七話 修羅場その二
翌朝は王城の食堂で朝食を食べた。……もちろん。国王陛下、王妃様と一緒にだ。私はもうなんだか「どうにでもなれ!」と思っていたのであんまり緊張もしなかったけど。
王城の朝食はシンプルで、パンと卵とサラダとお芋と。それとチーズとベーコンとソーセージとお魚を炙ったものが別皿で出た。貴族の朝食としては普通よね。庶民の食事としては豪華だけど。
ちなみに庶民はパンとチーズが朝食の定番で、サラミとかタマネギとかオイルサーディンなんかを足す時もある。昼食夕食も家で食べる時は同じ。住んでる部屋では火が使えないからね。なので昼食夕食はほとんど屋台か居酒屋で済ませるのだ。
正直、私のお作法はもの凄く怪しかったと思う。そもそもが伯爵令嬢の私はそれほど厳しくお作法を仕込まれていない。それが七年間も庶民生活を送っていたのだ。うっかりお料理を手づかみで食べなかっただけ大した物だと思って欲しい。
私はお作法に注意するなんて無駄なことはせず、一応は丁寧な所作だけを心がけて美味しい料理をドンドン食べた。それを見て国王陛下と王妃様は目を丸くしていたわね。
「よく食べるのだな」
国王陛下が興味深そうに仰った。私は頷く。
「庶民の食事は朝が中心ですので」
昼食は仕事で食べられない事もあるし、夕食は外食になるから食べ過ぎるとお金が掛ってしまう。なので朝食をたっぷり食べるのだ。
一方、貴族女性は朝食の後にお出かけして、出先でお茶を飲みながらお菓子を食べたり、昼食会があったり、またお茶会があったりするので朝食は控えるのが原則だ。夕食は晩餐会や舞踏会に行けば豪華な食事をするしね。食べ過ぎると太る。
「ふむ。庶民は、か。これからは王太子妃になるのだから、朝食は減らした方が良いのではないか?」
国王陛下のお言葉に、私は思わず眉の間に皺を寄せてしまう。そうなのだ。このまま王太子妃になるのなら、庶民生活の癖は抜いて段々と貴族生活基準に身体も心も戻さなければならない。幸い、貴族の常識を忘れてしまっている訳ではないのだし、心がけ一つだとは思う。
問題は私の気持ちだ。私は本当に自分が王太子になるのかどうか、疑っていた。信じられなくてもおかしくはないわよね。何しろ一昨日まで私はまごうこと無く庶民だったし、ずっとそうだろうと信じていたのだから。
それが一夜にして激変して、貴族を通り越して王族になれなんて信じられないというか、変というか、色々おかしいわよね。アーバイン殿下が色々動いて万事整えてから私を迎えに来たからって、どうしてこんなおかしな事がまかり通ってしまうのか。
むーっと沈黙する私を見て、国王陛下も王妃様も若干慌てたようだった。
「ま、まぁ、急ぐことは無い」
「お茶会でお菓子を食べなければ良いのよ」
しかし、王太子殿下は涼しい顔だ。
「そうとも。別に太っても私の愛は変わらないからな」
そうかもしれないけど私が嫌なんですよ。太るのは! そもそも問題、貴方が私をこうも振り回しているのが悪いんじゃ無いですか。少しは責任を感じて下さい!
……と言いたい所なんだけど、なぜか言えないのよね。
本当は私、もうキレ散らかして良いくらいだと思うのよ。
こうも私の意志を無視して、無理矢理王太子妃へのルートが整えられて、逃げる事も出来ずにグイグイと押されている。それで色々無茶振りもされて、色々恥もかかされて、恥ずかしい思いもした。
私は別にもう貴族に戻りたいとも思っていなかったし、まして王太子妃になんてなりたいと思ってもいなかった。それなのに「王太子妃になれるなんて幸せね」くらいに思われているみたいじゃない? 羨まれて祝福されて、私の都合なんてほとんど誰も考えない。
ふざけるなー! 誰でもが王太子妃になりたいと思うなよー!
私は七年間も一人で生きてきたのだ。それは色んな人に助けられたとはいえ、必死に女一人で頑張ってきたのだ。この七年間は、私の人生は、私の誇りなのだ。
それを権力で奪っておいて「王族になって幸せになれるんだからいいだろう?」とか、ふざけるなー! 誰がそんな事を望んだのよ! 私の人生は私の物よ! 押し付けられる幸せなんて願い下げよ!
