イミグレーション

黄間友香

第1話

 今時なんで紙なんだろう、と思いながら首を横に振る。空港のイミグレーションはとにかく書類だった。全て揃っていなければしばらく足止めされる。カウンター越しに座っている職員が、手を引っ込めた。必要書類の中で私が出せたのはパスポートだけ。カタカタと音がするたびに、なんだかもったいぶった感じがする。何も出していないという情報を、丁寧にパソコンに打ち込んでいる。無愛想な男性職員はむくむくとしていた。紺色の制服はお腹のあたりが伸びきっている。

 私が出したビザ申請の書類は、今どこにあるのだろう。袖の下を渡さずにいたから、そもそも書類は届いていないかもしれない。書類を持たない人が押し寄せても、きちんと対応してくれる国を狙って、人は流れてくる。半日ほど待ってその国に入れてくれるのなら良い方だ。

 カウンターの向こうで何か言っているけど、輪郭がなくぼやけた言葉としか受け取れない。私がこの国に決めたのは、移民受け入れに寛大らしいと聞いたからで、どういうところなのかというのは二の次だった。いくつかの単語しか知らない中で、知ってる単語を見つけるのにも苦労する。相手の話がよく分からないまま私は首を横に振ったり縦に振ったりを繰り返した。ますます不審そうな顔をする。背反する回答をするのが言葉が分からない証明になると思っていたけど、そうでもないのかもしれない。私はカウンターに寄りかかって、右足を掻いた。ずっと立ちっぱなしだったから、少し体勢を変えるだけで足が痺れる。

 職員の質問の中に、ファミリーと聞こえた。私は大きく首を横に振ってノーファミリーと言った。この言葉だけは知っている。どこにも頼るところがないとはっきり示さないと、他のところへ送られてしまうらしい。だから家族はいないとはっきり答えるのが良いと、飛行機の中で誰かが喋っているのを聞いた。ノーファミリーだけど、書類もないけど、なんとか入れてほしい。私のパスポートを発行した国は、ほとんど砂になっている。だから、何もなくても受け入れるようにと、特例措置が出ている。

 職員が私よりもずっと疲れたように鼻を鳴らすと、待合室を指差した。強気で行こうと気を張っていたのがぐるりと一転して、不安が波のように押し寄せてくる。一度戻ったらまたどのぐらい待つのか、私はちゃんとこの国に入れるのか、と訊きたい。けれど確認する言葉を知らなかった。私は大きく首を横に振った。真顔でカウンターをコツコツと叩かれる。真顔の中に、どこか馬鹿にしたような見下した視線を閉じ込めている。自分の顔が強張るのがわかった。無い物は無い。伝わっていないと思ったのか、職員が誰かを呼ぶ仕草をする。取っ手が今にも切れそうなカバンと一緒に、私はさっきまでいた待合室に戻った。


 島の人間は、他の乗客とは離されてすぐに別室行きになる。別室には私と同じような人たちが大きな荷物を抱えて、自分たちの番をひたすら待っていた。着ている服は砂と埃まみれで、崩れていく島をそのまま持ってきてしまったような気分になる。この中に書類を持つ人はいないだろう、とお互いに察していた。お金を持っていた人たちは、私たちが脱出するずっと前に島を抜け出して行った。大抵そういう人たちはどこかの国から税金対策でやってきた人たちだったから、帰るところがちゃんとある。

 待合室にはどんよりとした薄暗い空気が漂っていて息苦しい。椅子は全て埋まっている。私が入ったと同時に壁に寄りかかっていた老人が呼ばれ、大きなカバンを持って出て行った。すかさず少し空いたスペースに身体を滑り込ませる。数人知り合いを見つけたけれど、これから放たれていく大きな国に馴染もうとしているのかよそよそしい。子どもが歌う声だけが、部屋の中に響いた。

 私はずっと島の外に出たかった。大学に行きたかったし、島での生活が退屈だと思うことは数えきれないほどあった。けれどもっと万全な状態で、ちゃんと堂々と住む権利を持った時に出たかった。無人島となった島は、今は島としての形を保っているかも怪しい。持って後一年ぐらい。嵐が来たらそれよりも早く海に飲み込まれてしまうだろう。私は目を閉じた。今はなるべく疲れないようにすることぐらいしかやることが無い。まぶたは映画のスクリーンのように、大きな丸い玉になってこちらにやってくる大きな虫たちの姿をとても鮮明に映すけれど。

 カシ、というのがその虫の名前で、蛾のような形の生き物で人の顔ぐらいはある。羽は青いマダラ模様が鮮やかだったから、群れで地面に留まっていたりすると、キラキラと陽の光を反射する海みたいで綺麗、と最初の一日だけ思った。その時はただ作物を食い荒らすような虫だと誰もが想定していた。異常気象で害虫が他の島からやってくることは前にもあった。収穫時期にやって来られると困るけど収穫は半分ぐらい終わっている。私たちは野菜の上にネットを被せてぐらいしかしなかった。

 害虫が来ても、島に食糧は多くないからすぐに移動することが多い。だから、島の誰もそこまで心配していなかった。次の日に見たのは、網が吸われ萎れている光景だった。日照りにあった作物のように萎れて、地面にへばりついている。もちろん野菜は跡形も無かった。その網を拾おうと畑に行くと、土がフカフカになっていて足を取られた。カシは野菜を食べ尽くすと、地面まで吸い取った。カシの群れはどんどん島にやってきて、日中でも空全体を覆い尽くす。真っ黒い空と羽ばたく音が一日中続くのは、それだけで気分が滅入った。

