第4話
夏の真ん中、高校にも登校日はあり、気だるい残暑の朝だった。
その日はやはり快晴で、雨の予報はなかった。ただ、私の人間関係は大時化だった。
「かな子、おはよ」
私はいつもどおり、教室に入ってすぐ、かな子へ挨拶した。
しかし、かな子は私のほうを向かなかった。かな子の隣にいた同じバレーボール部の二人も、気まずそうに私から目を逸す。三人だけではない、他のクラスメイトも私がいないかのように振る舞った。
登校して帰るまでのたった二時間、私は肩までどっぷりと『毒の川』に浸かっていた。
聞こえてくるひそひそ話から、大体の事情は察した。かな子の母が入院したそうだ。かな子は落ち込んでいて、かわいそうに、去年かな子の父が亡くなったばかりなのに。かな子の家はどうなるのだろう、それなのに脳天気な家はいいよね。友達なのに何の苦労もしないで、親の金で遊んでばっかりいられるもの。私も受験しなくちゃ、就職だって大変だよ。町田先生が苦労するよね。
帰りのホームルームが終わっても、誰も私に話しかけなかった。さすがに変な空気に気付いた町田先生は無理に明るく振る舞おうとしていたが、失敗していつもどおりの態度に戻った。
私は、そう——いたたまれなくて、逃げるように教室から飛び出した。
必死にもがいて『毒の川』から脱出しようとし、一体どこまでが『毒の川』なのか分からなくて、無我夢中で海の上の図書館まで走っていた。化け物に追いかけられているかのように、連れ戻されてクラスメイトたちに『毒の川』に放り込まれるのだと強迫観念に駆られ、汗の滲む暑さも忘れて手足を激しく振っていた。
図書館の吊り橋の鉄板を踏む足が、震えていた。落ちたら下にいるウツボに食われる、なんて思ったのはいつ以来だろう。鉄板を飛び越えて、私はガラス戸を開けて転がるように図書館の中に入る。下駄箱の前でぺたんと座り、ここはもう大丈夫だと安心するよう体を説得して、すーはーすーはーと口にしながら息を整えた。額、こめかみ、鼻、首筋の汗を手で拭い、文字どおり玉のような汗が手から落ちそうになっていた。
汗が引くと体が冷えてきて、よろよろと立ち上がり、私は何とか足を上げる。コンクリートの狭い階段の先、明かりが灯った図書室のカウンターには、四条がいた。手作りのカップケーキを食べていた。
私を見るなり、四条は驚いていた。まだ誰も来ないと思っていたから休憩してカップケーキを食べていたのに、と顔に書いてある。
「どうした、今日学校か?」
私は頷きながら、カウンターの椅子にどかりと腰を下ろし、そのままカウンターに突っ伏した。
そして、そのまま今の気持ちを整理して、吐露した。
「学校やめよっかなって」
「何だ。何があったよ」
「んー……」
言いたくない、知ってほしくない、『毒の川』を思い出したくない、そんな気持ちはたくさんある。私は四条に、さっきまでの教室の空気を綿密に伝える勇気はなかった。
四条は、言い淀む私に、早く言えと急かしたりはしない。それどころか、私の意思を最大限尊重した。
「まあ、高校卒業しなくたって、死にはしないしな」
四条はカップケーキを食べ終えて、紙おしぼりで手を拭いていた。こともなげに他人を肯定する、あるいはそれは無責任かとも思えるが、四条は違った。
「高校卒業しないと、大学行けないんじゃないの?」
「高卒認定の試験受ければいい。受験勉強は予備校でやればいいし、よっぽど難しいところ狙わないかぎり一年もあれば行ける。正直、高校三年勉強するより、予備校で一年詰め込んで大学受験したほうが手っ取り早いくらいだ」
四条はスマホを取り出し、ちゃちゃっと操作して、私へ画面を見せた。そこには、文科省のホームページが映っていて、高等学校卒業程度認定試験の文字が並んでいた。
初めて知る制度に、私は思わず自分のスマホを学生鞄から取り出して、同じページを開いてブックマークした。そんなものもあるのか、と感心しきりだ。
赤いスマホをしまう四条へ、私は尋ねる。
「パイセン、そういうのってさ、みんな知ってること?」
「いや、ほとんどの人間は知らないだろうな」
「中学の先生も町田先生もそういうの教えてくれなかった」
