第3話
夏の海は臭い。磯臭いと言うべきか、プランクトンが豊富だと言うべきか、しかし日々島は漁業で生計を立てている人が少ないために有り難がられない。
海の上の図書館もまた、窓を開けると臭いため、窓はきっちり閉めてエアコンを効かせている。誰も来ない図書館の電気代について、大人は何も言わないのだろうか。四条にそう聞くと、こんな答えが返ってきた。
「ここの図書館は、日々島出身のある金持ちが作った基金から運営費が全部出てるんだよ。運営は自治体……
と、特に問題はないようだった。進学も就職も選ばないだけで文句を言われる私と違い、大人たちは図書館の存在に何ら問題意識もなく甘々に見ていることを考えると、不公平だと思う。
高校二年の夏休みは、スマホを手に入れたことで世界が広がった時期だった。母からやっとスマホ使用の許可が下り、私は新品のiPhoneと簡素なスマホケースをプレゼントされた。だが、何をしていいか分からず、相談できる人といえば一人しか思い浮かばなくて、翌朝にはスマホを持って図書館にやってきた。
急いで図書室に上がった私は、やはり一人でパソコンに向かっている四条へ開口一番問いかける。
「しじょーパイセン、スマホ持ってる?」
「持ってるよ」
「スマホ買ったから使い方教えて」
「は? お前、今まで持ってなかったのか?」
「うん」
「マジか。ちょっと待て、えっと」
水出し麦茶が出されて、私は四条とカウンターを挟んで向かい合った。間にはスマホが二台、私のスマホは金色で、四条のスマホは赤かった。スマホをすいすい操作する四条の指先と自分のスマホの画面を交互に見つつ、私は教えられたとおりに操作していく。
「初期設定は終わってるのか?」
「うん」
「クレカ登録も?」
「母さんがやってくれた」
「あんまし使うなよ。アプリは基本、無料のやつを入れるんだぞ。課金したくなったら親に言うように」
「はーい」
「ブラウザとメーラーと、Twitterと、持ってるならキャッシュレス決済のアプリ入れとけ。ポイント付くから」
「へー、ポイントって使えるの?」
「大体は会計のときにポイント使いますって言えばいい。割り引いてくれる」
「りょ。あそうだ、アカウント作り方教えて」
清流のように、澱みなく受け答えが流れる。引っかかる物言いも、ドス黒い感情も何もなく、つつがなくスマホの設定とアプリ取得はできていく。
とはいえ、女子高校生なのにスマホ初心者の私を見て、四条は本当に使いこなせるのだろうかと疑いの目を向けてくる。
「大丈夫か、本当に。何か心配だな、変なアカウントに騙されたりしないか?」
「大丈夫大丈夫。中高の授業で情報リテラシーとかやらされたし」
「そんなのあるのか」
「そーそー。東京で食べ物美味しい店リストアップしたいから探し方教えて」
「東京、店、美味しいで検索すると店紹介するbotがある。それフォローして気になったやつにいいねかブックマークしとけ」
四条の的確な指示により、私はすぐにTwitterで美味しいお店を紹介するアカウントを見つけ、フォローしておいた。東京にはたくさん美味しいお店がある、一日じゃ紹介するツイートを見切れないくらいだ。
フォローしたアカウントが二十を超えたところで、私は四条をじっと見つめ、赤いスマホを指差した。
「パイセンのアカウント」
「教えないぞ」
「何で?」
「プライベートだから」
「いいじゃんけち」
「毎日ここで会ってるだろ!」
「LINEしたい」
「やだ。援助交際と思われる」
四条は両手でバツ印を作り、断固として私とSNSで繋がることを拒否していた。そんなに嫌がらなくてもいいと思うが、はてと私は四条のプライベートなど一切知らず、ひょっとして何か不都合が——と考えたとき、真っ先に思い浮かぶ疑問を投げかけた。
「パイセン彼女いる?」
「いない。春に別れた」
「え、マジで? 何で?」
「コスパ悪いから付き合い続けたくないって言われた」
コスパ。コストパフォーマンスのことだ。人付き合いにコスパ云々、と言うのだろうか。それが正しいのだろうか、妥当なのだろうか。
「どういう意味? コスパ?」
「要するに、俺ごときと付き合う時間と使う金が惜しいって言われたんだよ。最悪だろ」
四条は言葉の割には、大してもう気にしていないふうだった。
私なら、恋人にそんなことを言われたらショックで寝込んでしまうかもしれない。
「都会の人ってこわー」
「別に都会の人じゃないけどな……まあ、Z世代ってそういうもんかね」
「都会の人は違ったりするの?」
私の投げかけた質問を、四条はどう答えるべきか、とばかりに腕を組み、悩んでいた。そして、少しずつ質問に対する答えを積み上げていく。
「何て言うんだろうな。都会は、価値観がいっぱいある」
「ほうほう」
「自分は自分、他人は他人、そういう生き方が許されるところだ。だからまあ、この島くらい田舎だと、人生は稼いで結婚して子供作ってなんぼ、みたいな価値観しかない。それが窮屈だって人間もいれば、それの何が悪いって人間もいる」
だから、コスパで他人を切り捨てることも許される。
