第18話 マスター、再び
上体をほんのわずか反らして【鼠】が放った一撃を
足首より少し上の、肉の薄い場所を狙ったアタシの足払いは狙い通り【鼠】の脚を捉える。ドヅッという鈍い音と、確かに【鼠】の脚を捉えた感触がアタシの脚から伝わってくる。
常人なら、これで骨が砕けて立てなくなる。……そう、常人ならね。
生憎と、アタシが今相手にしているのは常人なんかじゃなくて、暗殺ギルドのギルドマスターさ。
【鼠】は、アタシの足払いを食らっても表情を変えず、微動だにしない。この程度では何ともない、ということか……。
それと同時に、アタシの脚にアタシが放った足払いと同じ分の衝撃が返ってくる。鈍痛が、脚だけじゃなく全身に走る。一瞬、衝撃と痛みで意識が飛びそうになる。
それだけ、強い足払いを放った何よりの証拠ではあるのさ。
常人なら、これで足の骨が砕けていてもおかしくはないさ。
でも、生憎と、アタシもまた常人なんかじゃない。このくらいで音を上げるほどヤワじゃないの。
【鼠】は、足払いをして体制を崩したアタシの腹を狙って、蹴りを出してくる。骨がなく、皮下に内臓のある腹は人の弱点の一つ。【鼠】はそのことをよく解っていて、腹を蹴るという判断をしたんだ。……【鼠】は、そういう奴さ。
常人なんかじゃないアタシも、同じく常人なんかじゃない【鼠】の蹴りを腹に喰らったら流石にマズい……。
アタシは咄嗟に、アタシの腹を狙った【鼠】の脚を両手で掴むと、蹴りの勢いを殺さずに、そのまま掴んだ脚を上に跳ね上げる。
たまらず転ぶ【鼠】に、体勢を立て直す間を与えず手を持ったダガーを【鼠】の首を狙って振り下ろす。
【鼠】の首を突き刺したかと思ったアタシの一撃は、カツッと乾いた音がしただけだった。
【鼠】は、アタシの一撃を予測していたのか、すぐさまバク転をして起き上がる。同時に、【鼠】の反撃を警戒して、アタシはバックステップをして距離を離す。
アタシと【鼠】は、睨み合いながら互いに次の一手を読み合う。
アタシは――そして、【鼠も】――本気で相手を殺したいと思ってるわけじゃないさ。だけど、今アタシたちはお互いに本気で殺し合っている。それは何故かって……?
剣士同士が嘘偽りなく相手と語るには剣でしか成しえないように、格闘家同士が嘘偽りなく相手と語るには拳でしか成しえないように、暗殺者同士が嘘偽りなく相手と語るには、殺し合うしかないのさ。
…………。
お互いに、次の一手が決まった。それは、相手の目を見ればすぐに分かることさ。暗く沈んだワインレッドの瞳が、光を宿す。
次が最後の一手さ……。
アタシは両手のダガーを逆手に持ち替える。そして、わずかに体を屈めて【鼠】の出方をうかがう。
【鼠】は、そんなアタシを見て同じようにダガーを逆手に持ち替えてわずかに体を屈めて、ジリッと足をほんの少し踏み出す。【鼠】もまた、同じように足を踏み出す。
礼拝堂の空気が重い。「ハッ……」と小さく息を吐き出す。そうしてから、また一歩、ジリッと足を踏み出す。
ほんのわずかにでも動けば心臓を貫かれるようなヒリヒリとした感覚が全身を襲う。
アタシはもう一度「ハッ……」と息を吐き出してから、【鼠】を見やる。
「いいかい?」
アタシの視線を受けて、【鼠】はニヤリと片方の口の端を上げてみせる。
「……来るなら来い」
【鼠】の言葉が終わらない内に、アタシは大きく踏み出す。このまま【鼠】の息の根を止めてやるさ……。
「はいはい! お二人さん、そこまでよ!」
アタシでも【鼠】でもない声が礼拝堂に響く。聞きおぽえのある低い声……。いきなりのことに気勢を削がれて、アタシと【鼠】は、思わす目を丸くして声のした方に視線をやる。
「…………マスター!」
アタシは声を上げる。いつの間にか、髭面に眼帯の顔に傷を持つ男が礼拝堂の入口にいた。王都ナハリの下町にある、灰色の銀貨亭のマスターで情報屋のダイさ。
「情報屋……。何の用だ?」
【鼠】が暗殺者から暗殺者ギルドのギルドマスターの顔に戻って、怪訝そうにマスターに声をかける。
「あー、それについてなんだけどね。ちょぉっと、ニコちゃん借りていいかしら? ね、【鼠】ちゃん♡」
マスターがアタシの方をチラチラ見ながら笑顔で【鼠】に話す。
「ね、【鼠】ちゃん……。相変わらずお前には、調子を狂わせられる。……まあ、ニコと話したいなら好きにするといい」
ちゃん付けで呼ばれた【鼠】は不機嫌そうにマスターに返事をする。
「あらぁ、ありがとね、【鼠】ちゃん! じゃあ、ニコちゃん。ちょぉっとだけいい?」
マスターは【鼠】に投げキッスを送って、アタシの方を見る。
「ああ、分かった」
アタシとマスターは礼拝堂から出て、元きた道を戻り、地上に出た。マスターは何も言わずに、夜の暗闇に包まれたメッズ地区を歩いていく。
いくらアンカンセルで最も治安の悪いメッズ地区とは言え、アタシたちに手を出そうなんていう愚か者はそうはいない。
まあ、それだけ、アタシは裏の世界では名が知られている、ってことなのさ。
マスターはメッズ地区を出て、更に歩く。歩く方向は、冒険者ギルド本部の方だね。
「まさか、冒険者ギルド本部まで行くんじゃないだろうね?」
アタシが小声でマスターの背中越しに声をかける。
「……その、まさかよ」
マスターはこちらを振り返らずに声だけ寄越す。
「ていうか、何でまたアルカンセルまで来たのさ?」
アタシは疑問をぶつける。
「それも、後で話すわ」
いつになく真面目な調子のマスターの声。
「…………分かったよ」
アタシは、そう言うしかなかった。
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