第2話

 午後四時半をすぎ、私は学校のロッカーに置きっぱなしの折り畳み傘を開いて、学校を出た。夏の雨は勢いが強く、帰宅部はとうに帰るか雨宿りかを決め、何らかのクラブに入っている学生は室内での活動に従事していた。つまりは昇降口も校門前も誰もおらず、坂を下って海沿いの道を帰る間も、誰一人としてすれ違わなかった。


 朝リあがり町と夕リさがり町の間にある、山の斜面に建てられた高校は、少し人家と離れている。日々島は岩が多く畑に向いていない土地柄、防風林の松ばかり目立つ。港も一つしかなく、他の海岸はごろごろと黒ずんだ花崗岩と転ぶとただじゃ済まない岩場が潮の満ち引きで現れるし、水深もそこそこ深いため遊泳禁止だ。


 つまりは、日々島は自然の恵みとはかけ離れており、特産品も何もない田舎だ。若者の多くは島の外に出る。近場の島々で何がしかの仕事をしてこの島に住居を残す者、遠く東京や大阪といった都会へ離れていく者、さまざまだ。


 しかし、たまにお金をたんまり稼げた人も現れて、奇特なことに故郷に貢献しようと考えたりしたらしく、何もない狭い島なのに高校まであって、港や公民館まであって、さらには図書館も作られていた。もっとも、どれも島の規模に合わせてささやかなもので、特に図書館は建てる場所に困った挙句に——高校の近くの海の上に作られた。


 小学生は海上基地などと揶揄する、海面から突き出た何本もの柱の上に立つ、三階建ての鉄筋コンクリート。防波堤の一部が切れて、錆止めのペンキが塗られた吊り橋の鉄板を踏んで出入り口に辿り着くという変わった図書館だ。図書館と言われなければ、何かの測量基地だと思われてしまうだろう殺風景で看板の一つもないその建物は、一応『日々島共立図書館』という名前を持っていた。朝リあがり町と夕リさがり町の双方の町民が使える図書館、という意味だ。


 吊り橋の鉄板の下には、荒れ気味の波の中、大きなウツボが悠々と泳いでいた。柱の海面スレスレにはフジツボが密集し、時々貝殻が見える。どうやら、貝が混ざっているようだ。


 私は図書館の分厚いガラス引き戸を開け、電気の点いていない昇降口にある下駄箱へスニーカーを放り込んで、来客用スリッパを履く。経年劣化でへたったビニール製のスリッパは履きやすくて好きだ。剥げかけたリノリウムの床をペチペチ歩き、コンクリート剥き出しの壁に囲まれた狭い階段を昇った。


 二階からは、光が漏れていた。それもそのはずで、これでも図書館は営業している。来客に対し、常勤の図書館員がいるのだ。


 ただし、一人だけ。


「おつでーす、しじょーパイセン」


 私が電灯のついた図書室に入ると、一切れのバウムクーヘンのようなカウンターに一人の男性がいた。二十代後半くらいの、顔はいいのに凡庸を絵に描いたような人物だ。胸にある銀のネームプレートだけが光っている。


 日々島共立図書館唯一の常勤館員、四条しじょう友次ともじはジト目で私を見て、挨拶ではなく親しげな嫌味を返した。


「お前の挨拶はマジで親の顔が見てみたいレベルの無礼だよな」

「そうかな」


 嫌味ではあるが、『毒の川』ではない。私にとって人生の先輩だからパイセンと敬称を付けられる四条は立ち上がって壁際に向かい、半分しか点いていなかった図書室の電灯をすべて点けた。


 すると、窓の外の高波がはっきり見えた。ばしゃーん、と眼下にちょっとだけ見える岩場や図書館の柱にぶつかり、白波が泡立って、また高波に揉まれていく。


 海の上にある図書館から見ると、波は大迫力だ。


「わ、波が高い」

「ああ」


 一日中ここにいる四条は飽きているだろうに、窓際で海を眺める私の隣にやってきた。


 私は本を読みに来たわけではない。ただ話し相手を求めてやってきただけで、いつの間にかそれは日常的な慣行になっていて、今日もやってきたというわけだ。四条もそれは分かっていて、追い払うこともなく、時間潰しにと駄弁っているのだ。


「パイセンさあ、タンカー乗ったことある?」

「ないよ」

「うちの父さんがタンカーの乗組員でさ」

「そう言ってたな」

「何ヶ月もでっかい船に乗って、アフリカ大陸の希望峰回ったり、パナマ運河通ったりするんだって。スケールでけーって思った」

「そだな、確かに。いいことだ」


 私は気をよくした。私の話を聞いてくれる大人は割と少なく、父は船の上だし、親族の手伝いにあちこち行っている母とは夕飯時くらいしか話さない。それに、友達はかな子のように『毒の川』を吐いてくるからあまり家のことは話せなかった。