……と叫んでドレスを脱ぎ捨てて、下町に帰りたいのよ。ホントは。
でも、なぜかそれが出来なかったのよね。そんな事をしたら打ち首になりかねないという事はさておいても。
それは、王太子殿下。アーバイン殿下。ルークが私といられて本当に幸せだという顔をしていたからだ。
完璧な王子様だという彼のキラキラ笑顔。その表情には一片の曇りも無い。嘘がない。
私の手を引く彼の手は優しく、私に合わせる歩調はゆっくりで、ヒールの靴で怪しい私の歩みをさりげなくサポートしてくれる。私に寄り添い、腰を抱き、時に肩を引き寄せて私の髪にキスを落とす。
そういう仕草には私への愛が溢れている。これは誰がどう見ても、彼にとって私こそ待ち望んでいた想い人なのだと理解せざるを得ないだろう。私だってその熱量を嫌というほど感じている。
それを感じてしまうと、私はどうしても彼の事が拒絶出来ないのだ。今の私状況の全ての原因が彼なのだとしても、彼には悪意は無く何の企みも無く、私への想いと執着しかない。
私にとって迷惑でしか無いとしても、彼が私の為に現在進行形でしてくれている努力と気遣いは本物である。それを拒絶することが出来なかったのだ。
しかし、拒絶出来なければ、今のまま彼の意志に押されてこのまま王太子妃にまで押し上げられかねない。一体どうしたものか……。
◇◇◇
婚約披露宴二回目は夕方からなので、この日はそれまでアーバイン殿下に王城内を案内されて過ごした。私が知っている王城は、社交で使用されるほんの一部分だけだったので、広い王城を殿下と二人で歩けば色々な発見があって面白かった。
内城には、言われてみれば見覚えのあるところが幾つもあった。そう。ルークと遊んだところだ。私は当時は身体が弱くて走る事なんて出来なかったのだけど、庭園を散歩するくらいはした。小さなルークの手を引いてゆっくりとね。同じ庭園を私よりも大きくなったアーバイン殿下の肘に手を置いて歩くのは不思議な気分だった。
ルークのお部屋は、今は使われていなかったけど、見れば当時ここで彼に絵本を読んで上げたり、一緒にお絵かきをしたり、積み木の塔を積み上げたりした事がまざまざと思い出された。そうやってあの頃を思い出していると、その頃の幸せな気持ちもどんどん溢れるように思い出してくる。
どうして忘れてしまっていたのだろうね? 成人してルークに会えなくなって、その辺りからあんまり記憶が無い。もしかすると、ルークに会えないことが悲しくて無意識に記憶を封じてしまったのかもしれないとも思う。
貴族は成人すると、一気に大人としての振る舞いを求められる。お城に集められて子供同士で交流している時にはそれほど身分差を気にせず遊んでいるものなのに、大人になると階級差が厳然と個人の友誼の前に聳え立ってくるのだ。
貴族なのだからそれは当然の事であり、そういう切り替えがあったからこそ、私は王子であるルークとの思い出を封印しなければならなかったのかもしれない
そう考えると、王族であり家臣である貴族に気兼ねする必要の無いルークだからこそ、私との思い出や想いを消さずに保ち続ける事が出来たのかも知れないわね。
◇◇◇
婚約披露パーティ二日目は昨日とは違うホールで行われた。今回は昨日よりも少し身分が高い方々が集まっているようだ。人数も少ないため、広間の大きさも若干小さい。ここは広間に直接繋がっている王室専用口から入城すると、昨日と同じように拍手で出迎えられた。
今日はあまり戸惑っている方はいなかったわね。昨日のパーティに出た方々から、私の噂は既に社交界中に広まっているのだと思われる。貴族達はゴシップが大好きだから(庶民もだけど)突然現れた王太子妃がどんな人だったかなんてあっという間に全貴族の間に広まってしまった事でしょう。
なので昨日よりも遙かに皆様フレンドリーで、挨拶は何の問題も無く進んだ。どうも昨日よりも皆様に私が王太子妃になるという事が、既定の事として受け入れられているような感じがするわね。困るんですけど。
ダンスの時間が始まったので私は殿下と踊り、他にも求められたので数人の男性と踊った。踊っている内に段々と踊り方を覚えてくるのだから人間の記憶力というのは凄いものだ。ただ、私は体力が無いので三人の方と踊ったところで息が切れた。
