第5話

 東京にいる親族への連絡と、学校のことは、母が全部やってくれるという。


 だから私は海の上の図書館へ行くことにした。図書館へ、四条へ、しばしのお別れを告げるためだ。


 四条は分かっていたかのように、あっさりと私が学校を辞めて東京に行くことを受け入れた。


「そうか。出ていくことにしたか」


 うん、と私は力のこもらない返事をした。


 日々島から出ていくということは、四条ともお別れで、いつ帰ってくるかどうかなんて分からない。


 確かに私は、四条と話すことが好きだった。他愛ないおしゃべりは楽しくて、海の上にある変な図書館も好きだった。一緒におやつを食べたり、宿題をやったり、たまには本を読んだりして、平和な日常を過ごせていたと思う。


 でも、それは足を止める理由にしてはいけない。惜しむ日々はあっても、誰かに後ろ髪を引かれてしまっても、私が人生を歩む足を止めてはいけないのだ。たとえ、今が嫌だから逃げるのだとしても。


 私はカウンターの中の四条へ、初めて四条本人のことについて問いかけた。


「あのさ、パイセンはさ、何でここに来たの? つまんなくない?」


 私は、四条がこの島の出身ではないことは知っている。いつの間にかふらっと現れて、海の上の図書館にいた。朝リあがり町役場に務める地方公務員だということも、お菓子作りが趣味で彼女がいないことも知っているが、それまでの四条の人生については何も知らない。天才児が周りにいた、くらいのことだ。


 今必要のない、何となく聞けなかったことを、四条は餞別だとばかりに口が軽く、話してくれた。


「前に言っただろ。俺の周りは天才児ばっかりで、大変だったって」

「うん」

「その中で普通のガキだった俺は、ついていくために人一倍努力しなきゃなんなくてさ。おかげで大学もいいとこ行ったよ、ゼミで一番優秀だった。資格取って学費免除されて、卒業式の答辞読んで」


 それはすごいのか、私にはピンと来ないが、きっとすごいのだろう。


 でも、四条の人生は、そればかりではなかった。


「社会に出たあと、俺は何にもないことに気付いた。勉強してりゃよかったころと違って、俺は何にもよりどころがなくて、人生がつまらなくなって、いい学歴のいい人生を棒に振ってここに流れ着いたんだ」


