三話 王城に向かう

 アーバイン殿下は「さぁ。王城に行こう。それ行こう」と誘ってきたんだけど、はい分かりましたとはとても言えなかった。それはそうよね。ちょっとは私にだって考える時間が欲しかったし、それにもう日が暮れてしまった。明日も仕事に行かなければならない。


 なので私は連れて行こうと粘る殿下を何とか説得した。明後日、明後日になら行くからと。


 明日中に代書屋の主人と話を付けて二、三日休みをもらおう。そうしたら一度王城に行こうと私は考えていた。


 そして三日ぐらい休みをもらって王城に行ったら、国王陛下と王妃様と、大臣のお偉いさんあたりと一緒に殿下を説得しよう。そして求婚をなんとか断ろう。私はそう決意していた。


 だって無理に決まっているもの。八年も下町で暮らして、何もかも庶民に戻ってしまった私が王太子妃、将来の王妃様になるなんて。どこの誰もが認める訳がないし、私だって出来るとは思えない。なりたいとも思っていない。


 だって、王妃様といったらそれは大変な地位なのだ。国王様の補佐をして、国王陛下が戦争や外交のために王都を開けている時には、変わって国内を治めなければならない。その時には並み居る大貴族の皆様を束ね、統制して時には厳しく罰しなければならないのだ。実際、国王陛下不在の時を狙って反乱を企む者も昔はいたそうだからね。そういう際に毅然とした対応が出来る、凜々しい女性こそ王妃に相応しいのだ。


 伯爵令嬢としてそれほど厳しい教育を受けたわけでもなく、しかも八年も呑気な庶民として下町暮らし。税金高いよね~。王様もっとしっかりして欲しいよねぇ。と酒場で町のみんなと愚痴っていたのがここ数年の私なのだ。その愚痴られる対象に今更私になれと? 勘弁してよ。無理よ。絶対に無理!


 アーバイン殿下は帰るのを渋った。嫌だ。君と一緒じゃ無きゃ帰らない。もう暗いというのなら、明日の朝まで待つ、と言い張った。下に馬車を待たせているそうで、別に暗かろうが何だろうが大丈夫だ。君の入る部屋ももう王城に用意してあるとか恐ろしい事を言っていたわね。


 私にも都合がある、別に逃げも隠れもしないから、明後日には必ず行くからと私は殿下を一生懸命説得した。殿下はもう私を抱き上げてでも連れて行く気満々で、そんなに私と行きたくないのかと泣きそうな顔までしていた。そんなお顔をすると幼い頃の殿下の面影を見付けてしまってちょっと胸が痛かったけどね。


 どうにかこうにか、納得して頂いて、殿下にはお帰り願った。「必ず、明後日、絶対。朝早くに迎えに来るから!」と何度も何度も念押しして、殿下は私を振り返り振り返り階段を降りていった。……ドアを閉めて鍵をして、私はぐったりと床に崩れ落ちた。……何? これ。本当にこれ、現実なの?


 私は何とかベッドに倒れ込むと、あまりの事に頭の中が過負荷を覚えたせいだろうか、ぷっつりと意識が途切れてしまい、そのまま朝まで起きなかった。


  ◇◇◇


 翌朝、なんとか起きて私は代書屋に出勤すべく部屋を出た。しっかり寝たはずなのに頭の中はグルグル回っているような状態だ。パンとチーズの朝食も食べる気にならない。重い足を引きずりながら階段を降り切ると、一階の雑貨工房のおかみさん(私の部屋の家主でもある)に捕まった。


「なんだいありゃあ! 何処の誰なんだい! 凄い馬車だったじゃないか!」


 昨日の夕方、ここの前に黒塗りの、大きな馬車が止まっていたらしい。もちろん殿下が乗ってきた馬車だろう。黒塗りの馬車は貴族のお忍び用の馬車なので、一応殿下は人目に付かないように気を遣ってはいたらしい。こんな下町に馬車が来る事自体、滅多にない事からそんな気遣いは無駄なんだけど。


