影煩い

白河夜船

影煩い

 大学進学を機に上京することが決まって、かねてからの口約束通り兄の部屋で一緒に暮らす運びとなった。兄弟仲は別に悪くない。互いにとって取り立てて問題ない同居であればこそ、仕送りをしてくれる家族は元より、俺も兄も割合乗り気だったのだけど、どういうわけか近頃兄の様子がおかしい。

 引っ越しの段取りを話し合う時、妙に歯切れが悪いというか気まずそうな雰囲気なのだ。挙げ句の果て「一人暮らしの方がいいんじゃないか?」などと言い出す始末で俺は戸惑った。

「今更そんなこと言われても困る」

「だよなぁ」

 強く拒絶するつもりはないらしく、電話口の兄は溜息を一つ吐いたきり、後はもう諦めてしまったようだった。

「恋人でも住んでるのか?」

「違う違う」

「じゃあ大麻を栽培してる?」

「んなわけないだろ」

 俺は善良な市民だよ。

 そう曰った兄の部屋で人間の死体を目撃したのは、上京した当日であった。






 夕方、アパートに着いて兄の部屋のチャイムを押すと、やや間を空けてドアの鍵をかちゃかちゃ外す音が聞こえた。入れよ。と兄がインターホン越しに言う。こういう場合、中から開けるものではないか、と少しだけ訝しみながらもドアを引き開け、俺は思わず絶句した。


「………それ、どうしたの」


 やっと声を絞り出した俺に、バツが悪そうな苦笑を浮かべて兄は「ちょっとな」と軽く肩を竦めた。顔に、首に、痛々しい痣があり、所々皮膚が破れているのか赤いものが滲んでいる。

「け、喧嘩……?」

「いや。うーん、どうなんだろ」

 首を捻りつつ、早く閉めてくれ、と兄は目顔で俺に促した。悪目立ちする姿を人に見られたくないのだ、と察して玄関に入り込んで、ドアを閉める。兄は頷いて「あのさ」と言いにくそうに口許を撫でた。

「警察とか救急車とか大丈夫だから」

「でも、それ」

「あー…、こっちじゃなくて」

 あっち。

 あっち? 兄の指が示した先を目で追うと、扉があった。事前に見せて貰った間取り図を頭に思い浮かべる。あの扉の先には台所付きのリビングがあったはずだ。何となく嫌な予感がして兄の顔を窺えば、困ったように兄は眉根を寄せて「大丈夫だから」と繰り返した。

 よく見れば、扉に嵌まった磨り硝子に血痕らしきものが付着している。室内にほんのり漂う鉄錆めいた匂いに気がついて、俺はつい鼻を押さえた。何が大丈夫なのか、さっぱり分からない。兄が先立って薄暗い廊下を歩き、リビングの扉を開けた。


 夕陽に照らされた仄赤い部屋に、血塗れの人間が転がっている。


 痩身の若い男だった。失血のせいか顔は蒼白く瞳は虚ろで、最早息をしていないのだろう、唇は薄く開かれたまま、身動ぎする様子もない。

「……兄貴………」

 呆然と呟いたのは、兄に何かを言おうとしたからではなかった。


 兄だったのだ。


 兄は俺の隣に立っている。しかしどういうわけか、床に転がる死体もまた確かに俺の兄だった。






 リビングは使えないので、兄の寝室で夕飯にと空港で買っておいた弁当を食べた。レンジは当然、台所が付属しているリビングにある。温められず冷たいままの食事だったが、弁当とは偉いもので冷たくても十分美味い。

 こってりしたタレの絡んだ焼き肉弁当を頬張りながら、死体を見た後でも肉は普通に美味いんだなぁ……と俺は案外図太い自分に呆れつつ兄の様子を窺った。当の兄も美味そうに飯を食べている。ただ口内を怪我しているのか、時折痛そうに眉を顰めた。

 食事を終えて一息吐いたところで、逆光なんだよ、と兄が不意に訳の分からないことを呟いた。


「一年くらい前からかな。時々、ああいうのが現れるんだ。なんで現れるのか、どうして現れるようになったのか、そこら辺はよく分からない。

 心当たりがないんだよ。とにかく現れる。

 俺が忘れてるだけかもしれないけどさ。

 現れるのはいつも俺が一人の時で、俺の形をしたものがいつも俺を殺そうとする。俺も相手を殺さなくちゃと思う。で、殺し合うんだけど、その時は必ず右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、西日を直視してるみたいに眩しいんだ。

 お前、西日をじっと見たことあるか? 向き合ってる内にだんだんと物の輪郭や色が分からなくなる。加えて逆光のせいで相手の顔も背格好もよく見えなくて、ぼんやりした人影と取っ組み合ってる感じなんだ。必死でそれを殺した後、視界が戻ってようやく判る。ああ、俺は俺を殺したんだなって」


 そこまで一息に話して、兄は溜息を吐いた。

「死体はさぁ、心配いらない。しばらくしたら消えるから。この怪我も部屋の状態も、全部何もなかったみたいに元通りになる」

 だから大丈夫。と兄は言うのだが、何が大丈夫なのか、やはり俺には分からなかった。その現象のせいで、兄は俺がここに住むのを渋っていたのか。

「いや、大丈夫じゃないだろ。何度も殺されかけてるってことじゃないか」

「んー。まあ、そうなるな? でも大丈夫だよ。だって、こっちも向こうも寸分違わず『俺』なんだから。どっちが死んでどっちが生きてもおんなじさ」

「そんなことないだろ」

 咄嗟に否定した俺を見詰めて、兄は、

「本当に?」

 と悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「何もかも『俺』なんだぞ。姿も、声も、話し方も、考え方も、記憶も、趣味嗜好も、何もかも―――『俺』であっても自分ではないという一点が重要なのは、当事者である俺にとってだけじゃないのか?」


 


「それは、」

 どういう意味だよ。

 問い質したかったが、藪蛇という言葉が頭を過って口を噤んだ。兄は面白そうに笑っている。揶揄われているだけなのか、それとも本当になのか。考えても考えても判断が付かずに、俺は眉間を押さえた。

 この兄はオリジナルの兄なのか。それとも兄を殺して成り代わったオリジナルと寸分違わぬ別の兄なのか。兄は兄と殺し合い、生き残った方が俺の前にいる兄で、仮に記憶まで同一だとするならば兄自身、己がオリジナルであるか否か、実のところ本当には証明できないのでは……兄は兄で兄が兄だから――――――…

 分からん。

 何もかもが曖昧模糊としている一方で、一つだけはっきりしていることがある。


 今日からここでこいつと一緒に暮らすのか………


 混乱した頭を抱えて、俺は途方に暮れた。


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