高校に行かなくたって大学に行けるなんて近道、今まで大人は誰も私には教えてくれなかった。小学校に入り、中学校高校を受験して、卒業する十八歳まで日々島を出られないと思い込んでいた私へ、新たな選択肢が差し出されたのだ。
四条はどこか批判的に、皮肉っぽく語る。
「町田先生とやらが何考えてるかは知んないけどさ、いい学校行けばいい人生送れる、って真面目に信じてる人間、未だに多いからな」
その言葉は、そうではないのだ、と暗に示していて、四条はカウンターに頬杖を突いて、やれやれと遠い目をする。
「昔っから、俺の周りはいわゆる天才児が多くてさ。どいつもこいつも馬鹿みたいに頭がよくて、小学生なのに高校数学解いたりするのとか、英語ペラペラなやつとか、歴史の教科書丸暗記するやつとかいて、そりゃ大変だったわけ」
へえ、と声を漏らすほか、私は四条の話に聞き入る。四条が自分のことを話すのは、珍しい。初めてではないだろうか。
「でも、どいつもまともに学校行かなくなって、さっき言った高卒認定で飛び級で大学行ったり、留学したり、引きこもりになったり……まあ、いろんな道に進んで、それぞれ自由気ままにやってる。だから、俺はそういう普通じゃないやつらの人生をちょっと知ってるだけで、そういう道もあるってお前にアドバイスしてる」
四条の目線の先には、窓があった。空があった。道はなくて、でもその先には未来のように無限に広がっている。
世の中にはいろんな人がいる。私の周りだけじゃない、四条の周りだけでもない。そのさらに外には、きっと想像もできない人がたくさんいるのだろう。『毒の川』ばかりでもないかもしれない、もっとひどい『毒の川』かもしれない。
でも、ここから出ていってみなければ、分からないのだ。
私は、ここにいつづけるよりも、別の場所へと行ってみたい。
その気持ちは収まることなく、私はようやく固く決心した。
それはそうとだ、過去の四条の周りには天才児はいっぱいいても、四条は——。
「パイセンはやっぱり天才じゃなかった……」
「だまらっしゃい」
図星だったようだ。
私はしばらく、四条と一緒に高等学校卒業程度認定試験についてスマホで調べて、ついでにどんな種類の大学があるか——短大や普通の四年制大学だけではなく、大学校や専門学校的なものが世の中にはたくさんある——ああでもないこうでもないと希望を語って、帰った。
その日の夜、私はSkypeで父を呼び出した。今は遠く海の上にいる父だが、たまにどこかの国の沿岸に近づくと、インターネット接続が可能になる。今日はちょうど繋がったから、しばらく呼び出して待ってみた。
すると、無事父へ繋がった。音質はかなり悪いが、「いるか、元気か?」という声がヘッドホン越しに私へ届く。
小学校入学のときに買ってもらった学習机は、もうまったく身長が合わない。椅子のクッションはへたれて、背もたれは少しの衝撃で悲鳴を上げる。
私はお古のノートパソコンを開き、有線のヘッドホンを繋いで、マイクへと声を吹き込む。
「父さん、あのさ」
深呼吸して、一拍空けて、考えていたことを伝える。
「学校やめて、今年の秋から東京の親戚のとこ行くってだめかな?」
父の反応は、意外でも何でもなく、「そうか」だった。父はそれもまた考えていたのか、はたまた何でも受け入れる度量があるのか、反対はしなかった。
「うん、母さんにはもう言った。父さんと相談しなさいって」
東京に行けばと私に提案した、言い出しっぺの父のことだ。私も反対するとは思っていなかったし、かと言って無条件に受け入れてもらえるとも思っていなかった。
かな子と違って、私は父がいて、お金がそこそこあって、きっと幸福なのだろう。進学も就職もせず、東京に行くことを許してもらえるほどに。
だからと言って、『毒の川』を許容するほど私は人間ができていない。かな子と一緒に不幸になろうと思えるほど、善人ではない。
私は、逃げ出す。ここではないどこかへ、『毒の川』から遠ざかるために。
「何にもないよ。ただ、卒業待つ必要ってないなって思ってさ……うん、東京行ったら勉強したくなるかもだし。できるかな?」
できるよ、きっと。父はそう言った。
その言葉は温かく、私の背をそっと押してくれた。
「分かった。うん、ありがと。早めに準備する」
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