 私たちはなるべくカシが入ってこないように家の中に閉じこもったけれど、今思えばそれがよくなかった。カシはとにかくなんでも食べた。ありとあらゆるものが餌となるので、そう大きくない場所でも長く留まることが出来る。私たちが家でじっとしていた間、島の岩盤まで柔くなった。手で触るだけでポロポロと崩れてしまう。波が島の輪郭をどんどん削っていった。

 カシが家の屋根や壁を吸い取るようになる頃には、避難指示が出るようになっていた。ビザの申請をして島の外に出られる人はすぐに出て行った。屋根にビッシリと青い羽が張り付いて、カシが一心不乱に吸い上げている。手で払う訳にも行かずに、ただされるがままに何もかもを奪われてしまった。カシは人も吸った。気がつかない間に吸い取られると、カラカラに乾き切った状態になって、手で触れると体が粉々になってしまう。屋根が崩された家族は、まだ家としての形を保っているようなところへと移っていく。三匹のこぶたの童話みたいに、死なないため強い家へと私たちは移動した。

 けれどどこかの隙間から、カシは入り込んでくる。島にあるホテルの一室に避難していた私の家族は、カシに吸われて死んだ。ある日起きると両親がベッドの上で乾ききってミイラのようになっていた。弟はベッドの上で苦しそうにしている。弟の口元には、小さなカシがとまっていた。まだ子どもだからか、上手く吸えないのかもしれない。私が弟に吸い付いているカシをぶちのめすと、弾みで跳ねた弟の左足がパラパラと崩れた。弟の唸り声があまりにも痛々しくて、涙が浮かんだ。すかさずカシが私の目を目掛けて何匹か飛んでくる。針のような口を突き刺そうとしてくる。右手で目を覆うと一匹のカシの口が刺さった。吸い取っている間は動きが鈍くなる。私は左手で胴体をつかむと、無我夢中で握りしめた。指の間を柔くブヨブヨとした何かがすり抜けていく。逃げようとするので羽を取ろうとしてもしっかり生えている。爪で羽の周りをえぐるようにして逃げられないようにする。生き物を殺している感覚が気持ち悪い。一匹であれば殺せるけど、両親を殺したのは何十匹というカシで、弟にもかなりの数たかっていたのだろう。カシを片付けた後には、涙も乾いてしまった。

 弟はそれからほんの数日だけ生きて、力尽きたように死んだ。葬るのは簡単で、ただ弟の体に触れれば良い。葉っぱが散るようになくなって、何も残らなかった。


 何人かが部屋から出て行ったけど、イミグレーションはなかなか終わらない。しかも対応する職員はあの大柄の男一人だけだ。今夜はこの部屋で一日過ごさなければいけないかもしれない。鞄の上に座ってしまおうかと考えていると、突然悲鳴が聞こえた。ガラス戸にぺたりとカシが張り付いている。私は急いで待合室の扉をピシャリと締めた。いつの間にか人が窓から離れたところに一塊になっている。私たちは避難に慣れきっていた。なるべくカシから遠くへ行く。

 私は躊躇なく靴を脱ぐと、窓に張り付いているカシに近づいた。息を殺して近づき、カシの羽が開ききったところで叩きのめした。一発で仕留めないと、カシは捕まらない。履き潰して靴底が平らになっている靴は、真ん中でポッキリ折れてしまった。ガラスが割れるかと思ったけど、カシが吸う前だったらしい。カシがぼとりと落ちた。まだ足が僅かに動いているその上に靴を置いて、私はまず動体と頭の部分を手で切り離した。気色悪い感覚は、生き物を食べようと捌くのとは全く違う。

「誰か! こいつ潰すの手伝って」

 私が叫ぶと、団子になっている人たちの中から何人かがノロノロと前に出てきた。私に倣って靴を脱ぐと、カシの胴体を叩く。どの靴も汚かった。カシの胴体からは緑色の粘液が出てきた。カシはしぶとい。首と胴体を切り離しただけだったら十日は生き延びる。殺すには、濾すように床と靴でひたすら擦り付けてバラバラにするしかない。各々が考えるやり方で、私たちは順々にカシを叩きのめした。どうかこれで最後になりますようにと思いながら。

 頭の部分がもぞもぞと動くと、火がついたように子どもが泣いた。口の部分だけを先に引き抜いて、靴の踵ですりつぶす。私は余計な水分を出すなと怒鳴りそうになって口をつぐんだ。ここには一匹だけしかカシはいない。子どもの母親が、周りにひたすら頭を下げている。

「カシをポケットに入れてたみたいなんです」

 宝物のように持っていたのか。とはいえどうしてそれを許したのか。今までのありとあらゆる検問の緩さがすごく気になった。子どもはポケットに手を突っ込んでいたらしく、涙を拭っている左手はカサカサになっている。誰かが子どもの腕からカシが突き立てた針を取り除こうとしていた。大人になぜこんなことをしたのか、と問われたのかもしれない。「だってこれしか持ってこれなかったんだもん」という子どもの言い訳が聞こえる。

 

 異変に気がついたのか、職員が待合室に入ってきた。自分の表情は、相手の顔を見て分かった。床に靴を擦り付けている私たちから、ゆっくりと視線を外す。ただの虫に見えるのだろうか。その虫を、大人たちが八つ裂きにして叩きのめしているように。モロモロと崩れていく地面を知らなければ、そう思うかもしれない。

 大きな体を羨ましく思う。カシに吸われるようなことなく、どうか大きいままで居ればいい。祈りのような妬みのような、なんとも言えない気持ちが腹の底で渦巻いていた。床にべっとりこびりついて死んでいるカシは、もう全く形を保っていない。職員がカシを指差して何か言った。部屋にいる誰も理解できなかった。

「ノーファミリー」

 間違っているような気はしたけど、私はそう答えた。



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イミグレーション 黄間友香 @YellowBetween_YbYbYbYbY

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