 降りてきたのはフードを被った大男で、女将さんに私の在宅を確かめると階段を上がって行ったらしい。


「ありゃ、顔は見てないけど、いい男だよ! そうに違いないさね! あんたにも遂にいい男が出来たんだね? そうなんだろう?」


 と詮索してくるおかみさんに、私は乾いた笑いで応えるしかなかった。ええ。いい男ですよ。身分といい、容姿といい申し分無い。いや、私には過分過ぎるんですよ。そんなことはもちろん漏らせない。


 おかみさんの追求を曖昧に誤魔化して、私は代書屋に向かった。


 代書屋に入ると、主人のラドが慌てたように声を掛けてきた。


「おい、エル、辞めるってのは本当か?」


「は?」


 私は目が点になってしまう。な、なんですかそれは?


 何でも昨日の夕方に私が帰った後、フードを被った男が訪ねてきた。そして、私の事を色々尋ねた後「エステルは結婚するからここを辞める事になるだろう」と言ったそうだ。何してくれてんですか! アーバイン殿下!


 私は慌てて「絶対に辞めません!」と言い切ろうとして、躊躇ってしまった。アーバイン殿下がああまで私を妃にすると断言している以上、そう簡単に私は庶民生活に戻れない可能性がある。王城で彼を説得して、戻って来れれば良いが戻れなかったらラドに迷惑が掛る。


 それで、私は口を濁すような良い方しか出来ず、ラドは困ったような顔になってしまった。


「エルはお客から評判も良いし、物知りだから頼りにしてるんだよ。辞めないでくれよ、な?」


 私だって辞めたくはありませんよ。でもとりあえず三日の休みは申請して許可をもらった。三日で帰って来れるかどうかは甚だ怪しいけどね。


 翌日、私は早朝に出掛ける準備をした。一応、よそ行きの綺麗な服を着て、三日分の下着は用意して買い物用の手提げ袋に入れた。絶対に早朝に迎えに来ると殿下は強調していたので夜が明けるなり私は暗い階段を降りていった。


 いましたよ。出口の扉を開けたらもうそこに、黒塗りの大きな馬車がドーンと停まっていた。……流石は王族の馬車。お忍び用でもこの立派さだ。ちなみにこういう黒塗りの馬車は、貴族が平民街の飲み屋やギャンブル、そして娼婦のところに通うための馬車で結構ありふれている。だから平民もこれは貴族の馬車だと分かっていることだろう。


 だから私は大急ぎで、御者が開けてくれる前に自分で馬車のドアを開けてさっさと乗り込んだ。なるべく人に見られたくなかったからだ。でも、どうしたってこっそり観察しているだろう下宿のおかみさんなどには見られてしまって、後で近所中が大騒ぎになるだろうけどね。


 四人掛けの馬車の中には当たり前だけど灰色のスーツに身を包んだアーバイン殿下がいた。突然入って来た私に一瞬厳しい目付きをしたけど、私だと気が付くと表情が溶けた。


「ああ、エステル! 来てくれたんだね」


「約束ですので」


 アーバイン殿下は自分の隣を指し示したけど、私は無視して向かいの、しかも斜め前に座った。殿下は苦笑する。


「怒ってるのか?」


「怒ってなんていませんよ。それより、誰かに見られる前に早く行きましょう」


 私が言うと、殿下は頷いて御者に合図をした。馬車は静かにゆっくりと動き出す。私は無意識に息を吐いた。対照的に殿下は嬉しそうだ。


「今迎えに上がろうと思っていたのだ。自分から来てくれてびっくりしたよ」


「あんまり目立ちたくないんです。どんな噂になるかも分からないですから」


「噂って言ったって、君はもうここに帰ってくる事はないんだから構わないではないか」


 殿下の無邪気な言葉に私は思わず顔を両手で覆う。分かってる、殿下には悪気なんてない。彼は自分の希望を叶えるために行動しているのであって、私を困らせたり怒らせたりする気なんて無いのだ。しかしながら……。私にだって言いたいことはある。


