あの夏の日この手を伸ばしていたら君をつかまえることが出来たのに

永礼 経

第1話 夏の日


 みーんみーんみーん、みぃー……。

 みーんみーんみーん、みぃー……。


 今日も日差しがきつい。

 この御苑の木々に幾十幾百と張り付いているだろう蝉の声が暑さに拍車をかけてくる。


 正一郎しょういちろうはこの一週間、毎日この御苑を歩いていた。

 だがそれももうあと3日で終わりを告げる。そうすればこの暑さとも、そして、あの子とも永遠に「サヨナラ」を迎えるのだろう。


 今年15になる正一郎は今年度の終わりに高校受験を控えていた。母や先輩の勧めによって、あまり気乗りはしないまま、この街の進学予備校が開く夏期講習に参加していた。

 そこそこ名の通った予備校であったため、この夏期講習に参加しているものは近隣の各県からもやって来る。そして、つかの間の「仮のクラスメイト」として、講習期間を同じ教室で過ごすのだ。


 その子、「葉山葵」を見たのは最初の授業の日だった。自分の席から見て3つ左隣の席に座るその子を始めて認識したのは、前から回ってくるレジュメを後ろの席に渡すために振り返った時のことだ。

 もちろん始めは名前すらわからない。なぜなら、席次は全て番号が振られているだけで、ネームプレートがあるわけじゃないからだ。

 ただ、一目見て、なんと言うか、「気になる」と思ってしまった。


 未来になって、こういうのを振り返ったり、人に話したりすると、おそらくこういわれるのだろう。


「一目惚れ」


だと。


 事実、夏期講習が始まってから一週間を過ぎるというのに、他の「クラスメイト」の女子の顔は一向に思い出せないし、おそらく、駅から予備校までの間に隣やすぐ前を歩いていたとしても全く気が付かないだろう。


 だけど、「葉山葵」だけはしっかりとわかるのだ。


 正一郎が彼女の名前を知ったのは、講習が始まった3日目の一限目が終わる時だった。

 講習期間中、皆の気分転換も兼ねてだろう、2日に一回席替えが行われることになっている。そして、その日の席替えで、正一郎と葵は同じ列になった。正一郎の方が葵の2つ前である。


 この夏期講習のプログラムは、一日4限構成になっており、1限目と3限目には模擬テストが行われる。そして、2限4限でそれぞれの解答解説が行われるという訳だ。


 彼女の名前を知るチャンスが訪れたのはテストが終わって解答用紙を集めるときのことだった。回収方法は一番後ろの席から順に前に渡すという方法だったため、正一郎は意を決してその瞬間を待っていた。

 果たして、後ろの席の○○君が正一郎の肩越しに解答用紙を突き出してくる。正一郎は素早くそれを受け取ると、自分の解答用紙を上に重ねるときに、「2枚下の」答案用紙の名前欄に目を通したのだ。


 「葉山葵」と、そこには女子らしく柔らかい筆跡で名前が書かれている。


 (はやまあおい――?)


 正一郎は素早くそれを頭にインプットすると何食わぬ様子で前の席に解答用紙の束を送った。


 ――何やってんだか。名前を知ったところでどうするんだよ? 彼女も夏期講習に参加しているだけの中学3年生だ。住んでるところだってわかりゃしない。それに、『お前』なんて、隣の県からここに通ってるんだぞ? この夏期講習が終わったらもう二度と会うことはない子だ。そんな子の名前を知っていったい何を考えている?


 正一郎は自分にそう戒めた。


 だが、次の日になっても「葉山葵」の名前は頭から離れない。

 どころかだ――。


 今朝はやばかった。

 正一郎は隣県からこの講習に参加しているため、予備校の最寄りの駅までは電車を乗り継いで来ている。毎日一番前の車両の一番先頭の扉から乗って、降車時はその扉から降りるのだが、その日もいつものように先頭車両の先頭の扉付近に乗っていると、降車駅の3つ前の駅で「葉山葵」が乗り込んできたのだ。


 なんという偶然――。

 いや、いつもと違うことが「一つ」あった。


――ああ、そうか。今日は「一本早い」電車に乗ってるんだ……。


 もしかしたら、「葉山葵」は毎日この時間の電車に乗っているのかもしれない。


 こちらは当然のごとく、彼女の存在に気が付いているのだが、おそらくのところ彼女の方は全く気が付いていないだろう。

 それは「ある意味」、正一郎にとっては幸運なことだった。


 正一郎にとっても「仮のクラスメイト」の名前も顔も一致しない状況なのだから、「葉山葵」にしても同様に、正一郎の名前も顔もわかるわけはないのだ。

 そしてそれは至極当たり前で、別におかしくもないことだ。


 だが、正一郎は、気付くわけもないことに対して、「出来れば気付かないでほしい」と、そう願っていた。


 降車駅に停車し、扉が開く。


 正一郎は「葉山葵」の後ろ、数人あとに電車を降りた。

 階段を上がってゆく彼女の長い髪がゆらりゆらりと揺れている。背中側から見るのはそれほどの機会が無かったため、これまであまり気が付いていなかったのだが、彼女の髪に付けられたエメラルド色の髪留めがやや黒目の彼女の髪色に映えて美しい。


 地下鉄の階段を上がって屋外に出ると、少し先の『御苑』の入り口から真っすぐに抜けるのが一番の近道だ。降車した人たちの中には正一郎と同じ年代の男女がその『御苑』に入ってゆく姿もちらほらと見える。

 そしてそれは、「葉山葵」も同じだった。


 このままでは自分はずっと彼女の後ろをついてゆく恰好になる。そしてその行く先は同じ、講習の教室だ。つまりそこまでずっと彼女の後ろを歩いてゆくことに他ならない。


 正一郎は、なぜか鼓動が速くなった。


――それは、やばい。


 と、思い込む。よくよく考えれば何も「やばくはない」のだが、人の自意識というものは意外と厄介だ。


 そう思ったらいてもたってもいられなくなり、歩く速度が一気に加速した。

 そして、『御苑』の通りの中盤あたりでようやく彼女を捉えると、速度を落とさずに歩みを進めた。

 ようやくの想いで彼女を抜くと、そのままの速度を保って予備校まで辿り着く。


 いつもより速い速度で歩いたため、汗が噴き出して止まらない。幸い、教室にはすでに冷房が入っているため、吹き出す汗を拭いながら体の火照りが収まるのを待ち続けた。

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