四人目の方が近付いてきたその時、サッと殿下がやってきて私の手を取って、その方に言った。
「すまない。エステルは疲れたようだ。またの機会に」
王太子殿下に丁重に詫びられて、その方は恐縮したように頭を下げて去って行った。
アーバイン殿下はちょっと慌てたように私を椅子に座らせて、水のグラスを持って来させた。
「大丈夫か? エステル」
「それほど心配して頂かなくても大丈夫ですよ」
「君は身体が弱いのだから無理をしてはダメだ」
殿下は私の汗をハンカチで拭いたり、手首で脈を確認したり額に手を当てて熱を測ったりしていた。そんなに心配しなくても、子供の頃より私はずいぶん丈夫になったのだから大丈夫だと思うのだけど。
そういえば、ルークと王城で遊んでいた頃は、遊んでいる途中で熱を出したり気分が悪くなって別室に寝かされ、お父様が慌てて迎えに来た事があったわね。そんな時ルークは大泣きして私を心配してくれたものだ。あの頃の記憶が彼の心の傷になっているのかもしれない。
こんな風にかいがいしく殿下に世話を焼かれていると、やはり彼の強い愛情を感じて嬉しくなる。結局、私は色々状況に不満を覚えながらも、今まで受けたことのない男性からの強い愛情が嬉しくて幸せで、それで殿下の事が拒絶出来ないんだと思う。
それはアーバイン殿下の事が好きだという事なのかも知れない。男性の事を好きになった事が無いからよく分からないのだけど。
十三歳から十八歳まで、私は貴族令嬢として社交界で婚活に励んだ。私は長女でフィレックシア家唯一の子供だったから、婿を取らねばならなかった。それでお父様が選別した男性達と舞踏会で会って、場合によっては二人で何回か引き合わされたのだった。
しかし、どの方と会ってもピンとこなかったのよね。伯爵家の婿取りなので、お相手は侯爵家か伯爵家の次男三男が多かった。中には子爵家のご長男もいたわね。そういう方とお屋敷やお相手のお屋敷などで会ってお茶を飲んだり散歩をしたりして、お互いの相性を確認した。
しかし私はどの方と会っても全然心がときめかず「ま、お見合いなんてこんなもんなのかな?」としか思わなかった。その結果、どの方とも恋愛に発展せず、そんなではお相手の方も我が家に積極的に婿入りしたいと思えなかったのだろう。折しも王国を震撼させた詐欺事件の全容が明らかになり、どうやらフィレックシア家も巻き込まれたようだという事が明らかになり始めていた。
婿入り希望者は一気に少なくなり、結局、遂には我が家は破産して私は独身のまま庶民の世界に投げ出されたのだった。
庶民としても男性との付き合いは少なくなかった。代書屋のお客と仲良くなる事もあったし、居酒屋でナンパもされた。前にも言ったけど愛人にならないかと誘ってくる商店の店主もいたし、もう少し真剣にプロポーズしてくる男性もいないことはなかった。
でも私の感情が動かなかったのよね。私は貴族復帰はもう諦めていたし、庶民生活をするなら結婚した方が楽だとは思っていたから、結婚する気はあったのだけど。でも、全然愛していない人と結婚するのは嫌だったのだ。少しでも心が動く人と……、なんて乙女な事を思っていたらこの歳になっちゃったんだけど。
そんな私の心が初めて大きく動いた相手が、幼なじみであり私に強い執着を持ち、こちらの都合はお構いなしに私を王太子なんてとんでもない地位に押し上げようとするこの美男子殿下だったというのは、色々複雑な気分だった。
殿下の行動に不快感を覚えていながら、殿下からの愛情に私は確かにときめいていたのである。彼が向けてくれる愛情が嬉しくて、失いたくないと思い始めている。私はなんとも都合の良い自分の考えに呆れたのだけど、こんな素敵な人にこんなに大きな愛情を向けられて、ときめかない方がどうかしているとも思うのよね。
◇◇◇
一休みした後、私は出席者の方々と歓談した。殿下を支えるように抱き寄せて歩いてくれて、そういう殿下の事を見る出席者の皆様の視線は大変生温かかったわよね。
殿下はこれまで女性相手には手も触れない潔癖な方で、沢山いた婚約者候補にも基本的に塩対応。もしかして女性が嫌い、苦手なのではないかと思われていたようだ。王室の一人息子がそれでは困る。王家断絶の危機だとまで言われていたのだ。