「……どうして私の職場に『辞める』なんて勝手に言ったのですか? 困るじゃありませんか」


「? だって辞めるだろう? 王太子妃になって仕事なんて続けられない。無断で君が消えたら向こうだって心配するし困るだろうと思ったのだ」


 殿下的には一昨日の夜に、私を王城に連れ帰る気でいたんだものね。代書屋に筋を通すためにああ言ったらしい。どこかずれているが、気を遣ってくれたのだ。一応。


「私にだって生活があるんです。それを勝手に掻き回されたら困ります。迷惑です」


「? お城に入れば、新たな生活が始まるんだから、以前の生活は捨てざるを得ないだろう?」


 ……話が噛み合わない。


 アーバイン殿下としては、庶民生活をしている私は困っていて、その困っている私を助けて上げる、くらいの間隔なのだろう。そりゃ、毎日頑張って働いても些細なことで困窮に陥るような庶民生活よりも、王国貴族の贅沢な生活の方が恵まれているのは間違い無い。私だって庶民落ちしてすぐはその落差に悩んだし、貴族生活を懐かしみもした。


 しかし、もう七年である。その間一生懸命生活してきて、私は庶民生活にも慣れ、次第に仕事にも生活にも愛着が湧いてきていたのだ。町の人との付き合いも楽しく、女性一人でありながら役割を持って下町に受け入れられて行く自分が誇らしくもあった。


 それを横から出て来ていきなり捨てるよう強制されては良い気分はしないわよね。殿下にはその辺を分かってもらいたいところなのだ。無理だろうけどね。


 庶民と貴族の考え方には落差がある。貴族は庶民は従って当然の存在であるとしか考えていない。そして庶民には貴族というのはなんだか分からない存在だ。貴族は庶民を罰する事が出来る。なので庶民は貴族を恐れているのだけど、なんで貴族にそんな権利があるのかは知らないから、むやみに恐れて煙たがっているのだ。


 私は両方を経験して、貴族は国のために色々働いて、戦争の時には率先して戦いに向かうのだから、そのために多少は庶民に無理を言うのは当然だという事、庶民はそんな事を知らないから税金をどんどん持って行かれて困るし、理不尽な無茶振りもされて困るとしか思われない事、を知っているけどね。


 王族は更にその上にいるのだから、多分庶民とも貴族とも違った理屈で動いているんだと思うのよね。だからアーバイン殿下の感覚は私には理解出来ないのだ。同時に、私の庶民的な感覚は殿下にも理解出来ない。


 庶民の生活は毎日毎日、結構ギリギリの所を渡って歩いている。例えば大きな病気で何日も寝込めば、その間仕事が出来ず収入が絶たれてしまって途端に生活に窮するだろう。なので毎日毎日一生懸命に生きている。そうして生きている私にとって、殿下にこうして連れて行かれ、何日も家を空けて仕事も出来ないというのは庶民としての生活の危機なのである。そういうところが殿下には全然分かっていないのだ。


 一方、殿下は私を王太子妃にするつもりでいるから、そんな生活は捨てて忘れて当然だとも思っている。王族にとって貴族や庶民への無茶振り、色々な事を強制するのは当然の事だから、それで私が不快に思ったり苦しんだりするなんて夢にも思っていないんだと思う。これはアーバイン殿下が鈍いと言うより、王族の思考方法はそうなのだ、としか言えないわね。


 アーバイン殿下は私が不機嫌なのを見て戸惑っていた。彼としては私と再会して嬉しく、自分の希望どおり私と結婚出来るのが嬉しいという気持ちしか無かっただろうからね。そして当然私も喜ぶとも思っていたのだろう。それを考えると可哀想な気もするけど、私の気持ちだってそう簡単に整理は出来ない。


 途端に馬車の中の空気はぎこちなくなってしまった。二人は会話をする事も無く馬車に揺られながら、王都の中央にある王城に向かった。


  ◇◇◇


 王城は白壁と青屋根の尖塔が何本も立ち上がる美しく華麗なお城だ。気が遠くなるほど久しぶりよね。最後に来たのはお家が没落する少し前だ。王城では毎夜のように舞踏会が開かれていて、私もお父様に手を引かれて参加をした。


