休暇届にサイン 2

「35歳独身、資産は天文学的、セレブリティの未婚子女からは羨望のまなざしで見られているアルフォンス・ミラーの幸せが、筋トレですか……」


「そういうことじゃないんだけどな」


 懸垂をやめて、少しストレッチして、サイドのテーブルに腰掛けて、メリッサが用意しておいた特製サンドイッチを食べる。普通のサンドイッチではない。白身の肉をオリーブオイルでしっとりと焼き、挟んでいる野菜は湯通しした後、水気を払った温野菜。パンは玄米パンだ。健康第一なのである。


「うん。美味しい」


 ぱああとボスは笑顔になる。


「だいたい、いつまで私がこれを作れば良いんですか? もうレシピは固定したんですから、業者に作らせれば良いでしょう」


「だって君が作ってくれたんだから、君が作り続けるのが道理だろう」


 ぐっ、とメリッサは抑える。秘書業が忙しい中、ボスがあまりにも無機質な食事を続けるものだから、もうガマンができなくなって考案したレシピだ。確かに、言い出して食べさせたメリッサがこれを作るのは道理かもしれない。


「だいたい、もっとまともな休暇を――」


「時間だ」


 ボスは上着を羽織り、執務机に戻る。こうなると話しかけても業務以外は言葉が返ってこない。


 このくそ仕事中毒者ワーカホリックが――大好きだ。


 メリッサはボスの目がモニターに向いているのを確信しているので、その場で頬を赤らめた。メリッサの人生はボスのお陰で変わった。それだから好きだという訳ではないが、大きな要因ではある。


「ではボス、サインをお願いします。休暇届です」


 メリッサは深呼吸してタブレットを手に執務机に着くボスの横まで来た。


「ああ、サインだね」


 重役の休暇にはボスのサインが必要になる。いつも事前にメリッサが目を通しているので、ボスが中に目を通すことは希だ。ボスは他人が休暇を取ることに関しては寛容なのだ。例外はメリッサの休暇だ。なのでこの作戦が立案されたのだが。


 ボスはタブレットの文面に目を通すことなく、サイン欄に指で自分の名前をサインした。そして承認ボタンを押した。


 やった。作戦成功だ。この後、どうなるか分からないが。これは人生をかけた最大のチャンスになる。または絶望の門になる。2択だ。どちらに転ぶかは時間にならないと分からない。


「そう。今日の11時から休暇なんだ? 今じゃないか」


「はい。私の休暇届もお願いします」


「さっき言えばいいのに。うん? 君も12時から? 引き継ぎは? 代理は大丈夫? 誰? いつもの人?」


「大丈夫ですよ。ご心配なく。万事、準備が整っています」


「そうか」


 アルは寂しそうな顔をした。騙しているようで、いや、騙しているので申し訳ないのだが、目を通さなかった自分が悪いのですよ。ボス、とメリッサは心の中で言葉にした。


「君が休暇か。久しぶりだな」


「基本、週休1日ですからね。家で寝ているだけの」


「はは、いつも済まないな。どんな休暇を取るんだい? これは部下の状況を把握するための業務の一環だと思ってくれよ」


 ちら、とアルがメリッサの顔色を窺った。珍しい。


「そうですね――人生最大の賭け、ですかね」


「そうなんだ???」


「この仕事をやめることになるかもしれません」


「それは困る。そういうことなら、もっと早く、それを説明してから休暇届を出して欲しい」


「説明したらきっとサインしてくれないでしょう?」


「それはそうだが。君がいなくなったらこれから僕はどうやって仕事をすればいいんだ? 休暇が終わったら帰ってきてくれるよね!?」


「まあ、帰るも何もないんですが」


 メリッサはそう言って、定位置の自分の机に戻った。


「まだ僕の話は終わっていない!」


「私の休憩時間ですので」


 メリッサはボスに二の句を告げさせない。そして器具を使って軽く3分間の筋トレをする。同じ行動をする人間に好感を持つのは人間の習性だ。そんな動機で始めた筋トレだが、今では生活の一部である。


 ぐぬぬぬ、という顔をしつつ、ボスは仕事に戻ったのだった。

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