 伏目がちに、四条はどこかを見ていた。昔を懐かしんでいるのか、嫌悪しているのか、それは私には判断がつかない。


 四条は、私へ忠告した。


「お前はそうなるなよ。ちゃんと人生の先のこと考えて、生きてけ」


 それは父のように、私の背中をそっと押す言葉だった。


 私は、そんなに物悲しい顔をしないでほしいと思った。


 四条もまた、人生をまだ歩いているのだから、悲しまずに生きていってほしいと。


 どうすれば、そんな思いで頭がいっぱいになって、四条と話す言葉がなくなり、私は海の上の図書館を後にした。


 気の利いたことを言えばよかった、なんて後悔してももうどうしようもないのか。夏の厳しい日差しはまだまだ続き、松林の木陰を通って家路につく。


 だって私は、逃げてばかりだ。それが悪いとは思わない、でも誰もが逃げられるわけではない。置いていかれる人、自分から残る人、見送る人、色々だ。


 その中で一緒にいたい、一緒に行きたいと思う人を置いていくのは、こんなにもつらいのだと、私は知ってしまった。


 その胸の痛みに耐えながら、海沿いの道を歩いていると、前から自転車がやってきた。


「あ、いた! 更科さん!」


 顔を上げると、自転車に乗っていたのはジャージ姿の町田先生だった。私の目の前でブレーキをかけて、のろのろと止まる。


「町田先生」

「ねえ、退学のこと、本当に考え直す気はない? さっきお母様ともお話ししたんだけど、あなたの意思が固いからって……学校が何か嫌?」

「そうじゃないっす」


 引き止める人町田先生、あなたは私のことを何にも知らなくて、ただ学校に行けばいいのだという常識でそう言っている。


 でも、私が誠実に答えない理由にはならない。


「ただ、人生について考えたら、そうしたほうがいいと思っただけです」


 それを聞いた町田先生は、あんぐりと口を開けて、眉をひそめた。


「そんな、大雑把な」

「大雑把じゃないです。ちゃんと考えて決めたことです」


 『毒の川』を吐かれる前に、私はきっぱりとそう言った。


 ——もう私を引き止めなくていい。私は決めたのだ。あなたの『毒の川』で泳ぐ気はなくて、『毒の川』を吐くのならすぐにでも逃げるぞ。


 そんな覚悟は伝わったのか、町田先生はそれ以上、強弁しなかった。


「分かったわ。引き留めてごめんなさい、気をつけて帰ってね」


 私はぺこりと頭を下げて、そのまま家へと足を運ぶ。


 すでに意識は切り替わって、胸の痛みにどう対処すべきかをまた考えていた。


 ところが、ふっと私の脳裏に閃きが浮かぶ。


「そっか。一緒に行きたいって、言えばいいのか」


 そのときの私は気付いていない。


 家族以外で一緒にいたい、行きたいと思うほどの人は、とても大切な人で、その気持ちは恋や愛というものなのだと。


 その人のために何かをしたいと思う気持ちは、誰にも止められないのだと。








 東京に行く前日の晩、更科家に四条がやってきた。私の家を知っていることに驚いたが、大して人家も多くない島の中のことだから情報は筒抜けのようだった。


 トランクに荷物を詰め込んでいた私は玄関で、四条から一枚のメモを渡された。十一桁の番号が書かれている。


「携帯番号。これでLINEできるだろ」


 私はメモと四条を交互に見た。プライベートはどこへ行った、私がそんな無粋なことを言う前に、四条は私を気遣った。


「何かあったら相談に乗れる。それだけで気が楽になることもある。だから」


 私はそれの意味を、価値を、こう見積もった。


「へへ、『お守り』だー」

「あとお前、もうちょっと自分の気持ちを外に出す方法、覚えたほうがいいぞ。しまいこみすぎて、つらくなるから」

「うぃ」

「そこははいだろ」


 四条は私の額をデコピンしようとして、私は必死に避けた。それがおかしかったらしく、くくっと含み笑いをされてしまった。


 しかし、ちょうどよかった。ずっと考えていたことを——四条のために何ができるかを——言っておける。


 私は緊張の唾を呑み込んで、いつもどおりを装って、言う。


「ねぇパイセン、目標できた」

「何だ何だ」

「私、偉くなって、お金たくさん稼いで、会社作って」

「おお、大きく出たな」

「そんで、パイセンに一緒に行こうぜって誘いに来る」


 つまりはそれは、告白だ。


 この島から四条を連れ出そう、そのためには身を立てなくてはならない。私はそう考えるに至り、四条に宣言したのだ。


 まだまだずっと先の話になるだろうし、夢みたいな話だ。子どもだからと笑われたってしょうがないだろう。


 四条の顔に、笑みが浮かんだ。


「何か馬鹿っぽいなそれ」

「いーんですー」

「ははっ! まあ、誘ってくれるってんなら断りゃしないよ」

「本当?」

「できたらな」


 私はよっしゃ、とガッツポーズをした。言質を取ったからには、邁進するしかない。


 私は、東京へと『毒の川』から逃げる。逃げた先に何が待ち受けているかは分からないが、行くのだ。


 その思いを胸に、私は日々島を、生まれ育った故郷である田舎を、発った。


 それが十七歳の夏の終わり、秋口のことだった。












 とはいえである。


 私は三年後、日々島に戻ってきて真っ先に海の上の図書館へ行き、カウンターの中で暇そうにしていた四条へ経済新聞を突きつけた。


「できた」


 ふふん、と得意満面で鼻息を吐いて、目玉が飛び出そうなくらい驚いている四条へその記事を見せつけたのだ。


 その一面にはこう書いてある。『経済産業省の発表によると……省庁を挙げての官民共同プロジェクトが始動した。若干二十歳の女性社長が率いるスタートアップ企業が今注目を集めている。山林再生総合事業商社SARASHINAの更科いるか社長は、地域に根付いた新しい雇用体制サイクルを生み出し、すでに首都圏近郊のいくつかの自治体でその運用がスタートしている。地域の課題に対応する専門チームの立ち上げを支援する同社の取り組みはすみやかな事業モデルの決定と実行力に定評があり、また地域産業の活性化に繋がっている。その代表的な取り組みは、百貨店で本日から始まる地方物産美食展で……』だ。


 四条が見たこともない間抜け面で紙面の文字を追って、それから——すっかり化粧の仕方を覚え、ビジネスパーソンらしく垢抜けたブラウスとスカート、それにヒールを履いた私にまたしても仰天して、こうつぶやいた。


「マジかよ。何がどうなってこうなった」

「宝くじ当たって、起業したらめっちゃバズって官民共同プロジェクトの中核メンバーになった」

「何でお前そんな偉くなるの。怖いよちょっと」


 ふへへ、と私は褒められた気分になった。


 私は偉くなったのだ。身を立てたのだ。だから、こう言える。


「というわけでパイセン、一緒に行きましょ」


 それは私の恋の告白で、四条の顔色が青から赤へと一気に変わる。


 『毒の川』から抜け出して、大海に出て、私は自由に泳ぎはじめた。



(了)

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いるかは『毒の川』を泳げない ルーシャオ @aitetsu

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