 舞踏会とは要するに婚活パーティで、ここで男性と親しくなり、そして家同士の話し合いが上手く行けば結婚するのである。


 もっとも、私が十六歳の頃から実家は詐欺事件に巻き込まれ始めていて、我が家の将来には暗雲が漂っていたため、私の結婚はなかなか決まらなかったのよね。決まっていたら困るところだったかもしれない。実家の没落に嫁入り先を巻き込んでしまったかも知れないし、それを避けるために離縁されてしまったかも知れないもの。


 そんな事をぼんやり思いながらお城の入り口で馬車を降りる。私の格好は紺色のワンピースに前掛け。ボディスという全くの庶民服で、一応は綺麗なものを選んだから王城でも全くおかしいという事はない筈だけど、それでも貴族入り口から華麗な装飾が施されている廊下を歩けば流石に場違い感は半端ない。


 殿下は幸せそうな、誇らしげな顔で私の手を引いて歩いているけど、周囲の侍女や侍従は見るからに怪訝そうな顔をしている。そりゃそうよね。誰よそれ。何者なのよと思うに決まっているわよ。私だって自分がなんでここにいるのか、イマイチ分からないでいるのだもの。


 やがて、白地に金の草花の装飾が施されたドアに辿り着いた。


「ここが当面、君の部屋になる」


 ……部屋が用意してあるというのは聞き間違いでは無かったらしい。ドアが開くと、それは緑系統の落ち着いた色合いで内装が統一された、お洒落な部屋だった。フカフカの絨毯が敷き詰められていて、部屋の奥には大きな暖炉。中央には天蓋の付いた立派なベッドがある。


 中には侍女が数人いて、頭を下げていた。


「君の侍女だ。好きに使ってくれ。では、後で」


 殿下は私の手にキスをすると足早に部屋を出ていった。……こんな所に置き去りにされても困るんですけど……。


 侍女の一人が私の側にやってきた。中年の女性である。


「エステル様。まずはお風呂に入りましょうか」


 どうやらお風呂に入ってドレスに着替えさせられるらしい。まぁ、そうよね。確かにこの格好では場違いだ。王城は貴族の領域。貴族の格好で無いと堂々とした態度でいるのは難しい。……って、当たり前のようにドレスが用意されているのが怖い。一体何処で寸法を取られたのかしら。


 侍女はなぜか私の事をまじまじ見て頷いた。


「お綺麗になられましたね。エステル様」


「あら? どこかで会ったかしら?」


 ふくよかな半白の髪の女性で、小さな丸眼鏡をしている。柔らかな表情。見覚えがあるようなないような。王宮には侍女はたくさんいるしね。


「王子が幼少の頃よりお世話係に付いていました。それで、当時にお会いしていましたよ。ハマニーと申します」


 ……十二年も前の事だ、それは覚えていない。でも多分だけど、ルークが一番懐いていた侍女だったような気がする。多分、旧知だから気易かろうと私に付けて下さったのだろう。そういう気遣いは出来る方なのだ。


 ハマニーは私を見て涙を拭った。


「王子の宿願が叶って私は嬉しゅうございます。お二人は当時からお似合いだと思っていましたので」


 ……十歳前後の少女と三歳くらいの幼児を見て将来が想像出来たらおかしいだろう。多分、ハマニーだって当時はそんなことは思っていなかったに違いない。しかしその後、アーバイン殿下が私の事を一途に追い求め、一生懸命努力してきたのを、彼女は侍女として間近で見守り続けていたのだと思う。


「さ、私が腕によりを掛けてお身体をお手入れして、お洒落に綺麗にしてさしあげますからね」


 とハマニーは私をバスルームに誘った。他の侍女もテキパキと動いてお風呂や着替えの準備を始めている。なんというか、私は段々自分が深みに嵌まって行くような感覚を覚えて、深々と溜息を吐いたのだった。

 

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