蒼ざめた馬

 世界が終わることになった。

 話としては簡単だった。こうま座の方角からやってくる、青黒い色をした隕石のせいで、地球が壊滅的な被害を受けることが報告された。隕石は、蒼ざめた馬と呼ばれた。聖書に出てくる言葉だそうだ。


 世界は荒れた。

 世界中の科学者らが集められ、英知を結集したが、結果わかったのは、いまの人類の技術力ではどうしようもないということだった。

 その一報が世界を駆け巡ると、各地で暴動が起き、いたるところであらゆる犯罪が行われた。

 しかし、最後の時を静かに迎えたいという人々の意志は、思った以上に強かった。犯罪を行う者は法律を無視して、自警団らの手によって排除された。

 政治家や科学者に変わって、世界のリーダーとなった宗教家たちは、それぞれの言葉で、最後の時を迎えるまで、静かに穏やかに過ごすように、人々へ求めた。人々はそれに従った。



 蒼ざめた馬が地球に落下する前日の夜。

 空には巨大な青い輝きが瞬いていた。

 アパートのベランダから、その光景を見ていたぼくは、部屋の中に入り、彼女の坐っているソファーに腰を下ろした。すると、彼女が、ぼくの肩に頭をのせてきた。ぼくは彼女の肩を優しく抱いた。

 葛藤を繰り返し、諦めがついた果てに訪れた心の平穏が、ぼくの心を包んでいた。それはぼくだけではなく、彼女もそうだった。部屋の空気もそうだった。おそらく、世界の雰囲気もそうだっただろう。


 ぼんやりとしていた彼女が、部屋をすみずみまで見渡してから、立ち上がった。

 部屋の中を歩く彼女の先には、ぼくたちのペットであるさそりのケージが置かれていた。

「死ぬ時に、ケージの中ではさみしいでしょう? 外に出してあげたいわ」

 そう言いながら、彼女がケージの中へ手を入れた瞬間、「痛い」と彼女が小さく叫んだ。さそりに刺されたのだった。

 彼女は指を舌でなめてから、「刺されれば、やっぱり痛いのね」と言った。

 「無毒のさそりだから、大丈夫だとは思うけど」と言いながら、ぼくは救急箱の中から絆創膏を取り出して、彼女に手渡そうとした。しかし、彼女はゆっくりと首を横に振った。そして、言った。

「痛いわ。わたしの体はまだ生きている。生きようとしている。それでもあした、私は死ぬのね」

 静かに、涙が彼女の頬をつたった。

「しかたのないことなのね」

「しかたのないことなのさ」

 ぼくは彼女の頭をなでながら、しばらく考えごとをした。平穏に落ち着いたはずの心をときおり襲う不安が、ぼくを苛めようとする予感がした。

 不安に襲われる前に、ぼくは、ケージの中のさそりを、わざとむぞうさにつかんだ。さそりは僕も刺したが、ぼくは痛みにこらえながら、さそりをつかんだまま、ベランダに出た。


 となりのベランダでは、おとなりさんがタバコを吸っていた。

 おとなりさんが白い煙を口と鼻から出しながら言った。

「どうしたんだい?」

 僕は握っている手を彼の方に向けて、「飼っていたさそりを逃がそうと思って」と答えた。

 おとなりさんは目を見開いて、「それはいいことだ」と言った。

 おとなりさんは音に敏感な人だった。世界が終わる前は、険しい顔で、たびたび苦情を言って来た。しかし、さいきんは、怒鳴って来ることはなかった。それは世界が終わるためでもあったし、ぼくたちが、なるべくしずかに生活していたためでもあったろう。


 ぼくは、手を離した。さそりは下の芝生のうえに落ちたあと、じっとしていたが、しばらくするとどこかへ行ってしまった。

 その様子をぼくとながめていたおとなりさんが、「吸うかい?」と煙草を差し出して来た。

 ぼくは頭を軽く下げて、タバコをもらった。

 おとなりさんが差し出したライターの火がタバコにつくと、鼻の中を甘い匂いが充満した。

「うまいだろう? 最後のとっておきの一箱さ」


 タバコを吸い終わると、ぼくはさそりに刺された右手をさすりながら、部屋の中へ戻った。

 彼女はソファーで、すやすやと寝ていた。ソファーの前の机の上には、ワイングラスがひとつ置かれていた。

 僕はグラスの中に残っていた赤ワインを飲み干すと、彼女の頬に口づけをしてから、そのとなりに坐った。

 そして、彼女とひとつの毛布を分かち合い、明日に備えて寝た。世界の終わる、その日に備えて。


(色:あお×干支:午×星座:さそり)

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