氷の秘書と純情社長のロマンティックな休暇

八幡ヒビキ

第1話 休暇届にサイン

休暇届にサイン 1

 ハイパーメガロポリス――ここがどこの国かはこのお話にはあまり関係がない――の一角、高層ビルの最上階の社長室で、メリッサ・マキャベリは小さく嘆息した。もちろん、社長ボスにばれないように、である。

 ボス――アルフォンス・ミラーは広い執務机で大画面の曲面液晶モニター2台と、手もとのタブレットを交互に見つつ、仕事に打ち込んでいる。社長室にいるメリッサのことを思い出すのは自分が必要としたときだけだ。彼は自分を社長室の備品の1つだとしか考えていないことをメリッサはよく分かっている。だからこそ2年もの長い間、彼の秘書が務まっているのだ。

 メリッサも尽力した――尽力というかごまが油の最後の1滴まで絞り尽くされたような献身的な奉仕の賜物なのだが――新規事業がひと段落した今となっては、こんなにシャカリキに仕事をする必要はない。しかし、彼は仕事を止めない。今は3ヶ月先の計画に打ち込んでいるところだ。確かに、余裕があるのはいいことなのだが、それよりも彼に必要なのは休暇だとメリッサは思う。

 55分間の執務と3分間の筋トレ、2分間の休憩。社長室にいる間、ボスはこれを14時間続ける。食事すら2分間に摂れるもので済ませてしまうのだ。3分間の筋トレはいい習慣だと思う。彼は65階の社長室まで階段で上るので、1日1時間以上は必ず運動できるからだ。

 メリッサが思うに、いや、会社の誰1人として欠けることなくそう思っているのだが、ボスは仕事中毒ワーカホリックである。それも重症の、治療を要するレベルの重篤患者だ。

「メリッサ。あの資料はどこのフォルダだったかな」

 不意にボスが彼女に声を掛けた。『あの』しか言わないのにメリッサは答える。デュアルモニターで彼の仕事をリアルタイムチェックしているから、次にどんな資料が必要になるか想像がつくからだ。

「SサーバのトリプルDホルダのミッションCですわ」

「ありがとう。自分で検索するより早いよ。助かる」

 一瞬だけ、ボスの顔がメリッサに向く。輝かんばかりの笑顔だ。まるで少年のようでメリッサは心の中だけで大歓喜し、飛び跳ねる。あくまで心の中だけである。当年35歳になるボスだが、笑顔はとてもかわいい。有名ビジネス誌の表紙を強面で飾ることも多いボスだが、こんな笑顔を知っているのはメリッサだけである。役得だと思う。いや、この笑顔がなければこの激務をこなせるはずもないという自覚がある。

 好きだなあ。

 メリッサはデュアルモニターを見ながら、また嘆息する。気づかれないようにひっそりと。もう10年もの間、片思いをしていて、やっとここまで来た。だが、それ以上の進展はない。その片鱗すらない。

 それでもだ。メリッサはこの計画を実行する勇気が、脳とまあまあある胸に満ちていた。

 午前11時の休憩時間になった。3分間の筋トレと休憩タイムである。この5分間が、メリッサとボスが普通の会話をする時間になる。

「メリッサ、次の君の休暇はいつだい?」

 ボスはスーツの上着を脱ぎ、執務机の側に敷かれているマットの上で腕立て伏せを始める。もちろんプッシュバー込みである。

「――その用件は後にしてください。休暇申請は業務に該当します。休憩時間には禁止です」

「いや、休暇をとってリフレッシュしてくれないと、僕が困るんだよ」

「プライベートなことを聞くのはセクハラです」

 何よりこの先の計画に関わる。

「しかし、楽しい計画は用意してあります」

「それは何より。君の力は僕にとって必要不可欠だからね」

 腕立て伏せをしていてもボスの息が乱れる様子はない。

 力でなく存在と言って欲しい。それくらいのことはしているはずだ。そしてそのまま甘い言葉を囁いて欲しい。しかしメリッサの顔はガラス細工のように動くことはない。必死に動かさないようにしている。

「ボスは休暇をとられる予定はないのですか」

「今、とっているじゃないか」

「これは休憩、です」

「この5分間が満たされた休暇だ」

 いつもながらアホな会話だと思う。言葉が通じていない。

「ボスは、セレブリティなんですよ。セレブリティはセレブリティらしくお金を使う義務があるのです。高級リゾートで散財したり、パーティに入り浸ってみたり、民間ロケットで宇宙旅行してみたり」

「そんな愚かなことはしないよ。その分、寄付をすれば済むことだ。君が提案したDV被害者保護プロジェクトは上手くいっているだろう? 良いアイデアだったよ。あ、でも、民間ロケットは考慮しても良いかな」

「――適当に言ったのにボスが食いつくとは思いませんでした」

 そうか、そんな選択肢があったか。

「投資になるからね。これからのビジネスを進展させられるかもしれないし、民間宇宙開発は有望だ」

「イーロン・マスク氏にでもなる気ですか」

「バカな。僕は地道に自分の仕事を広げて、部下の食い扶持を保証するだけさ。だから頑張っているんじゃないか」

「ですが、ボスご自身の幸せも考えてください」

 腕立て伏せをやめて、今度は懸垂バーにぶら下がり始めた。

「ああ。今、幸せだよ」

 この仕事中毒者ワーカホリックが! と怒鳴り喚き散らしたくなるのをぐっと堪えて、メリッサは続けた。

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