そこに私が殿下に明らかに溺愛された様子で登場した。ああ、そういう事か。と思う方が多かったようだ。意中の相手がいたなら他の女性に目も向けなくても仕方が無いと。
そんな風な生温かい皆様の対応の中で歓談していると、一人の若い夫人が私を睨んでいるのが強く感じられた。なんでしょう? 私がそっとそっちを見ると、一人のご令嬢がきつい視線で私を、明らかに私を睨んでいた。
濃いめの黄色という派手なドレス。豪奢な金髪を頭の上で盛り上げ髪飾りで飾っている。顔立ちは美しいけどつり目で鼻が高くて性格のきつさが顔に出てしまっていたわね。全体的に自信に満ち溢れた身分高いご令嬢という感じだった。
ああいう方は他のご令嬢を従えて派閥のボスみたいな感じで社交界に君臨している事が多いのよね。私の同年代にもいたと思う。そんな彼女は暫く私を睨んで、そして意を決したように私と殿下の所にやってきた。
「あら、殿下。ご機嫌うるわしゅう」
彼女が声を掛けると、殿下の表情が明らかに曇った。
「ああ、サシュレン。息災か?」
クバッチャ侯爵家令嬢サシュレン様。ああ、例のアーバイン殿下の三人の婚約者最終候補の一人だ。もちろん、大名家のお嬢様で、昨日会ったエリーレイ様のロブライヤー家よりも格上のお家である。
「そちらが殿下の新しい婚約者候補ですの?」
サシュレン様の言葉に殿下のお顔がますます曇る。殿下はこのパーティに「婚約者に決定した」存在として私を連れて来ている。それを知りながら彼女は私を候補扱いにした。つまりサシュレン様は私を殿下の婚約者として認めないと言ったのだ。
そうよねぇ。それは昨日まで王太子妃を目指して研鑽を積んできた彼女としたら、いきなり出て来た私の存在なんて認められないわよね。分かる分かる。その調子で殿下を責め立てて下さいませ。今日は私は余計な事を言いませんから。
と思っていたのだけど……。
サシュレン様はキッと私の方を睨んできつい口調で言った。
「貴女! どこの誰ですか!」
「どこ、とは?」
「無礼者! 私が質問しているのです! 家名と身分を名乗りなさい!」
……流石は侯爵令嬢ね。私は仕方なく答えた。
「フィレックシア伯爵家令嬢、エステルですわ」
「伯爵家令嬢!」
サシュレン様はそれはもう「小馬鹿にする」を体現したような表情と口調で言った。
「伯爵令嬢ごときが王太子殿下の婚約者になれる訳がないでしょう! しかもこの夜会は侯爵家以上しか招かれない格の高い会ではありませんか! なんで貴女は今ここにいるのですか!」
……ごもっともだと思うけど、その言い方はどうかと思いますよ。実際、周囲の方々もあまりに高飛車な態度のサシュレン様に引いている。身分を振りかざし、相手を上から叩き潰すような態度は、貴族の間でもあまり上品な事とはされないのである。
「とっとと出て失せなさいな! 貴女なんかにアーバイン殿下は渡しません! 王太子妃はこの私のような高貴な者にこそ相応しいのです!」
……プチっと、頭の中で音がした。
それでなくても一昨日からの我慢我慢で私の辛抱は限界だったのだ。心の中で鬱屈が溜まりまくっていたのだ。それがこの高飛車娘の態度で限界を超えてしまったのである。
堪忍袋の緒が切れれば、後は溜まっていたモノが一気に吹き出すしかない。サシュレン様は運が悪かった。私の鬱屈のほとんどは彼女のせいではなかったのに、正面に居たが為に全てをぶつけられる事になってしまったのだから。
「言わせておけばいい気になりやがって! この小娘が!」
私はぐわっと叫んだ。口から飛び出したのはこの七年間で身に付いた平民口調だ。
「侯爵令嬢がどうしたっての? こっちは伯爵令嬢どころか庶民の女ですけどね! あんたなんかに舐められるいわれはないわよ!」
庶民の間では初手で相手に舐められると大変な事になる。買い物だって店の店主は相手によって値段を変えるのだ。弱気な相手には高く売るのである。それを防ぐには何よりもまず舐められないことなのだ。