 四条は思い立ったように、私にこう尋ねてきた。


「お前はなんないの?」

「タンカーには乗んないかな」

「ふぅん」

「私さ、美味しいもの食べたい。前言ったじゃん? ちっさいころお抹茶飲んだんだけど、すっげー美味しかったの。でもさ中学校の茶道部で飲ませてもらったら、すっげー不味くてさ」


 私は記憶を瞬時に掘り起こして、美味しかったお抹茶、不味かったお抹茶の味を思い出す。どうして同じものだったのにあんなに違うのだろう、お茶を立てた人の腕前の差というものは如何ともしがたい、そう思った最初の出来事だった。


 以来、私は何となくだが、何か食べ物を食べるたびに「これはどうしてこんな味なのだろう」と疑問を持つようになった。美味しい不味い以外にも、甘辛味のバランスや風味といったものを知るたび、パズルのかけらを手に入れて嵌めていくような楽しみがあった。


 それをどうにか伝えたくて、でも言葉が見つからなくて、やきもきしていると、四条は悩みつつ、私の言いたいことを汲んでくれた。


「料理人や美食家になりたい……ではなくて」

「んー……何か違う」

「ああ、お前は食べることで感動したいんだな」

「そう! それ!」


 見事ジャストフィットしたパズルのかけらは、私の中のもやもやをぶわっと一部晴らした気がした。とはいえすぐにもやもやは元通り、嵌まったパズルの部分だけが明らかになったのみだ。


 私は何になりたいか、何をしたいかなんてぼんやりとしか分からない。今四条が言った「食べることで感動したい」だって本当にふわっとした話で、それを職業にすることは難しいだろう。せいぜいが人生の目標、趣味程度の話と思われる。


 それでも、自分を理解した気がして、私は晴れ晴れしかった。窓の外は荒れ模様だが、心はすっきりだ。


 四条はさらに、私の興味ある話を深掘りしていく。


「じゃあ、金稼いでいっぱい食べられるようになんないとな」

「それー……お金ないと美味しいもの食べらんないの、世の中の欠陥だと思う」

「まあ、金出しても食べらんないものなんて腐るほどあるけどな」

「そうなの?」

「他人の家のばあちゃんが作る絶品おはぎなんて、他人がおいそれ食べられるものじゃないだろ」

「たーしーかーに」

「現地でしか食べらんないものもあるし、作り方が失伝した食べ物もある。材料がもう手に入んないこともあるしな」


 そう言って指折り数える四条は、まるで何でも知っているかのようだ。少なくとも、高校の町田先生よりは物を知っていると思う。


 毎度のことながら、私は四条に感心する。


「パイセン色々知ってんだね」

「お前は俺を何だと思ってんだ」

「地方公務員」

「くそ、反論できない」


 本気で悔しがる四条は、頭を抱えてため息まで吐いていた。


 そんな大人をよそに、私は窓の外が明るいことに気付いた。


「あ、雨止んだ」


 うっすらと雲は薄れて、雨雲は溶けたようだった。陽光が雲間から海へと差し込み、少しだが風も収まって波が穏やかになった気がする。


 私と四条は示し合わせるでもなく、一緒に窓の外の景色を眺めていた。


「雨上がりのこの瞬間ってけっこう好き」

「分かるわ」


 どうでもいい、他愛ない会話だ。水平線の少し上に黒い線があって、だんだんとそれは遠ざかっていき、途切れたり消えたりしていった。おそらく雨雲の残りだろう。今日はもう雨は降らないに違いない。


 ウミネコの鳴き声が聞こえてきたころ、四条は一つ伸びをして、こう言った。


「クッキー焼いてきたんだけど食うか?」

「食べる!」


 四条はカウンターに戻っていく、私はそのあとをついていく。備え付けの背の高い冷蔵庫はほぼ空っぽで、水出し麦茶と四条のお菓子箱であるプラスチックのかごしかなかった。


 私と四条がカウンターでお茶会をしていても、誰も来ない。私は閲覧者用の椅子を持ってきて、カウンターで宿題を始めた。四条は特にやることもなく、しかし業務日誌に何もなかったと書くことは許されないため、キーボードに向かいパソコンに打ち込む文章を偽造中だ。


 こうして私は、『毒の川』から逃れる場所を見つけて、入り浸っていた。

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