四条はそうつぶやいたが、それは許されないよ、と私は心の中で反論した。四条と付き合うことがコスパが悪いなんて言われたら、私は異議しかない。しかし、そういう意見の違う人間の存在をも認める、それが田舎であるここではない都会の流儀で、そういうこともあっていいのだろう。
かな子の流儀、町田先生の流儀、それは私と違う。違うから、と『毒の川』を吐いて不満をあらわにする。私はその『毒の川』から逃げたくて、少しずつ距離を取った。
価値観の違い、生き方の違い、それは住む土地によって許されたり、許されなかったりするようだった。田舎では許されない、だから——。
「だから東京に行けってことか」
そのとき、父の言いたいことが、少しだけ分かった気がした。故郷である田舎を離れて東京に行く、そのことがとても重要だと父は考えていて、私にも同じ機会を与えたかったのだろう。
それは有り難いことだ。私も、そうしたいと思う。東京に行ってみたい、何かがあるかもしれないとほんの少し、胸に希望が生まれる。
そして、四条も同じ意見のようだった。
「世の中には、生まれ育った場所から離れられない人間がけっこういる。運よく離れられて都会に行けたら、うんと堪能しろ。視野を広げて、失敗して成功して、自分の人生をどう生きるかを考えろ」
二人揃ってスマホから目を離し、しんと静まり返る。
外は凪、晴天、波の音も小さく、かんかん照りの外には鳥の鳴き声すらしない。
私は四条の肩越しに、窓の外の青を見ていた。遠く遠く、空の下には東京があるのだろう、ここから離れるということは海と空を越えていくということだ。
そうして、私は大人になるのだと思う。
「考えてみる」
「そうしろ」
私は、それきりスマホに目を落として、まだ何となく底に渦巻いている胸のもやもやの正体を確かめようとしたが、結局よく分からなかった。
私は、「田舎だから『毒の川』がある」なんて簡単に認めるつもりはなかった。
都会にだって『毒の川』を吐き出す人がたくさんいるだろう。もしかすると、人口が多い分『毒の川』はあちこちにあり、避けられないほどかもしれない。東京に出てよかったと思えることよりも、日々島にいればよかったと思うことのほうが多いかもしれない。
それでもだ、父や四条は東京に行くことを勧めてくれた。おそらくは、その助言は私を思って言ってくれている。
だったら言うことを聞く、となるほど私は素直な性格はしておらず、うんうん悩む。
夏の夕暮れ、空に雲が増えてきた。図書館を出て家へ帰る。
海沿いの我が家は松林の向こうにあり、屋根には丸っこい石がたくさん重石として載っている。木造の母屋と蔵と昔祖父母が住んでいた家がL字型に並んで、南向きの駐車場を兼ねた庭は洗濯物を干すにはちょうどいい。たまに空気が乾いて土埃が舞い上がり、洗濯物が土まみれになって母が怒って土をはたき落としている。
母はよく、年寄りの親族の家に手伝いに行っている。今日も洗濯物を干して外出しているし、隣家のおばさんはそれを知っているからか私の帰宅を見計らって飾りガラスの引き戸を開けて顔を出した。
「あら、いるかちゃん。もうじき雨降るわよ、ラジオの天気予報で言ってたわ」
「やべ、洗濯物しまわないと」
私は慌てて庭の洗濯物をそのへんにあるカゴへ放り込む。おばさんもやってきて、洗濯バサミを外したりハンガーごと洗濯物をしまったり、てんやわんやで母屋の縁側まで乾いた洗濯物を運んで二往復。
すぐに、雨がちらほら降ってきた。雲間が明るく、遠くでは日が差している。
縁側にへたり込んだ私とおばさんは、空模様に文句を言った。
「お天気雨だあ。もー」
「いやあね、困っちゃう」
「おばさんありがと」
「いいわよぉ、それよりいるかちゃん! 高校卒業したらどうするの?」
おばさんはごく自然な流れで、世間話がてら他人の家の事情を探ってくる。無自覚なのだろうか、それとも私のことを自分の娘か何かと思っていて、親切心なのか。
私は皆まで伝えず、端的に話す。
「あー……東京行こうと思って」
「東京!?」
すっとんきょうな声を上げ、おばさんは心底心配しているという顔で迫ってきた。
「やめときなさいよお。うちのいとこなんか東京に出て音信不通で、帰ってきたと思ったら借金まみれの都落ちで大変だったんだから! こんな島の田舎者が出ていったって、食い物にされるだけってことよ」
「そうかな」
「そうよお! 近場で就職して、腰を据えて考えてみたら?」
「んー……」
おばさんの気持ちは、複雑そうだ。私を心配する気持ち、過去の誰かのよくない結末、誰も彼もまとめて卑下する心、どこか自分たちの運命まるごと呪っているような感覚。
おばさんは私に対して『毒の川』を吐いてはいない。自分へ向けて、ここにはいない誰かへ向けて、『毒の川』をずっと垂れ流してきたのだろう。
私はおばさんの帰宅を見届けてから、雨上がりの縁側で洗濯物を畳みながら、つぶやいた。
「東京行き、そんなにだめかなー……うーん」
とはいえ、私はもうおおよそ東京行きを心に決めていた。
ところが、幸か不幸か、私の背中を押す——もとい、突き飛ばす出来事が起きてしまった。
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