若干急ぎ足で居間に戻ろうとすると。


「……?」


 ふと、何かが気になった。

 振り向けばそこには、先刻己らが入っていた浴室の入り口がある。

 何も不可思議はないはずだ。

 はずだ、が。


「……こんな、位置だったろうか」


 もう少し、居間から近かったような。

 と言うより、廊下が長いような、そうでもないような。


 そもそもこのマンションの浴室に、浴槽なんて置いてあっただろうか。

 

「はて」


 首を傾げる。


 あった、気がする。

 いや、気がするも何も、置いてあるのが現実だ。

 そう簡単に後から付けられるものではない。当然、付けられた覚えもない。

 己の勘違いだ。

 これはどうやら、本格的に疲れているらしい。


「はぁ……早く寝よう」


 止めた足を再び動かす。

 少しして、居間に着いた。


 天音さんは既に布団に入っていた。

 己もさっさと布団を敷いてしまおう。

 そう思って、押入れを開けたのだが。

 

「……む」

「うにゅ? どうしたんじゃ、孝仁」

「ああ、いえ。何でもありません。ただ、布団が見当たら……っ」


 言葉だけでなく、体の動きまでもが完璧に静止する。

 止まらないのは冷や汗ぐらいだった。


 ……何故だろうか。

 とても、嫌な予感がする。

 この先の展開が読める気がする。

 

 彼女が寝ている方へ、ゆっくりと振り向く。

 

 そして、そこには。


「にゅふ。布団なら、ちゃぁんとここにあるではないか。ほれ、早う来い」


「嘘、だ……」


 布団をめくり、己を手招きする天音さんの姿があった。


 天井を見上げる。

 シミ一つない、綺麗な天井だった。

 たっぷり十秒見つめた後、視線を下ろす。

 天音さんはよい笑顔をしておられた。


「……自分が床に寝る、というのは」

「却下じゃな。諦めて一緒に寝るのじゃ」

「あの、寝相が悪くて」

「悪いのは往生際じゃろ。ほれ、もう絶対に無理なんじゃから、受け入れよ」


 この部屋からの逃走はとうに試みている。

 それが無理だということもまた、理解している。

 浴室のときと同じだ。体が全く言うことを聞かない。

 故にこうして会話での説得を行ったのだが。

 つい今しがた、それも失敗に終わった。


 詰みである。

 

「……どうしても、ですか」

「んー? おかしいのぅ。お願いされたのは寧ろ、儂の方じゃなかったか?」

「……そう、でしたね」

「くふふふふ」


 そうだった。

 この同衾は、己が願ったことだった。


 結局、最後の悪足掻きすら潰されて。

 己は彼女のいる布団へ向かう。

 ふらふらと、街頭に魅せられた虫のように。

 

 ああ、全く、どうなっているんだ。

 頭が酷く痛む。

 これは何だ。何でこうなる。どうしてだ。

 己は何故、あんなことを。

 

「寂しかったから」

「はっ?」

「お前さんが儂を求めたのは、寂しかったからじゃ」


 いつの間に、目の前へ。

 違う。

 己が布団に入っていた。天音さんの布団に、包まっていた。

 顔と顔が触れ合うほど近い。

 急ぎ離れようとするも、体は動かぬ。

 何より。


「なぁ、孝仁よ。お前さんは寂しかったんじゃろ? ずっと一人で、悲しかったんじゃろ?」

「ち、が」

「違わぬよ。ぜーんぶ、見たからの」

「っ、ぅ、く」


 深い藍色の瞳が、己を捕らえて離さない。

 目をそらすことを許さない。

 見られている。

 何をだ。


 貴女は一体、己の何を見ている。

 

 口を開く直前。


「じゃから……ぎゅーっ、じゃ!」

「……!?!?」


 それまでの思考が吹き飛ぶ。


 数瞬の後、何をされているかを愚鈍に理解し。

 己はみっともなく叫んだ。


「あ、天音さん!? お止めください、こんなっ!」

「すーはー、すーはー。おおぅ、これが孝仁の匂いかぁ。にゅへへへぇ」

「後生ですから、どうか! 天音さん!」

「ええぇ……でも儂、冷え性じゃしぃ」


 そう言って、天音さんは益々顔を己の胸に摺り寄せる。

 ふわふわの狐耳が顔に触れ、さらりとした御髪が首を撫でた。

 それだけではない。

 臭いを、嗅がれている。

 胸元から首筋にかけて。愛らしい御顔を埋めている。

 羞恥が限界に達した。


「そのようなこと、初めてお聞きしましたがっ?」

「にゅふふふふ。そりゃあ、初めて言ったからのぅ。くんくん」

「ぁ、が……っ、どうか、お止めになって……くださ……!」

「んふー。い、や、じゃ」


 天音さんが顔を埋める度。

 己の穢れた身に、彼女の小さな体が触れて。

 加えて現在、彼女は寝間着姿なわけであって。

 必然、いつもより生地が薄く。

 止めに、両手が己の首に回されているため。

 

「……っ!」

「ふにゅぅ、孝仁は温かいのぅ。こりゃあ、いい夢が見れそうじゃ」

「それは……! よかった、です……っ!」


 考えるな考えるな考えるな。 

 考えるな柔らかいやめろ感じるないい匂いがするやめろやめろやめろ。

 汚すな汚すな愛らしい汚すなずっとふざけるなふざけるなこのままで駄目だ駄目だ駄目だ。


 頬の内側を必死に噛み締める。

  

 一度だって、邪な感情を抱いてみろ。


 その醜い皮を剥いで肉を微塵切りに……。



 パチン。



「……ま、今日はこれくらいかの」

「ふ、っぅ、……? 天音、さ……ぁ?」


 何、だ。

 急に、視界が、暗く。

 

「何、焦る必要はない。時間はたぁっぷりある」

「ぁ……まね、さ……ん」


 指、鳴らし?

 駄目、だ。思考が、重い。


 眠、い……。


「ゆっくりお休み、孝仁」

「ぁ……」


 おやすみ、なさい。
















「見つけました。間違いありません。天狐様です」


 茶色い小さな少女が言った。


「ありがとう、管奈。やっぱり貴女に任せて正解だったわぁ」

「い、いえ! そんな……」


 その少女は、狐の耳と尾を生やしていた。


「いやぁしかし、天狐様も意外だよねぇ。まさか社畜ちゃんに篭絡されるなんてさぁ?」

「……白姉、早とちり。まだそうと決まったわけじゃない」


 黒色の少女が白色の少女を咎めた。

 どちらも瓜二つの顔。

 瓜二つの、耳と尾。


「そ、そうです! 天狐様が、あんな人間なんかに……!」

「まあまあ。それも込みで、是非聞いてみようじゃない」


 九つの尾を生やした金色の美女が、妖艶に笑った。

 


「あの人間。元宮孝仁に、ね……?」

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