そんなだから庶民の間では力関係が確定するまで傍目からは喧嘩でもしているのではないかという程の、駆け引きという名の怒鳴り合いが繰り広げられるのだ。もちろん私も七年間、そういった怒鳴り合いを繰り広げてきた。そして相手に舐められない方法を身に付けてきた。本気を出せば幾らだって罵詈雑言を相手にぶつけられるわよ。
そしてこの時、私は完全に切れてしまって、まったく遠慮をするつもりが無かった。
「ろくに立って歩いた事もない十三、四の小娘が偉そうな事をお言いでないよ! どうせ一人では下着を履いたこともないくせに! それとも未だにママのおっぱいしゃぶってるんじゃないの? おねしょもしてるんじゃないの? ションベン臭い小娘が!」
「な、なななななな……!」
突然雨あられのように罵声を浴びせだした私にサシュレン様は目を白黒させるばかりだ。しかし私は止めない。大声で怒鳴って高速で罵詈雑言を叩きつける事で、相手に反論の余地を与えないのは庶民の間の重要な交渉術である。
「偉いのは侯爵であんたじゃないでしょう! 自分では何も出来ないのになんでそんなに偉そうな顔が出来るのさ! 悔しかったら下町であんたも稼いで見なよ! あんたじゃ銅貨一枚稼げないだろうけどさ!」
初めてお給金を代書屋からもらった時は嬉しかったなぁ。あの時の誇らしい気持ちは今でも忘れられない。この娘には一生分からない感情だろうけどね。
「だいたいその下品な格好はなに? 自分の姿を鏡で見たことあるの? 他の皆様を見れば分かるじゃないの。浮いてるわよ貴女! 自分の事ばかり考えて他の人の事を慮らないからそんな事になるのよ! そんな女が王太子妃になんてなったら王国の災厄よ!」
興奮してまくし立てている私はサシュレン様が涙目で震えだしたのにも気が付かない。
「身分を振りかざせば何でも通ると思うなよ! この勘違い娘が! そんなの、表では謙って裏ではあんたの事を笑ってるに決まってるじゃないの! そんな事も分からずにいい気になっているなんてとんだお笑いだわ! あんたなんかが下町をそんな態度で歩いたら、あっという間に騙されて身ぐるみ剥がされておしまいよ! そんな馬鹿娘に名乗られたら侯爵家の偉大なご先祖様が泣くわ! 今すぐ家名を返上しなさい!」
「え、エステル! そのくらいで……」
さすがに殿下が止めに入ったのだけど、殿下のお声も私の耳には入らない。
「侯爵令嬢には、王太子妃には、それに相応しい人格や性格ってものがあるでしょうよ! あんたなんかにはそのどちらも相応しくないわ! 貴女こそ今すぐここを出て失せなさい!」
既にしゃがみ込んで縮こまってしまっているサシュレン様に、私はのし掛かるようにして指を突き付け、怒鳴りつけた。
「ひ、ひ、ひゃあああああぁぁぁぁああ!」
遂にサシュレン様は泣きながら奇声を上げ、這いずるように逃げ出し、何回も転びながら会場からも出て行ってしまった。私はその背中に更に追い打ちを掛ける始末だ。
「二度と私の前に出てくるんじゃないわよ!」
ふんす、と鼻息を吐いて、ようやく私は気が済んだ。ああ、さっぱりした。代書屋でも無礼な客、失礼な客はたまにいて、そういう客は今の要領で何回か叩き出してやったものだ。その度にラドや店の仲間、たまたまいたお客なんかは大喝采をしてくれたわね。
……問題は、ここは下町の代書屋ではない事なんだけど……。
興奮が次第に冷めるに従って、状況を思い出してくる。……やってしまった。これは、完全にやってしまった。冷や汗を流しながら、周囲を伺うと……。うん。皆様、完全に引いていらっしゃる。目を丸くして口を開けて呆然としていらっしゃるものね。
い、一体どうしたものか。どう取り繕ったものか……。さすがに私が硬直していると、アーバイン殿下がコホンと咳払いをした。
「う、うん。先に無礼を働いたのはサシュレンなのだから、何も問題は無い。私と婚約した時点でエステルは準王族だ。君の方が身分が高いのだからな」
それだと私が身分を盾にサシュレン様を罵倒した事になってしまうので嫌なんですけど。しかし、他に上手い言い訳が見当たらない。
結局私は、おほほほほと曖昧に笑っているしかなかったのだった。
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