今さらながらの弥平治

「こりゃ、いけねえ。てんびんが壊れちまったよ」

 その日、釣り道楽の弥平治は、近くの池で釣りをしていた。てんびんとは、釣りで、糸のもつれを防ぐための金具のこと。

「これじゃあ、きょうはもうおしまいだな。釣りはじめたばかりなのに、なんてこったい。釣れたのは小さな鯉が一匹。これじゃあ、晩酌にもなりゃしない」

 魚籠を覗くのをやめた弥平治が、頭を上げたときだった。白い蛇が一匹、彼の前に現れた。

「おや、これはめずらしい白蛇さまだ。目と舌が真っ赤っ赤だ。なんだい、おまえさん。この小さな魚が欲しいのかい?」

 そういうと弥平治は、ぽいと小魚を蛇の前になげた。すると、蛇はすこしの間、弥平治の顔をじっと赤目で見すえたあと、魚を丸呑みした。

「いや、いい食いっぷりだねえ。もっとあげたいところだが、残念だったな」

 言い終わると、弥平治は立ち上がり、釣竿を肩にかけ、小唄を歌いながら家へ戻っていった。


 その日の夜のこと。

 一人暮らしの弥平治が手酌で酒を飲んでいると、戸を叩く音がした。

 弥平治は立ち上がろうともせず、「だれだい。熊さんかい? 戸はいつものように開いているよ。勝手に入んな」と叫んだ。

 すると、戸がするりと開き、家の中に若い女が入ってきた。

 肌が透き通るように白い、美しい女だった。弥平治は言葉もない。

 身動きできずにいる弥平治に向かって、女が目を閉じたまま、言った。

「弥平治さん。けさはありがとうございました。あのとき、お魚をいただいた白蛇です」

 そういうと女は目を開けた。白い肌に映える赤い瞳をしていた。

「これはだれかが俺を騙そうとしているわけではなさそうだ。たしかに、おまえは、あの時の白蛇なのだろう。その白蛇さまが、この俺に何のようだい?」

「実は、私はあの池に住む水神さまの使いなのです。弥平治さんにお魚をいただいた話をしたところ、水神様はたいそう感心されて、あなたのもとへ私を遣わされました。なにか、願い事はないかとのことです。ひとつだけ、叶えて差し上げましょう」

 女の言うことに、「へえ~」と言った切り、弥平治は黙り込んでしまった。話に頭の理解が追いつかないでいたのだった。

「水神様の神通力にもかぎりがございます。何でもできるわけではありませんが、なにか望みはありますか。なにか欲しいものはありませんか。お金がほしいのならば、小判を差し上げますよ」

 言い終えてにこりと微笑む女に、弥平治は、右手でのど仏を触りながら言った。

「金はいらねえな。俺は大工で自分の腕に自信がある。自分の食い扶持ぐらい、自分で稼いでこその男よ。他人の施しは受けない。たとえ、神さまでもな」

「それではどうしましょうか。若返りの妙薬などはいかがでしょうか?」

「若返りねえ。俺も四十。ずいぶんといい年だ。それは欲しいかもしれないが、もっとしたいことがあった。俺はどうも、奥手なうえに、女に好かれるたちじゃなくて、恥ずかしながら、この年になるまで、死んだおふくろ以外の女に触れたことがねえ。まあ、さいきんじゃあ、それはそれで仕方のないこととあきらめがついていた。四十になって、今さらながら、願いを叶えてくれるのならば、女の肌に触れてみたいねえ」

「それは、お嫁さんがほしいということですか?」

 女がたずねると、弥平治は膝を手で叩いた。

「それだ。それ、おれの願いはかかあだ」

 弥平治の言葉に、女はしばらく考えたあと、こういった。

「それならば、わかりました。私があなたのお嫁さんになりましょう。蛇はお嫌?」

 かわいく首を傾げる女に、弥平治は戸惑い、しばらく考えてから言った。

「正体が蛇でも、こんなきれいな娘さんを嫁にもらえるなら、文句は言えねえ。あんた、俺のかかあになってくれるかい?」

 弥平治の求婚におんなは頬を染めながら、「なりますよ。おまえさん」と答えた。

「それじゃあ、祝言だ。さあ、一杯、飲みねえ」


 それから、弥平治と女は仲睦まじく暮らした。

 女は弥平治の食事を作ったが、自分は食べなかった。代わりに、たまに卵を買って来ては丸呑みした。

 「殻ごと食って、うまいのかねえ」と弥平治が問うと、「これがいいのよ」と女は答えた。

「しかし、あのとき、てんびんが壊れなけりゃあ、俺は釣りを続けていて、おまえに気がつかなっただろう。てんびんさまさまだな」

 そう言い終えると、弥平治は神棚に置いてある、壊れたてんびんに柏手を打った。


 女は年を取らないのに、弥平治は老いていった。そして、死んだ。

 弥平治が死ぬと、女はいなくなった。

 葬式の日、弥平治の友人は、家から出ていく白蛇を見たそうだ。


(色:あか×干支:巳×星座:てんびん)

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