いるかは『毒の川』を泳げない
ルーシャオ
第1話
かな子が言っていた。いるかちゃんは変だよ、って。
『
私の住むところは、日本の本州本土と橋で繋がった島『
島唯一の高校には一応、百人ほど生徒がいる。私もそのうちの一人で、全員が顔見知りのような田舎特有の雰囲気をしているから、下手に目立つやつもおらず、頭の良し悪しはともかく真面目な生徒しかいない。
その代表格とも呼べる、友達のかな子が私へ苦言を呈した。
「いるかちゃんはさ、変だよね」
休み時間、二階にある教室の窓辺で風に当たりながら、かな子は突然そう言った。
私は首を傾げるばかりだった。
「そうかな」
「うん。進路聞いたよ、大学進学もせず、就職もせず、東京の親戚のところに行くんでしょ? 普通の親が聞いたら絶対眉をひそめるか、将来を真面目に考えろって怒られるやつだよ」
私はかな子が言いたいことを理解した。
——かな子は『毒の川』を吐き出している。
「私はさ、去年父ちゃん死んじゃったから、就職しなきゃ。弟たちもまだまだお金かかるし、母ちゃんも苦労してるし」
『毒の川』を吐き出しはじめた人間を止める術はない。
「そっか」
かな子はまだ何か言っていたが、私は窓の外に目を向け、意識を逸らした。
学校のグラウンドにはまばらに体操服姿の学生がいて、体育館から教師が出てきた。空模様は怪しく、一時間もすれば雨が降るだろう。遠く見える海の波が灰色で、少しだけ高かった。
休み時間の終了を知らせるチャイムが鳴る。それでやっとかな子は『毒の川』を吐き出さなくなって、席に戻った。私ものそのそと自分の席に着き、英語の教科書を取り出す。
『毒の川』は人間の心を爛れさせ、耳に詰まり、頭を焼く。近づかないことだけが唯一の回避方法だが、かな子でさえも『毒の川』を吐いてしまう。大の大人なら、況んやだ。
どろどろ、どろどろ。何色だろう、紫かな。土を毒で汚染して、植物を枯れさせて、やがては海に到達する『毒の川』。そこではじめて、毒は薄まっていく。海は広くて、たくさんの水に溢れているから、多少の毒くらい中和して流していってしまう。流された毒はどこへ行くのだろう、北極かな、南極かな。深さが一万メートル以上あるという海溝の底に落ちていくのかもしれない。それだけあれば毒はもう出てこないだろう。深海魚はその毒を食べて生きていくしかない、水と砂と死骸だけの極限の場所で彼らは人間が吐き出した『毒の川』を浄化していく。
そんな想像をしていれば、あっという間に時間はすぎる。
放課後、ホームルームが終わった瞬間、私は学生鞄を握って教室からすみやかに出ていく。かな子はバレーボール部の友達と更衣室へ、私になんかもう目もくれない。
去っていく私の耳に、制止の声が届いた。
「更科さん、ちょっと待って。聞きたいことがあるの」
担任の町田先生が、慌てた様子で教室から出たばかりの私のもとへやってきた。二十四歳独身で教師になって二年目、現国教諭——そんな情報しか私の中にはないが、町田先生はまるで私をよく知っているかのように話しかけてくる。
「ここじゃ何だから、進路指導室に行きましょう。時間は大丈夫?」
「大丈夫っす」
「あ、身構えないで大丈夫だからね。お茶も出すから」
生徒を気にかけているのだ、という雰囲気を出す町田先生は、多分騙されやすいんだろうな、と思う。赤本や大学ガイドが棚一面に並ぶ進路指導室のパイプ椅子を勧められて座り、長机にペットボトルの緑茶をコップ一杯置かれて、私は教師面した町田先生との面談に臨んだ。
「さて、更科さんの卒業後の進路のことだけど、親御さんとも話はしたのよね?」
「はい」
「今度お家に電話しようと思ってるんだけど」
「何でですか」
「えっと……更科さんの進路のことで、親御さんとご相談を」
「親は了解してます。というか、親にそうしろって言われて、じゃあそうするって」
「進学も就職もせず、高校を卒業するのを?」
「はい」
「高校の先生としては、それは勧められないなぁと思って」
「でもうちのしきたりみたいなものなので」
そう言って正しいかどうかは分からないが、父の話ではしきたりというのもあながち間違いではないように思う。
数ヶ月前、久々に海から帰ってきていた父と、私は進路について話した。特にやりたいことのない私へ、父はこう助言してくれたのだ。
「若いと何していいか分からんだろ。もし何も思いつかんなら、東京の親戚んところで一年二年居候してみたらどうだ。父さんも昔そうしてて、知り合いに誘われてタンカーに乗るようになってな。天職だと思ってるよ。普通に暮らしてたら絶対やらなかった仕事だからな、そうやって回り道することも人生には必要だ、ってお前の祖父さんの言ったとおりだったよ」
——なるほど、そういう道もあるのか。
私は父の言うことがもっともだと思い、高校二年に上がってから進路調査票に『進学就職は希望しない』と書いた。当然のごとく町田先生からこれは何だと質問を受け、卒業後は東京の親戚のところに行くとだけ答えたのだが、町田先生はそれで納得しなかった。加えて、いつの間にか私の進路の話は漏れており、巡り巡ってかな子の耳にも入っていた、というわけだ。
町田先生は困ったような顔をして、説教を始める。
「更科さん、将来のことはどこまで考えてる? 大学に行きたくないのはともかく、やっぱり手に職をつけてないとどうなるか分からないでしょう? 東京ではアルバイトをするの?」
「分かりません」
「生活費は?」
「東京の親戚が」
「自分では稼がないのね?」
「分かりません」
私の確としない答えに、町田先生のため息は深かった。
私は将来のことはほとんど決めていない。分からないことが多すぎて、決められることがほんの一つや二つしかないからだ。皆と同じ道に行くことに疑問があるとか、不服があるとかそういうわけではない。うちだってお金があるわけではないし、東京の親戚について詳しくは知らないが裕福という話は聞かないから、アルバイトをしなくてはならないかもしれない。
ただ、それは現時点で確定できる未来の話ではない、というだけだ。皆は未来を確定できるのだとしても、私にはそれはできていない。ぼんやりと生きている、そう怒られても「まあそうかもしれない」としか言えない。
しかし、世の人間はそういうぼんやりを快く思わないらしく、かな子だって『毒の川』を吐くほどだ。
ましてや、町田先生は七、八歳しか違わないが大人で、当たり前のように『毒の川』をこぼしていく。
「困ったわね。更科さんももっと深刻に将来のことを考えられればいいんだけど」
町田先生の『毒の川』から遠ざかるために耳を塞ぎたかったし、どこか遠くを眺めたかったが、ここは進路指導室という狭い部屋の中で、窓の外は薄暗い雨だ。
幸いにして、町田先生はそれ以上『毒の川』を吐かなかった。
「仕方ないわ、また気が変わったら相談しにきて。卒業まで一年半あるし、ここの資料を見てもいいから、ね?」
「はい」
私は、出された緑茶をちびりと飲んだ。苦かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます