第15話 葵の返事


 さあっと緑の香りがする風が吹き抜けていった。


 まもるは、正一郎の言葉に驚いて、返す言葉が出てこない。

 そうだったらどんなにいいだろうかと、ずっと思い続けていたことが、今まさに現実に起きている。


 その反面、この数か月もの間、全く音信不通の状態に自分の方からしてしまったことに、とても深い痛みに似た感情が沸き上がってきた。


 葵は、何かを応えようと口に力を入れようとするが、なかなか思うようにのどが動いてくれない。


「あ、ああ――」


と、ようやく音のようなものが漏れ出す。


 その間、いったいどれほどの時間がたったのだろうか。もうそんな事すらわからない。

 ただ、正一郎はずっとまもるの瞳を見続け、決して目を逸らそうとはしなかった。


「わ、わたし、うれしい――」


 ようやく出てきた言葉はそれだった。でも、これでは正一郎の言葉に答えたことにはならないことを、まもるはもちろん充分に理解している。


「――あ、わ、わたしも――!」

 

 感情があふれて、抑揚よくようがうまく取れない為、なんだか叫んでしまったような声色に、自分自身でも驚いて、


「あ、あの、ずっと、好き、だったよ?」


と、ようやく言葉にする。



 しかし、その言葉を聞いた正一郎はすぐに何らかの反応を示してはくれなかった。

 ただじっとまもるの瞳を見続けて、そして、数秒がすぎる。


「え、えと――」

まもるがこらえきれず言葉を発した瞬間だった。


 正一郎はだっとまもるに向かって一歩踏み出すと、その勢いのまま、まもるを強く抱きしめた。


 正一郎の背とまもるの背の差は頭一つ程であるため、まもるの顔は正一郎の肩口辺りに包まれる格好になる。

 

 真夏の昼間のことだ。

 

 正一郎の汗と体臭がまもるの鼻から頭に突き抜けるが、不思議と安心感はあっても決して嫌だとは思わなかった。

 ただ、逆に自分の髪にかかる正一郎の息遣いが気になる。


「――よかったぁ」


 と、頭の上から正一郎の声が聞こえた。


「うん。わたしもよかった――」


 二人はその数瞬だけ抱きしめ合っていた。が、正一郎が自分の行動の大胆さに気が付いて、慌ててばっと体を引き剥がす。


「ご、ごめん、つい――」

「ううん。ありがとう」

「え?」

「ううん。いいの」


 正一郎がまもるの発した言葉が理解しきれていないようで戸惑っているが、そんなことは今は構わない。それよりも、この幸せな時間をもう少し一緒に過ごして居たい。


「歩こっか――」

「ん? ああ、そうだね」


 まもるの言葉に正気を取り戻しつつある正一郎が応える。

 その言葉を確認した葵は、緑地から通りの方へと向けて歩み始めた。


 しゃくしゃくという足音が、やがてざっざっという音に変わる。

 少しずつ周囲の音が戻ってくる。

 

 み~ん、み~ん、み~ん、みぃ~……。


 今年も同じ蝉の声が響いている。



――――――



 その翌日から、二人はほぼ毎日夏休みを共に過ごした。


 予備校の夏期講習はさすがに合わせて受講していたわけではないので被ることはなかったが、講義終了後に待ち合わせて、駅まで歩く間に、必ずあの「マツの木」に立ち寄って日が暮れるまでずっと話をした。


 そうしてとうとう夏休みが終わる頃、この先も休みの日には予定を合わせてまた会おうということで合意し、わかれた。



 9月に入り、授業はすでに数日が経っている。

 

 ようやく最初の週末が訪れようとしていた。


(明日、まもるに会える――!)


 正一郎は、この数日をどれほど待ち侘びたか。

 SNSのやり取りは復活していて、ことは出来ているので、幸せな気分に包まれてはいるが、やはり、文字だけからだけでは「情報量」が少なすぎて満足するには到底足りない。


 あの柔らかいふわりとした感触や髪の香り、彼女の手の小ささや、首の細さなど、どうしたって、「実物」と「記憶」との間に生じる「差分ギャップ」がうまれてしまうのだ。

 その「差分ギャップ」をできる限り無くしたい、と、正一郎は思うのだが会わない時間が長ければ長いほどに「差分ギャップ」の差が開いてゆく。

 正一郎は、その記憶の中のまもるの形が無くなるのと同時に、「現実」世界の葵も消えてしまうのではないかと、よくわからない感情が沸き起こっている。


(とにかく、明日だ――)


 正一郎は早く夜が明けてくれと願いながら、やがてようやく記憶が途切れた。 

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あの夏の日この手を伸ばしていたら君をつかまえることが出来たのに 永礼 経 @kyonagare

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