第15話 影

 夏の終わり。秋のはじまり。

 ……夜風が冷たい。ニッポンの田舎道を歩く。

 辺りの草むらから、リーンリーンという涼やかしい音が聞こえてくる。その音の正体は、鈴のような鳴き声からスズムシと名付けられた虫だということを澪から教えてもらった。


 スズムシの鳴き声をはじめて聞いた時は単なるノイズにしか聞こえなかったけど、澪にニッポン人は昔からスズムシの鳴き声を愛でていたと教えてもらってからは、何だか、このリーンリーンという涼やかしい音が可愛らしく思えるようになったね。

 アタシの世界にも虫はいるけど、鳴き声と言えば、ヴィヴェゼンの大森林に棲む鳴き声を聞いた者の感覚を狂わせる狂乱バッタだとか、そういう類のものばかりで、鳴き声を楽しむような考え自体が存在しないさ。



 そんなことを考えながら、アタシは澪の家の近所を歩く。ニッポンの都であるトーキョーは夜でも人が絶え間なく行き交うと聞いたが、同じニッポンでも田舎であるスザク市では夜に出歩く人はいない。

 とは言え、アタシの世界のように、真っ暗でもないし野盗やモンスターに出食わす心配はない。道端に一定の間隔で立つ街灯が夜道を照らしている。


「……このまま、ずっとニッポンにいてもいいかも知れないね」

 夜道をゆっくりと歩きながら、アタシはそう独りちる。

「この、至極平和なニッポンにさ……」

 そうして、ふうっと一つため息を吐く。

「さて、そろそろ帰ろうかね」

 アタシか家に帰ろうと踵を返す。


「…………!?」

 アタシが振り返ると、一つ向こうの街灯の明かりの下が黒く歪んでいる。さっきまでは、そこには何も無かった。

 一瞬にして、背中に汗が浮かぶ。ジワァっとする嫌な感覚が背筋を走る。

「……………………」

 数瞬、アタシは構えたまま動かなかった。でも、その黒い何かも動かなかったから、アタシは恐る恐るソレに近付いてみた。


「影、かね」

 黒いソイツの正体は、ズワシの使いである影だった。アタシをこの世界に転移させた張本人であるズワシ。その使い……。


 …………?

 影は、ズワシが表立って呼べない客を呼ぶ時に使う。てことは、つまり……?

 そのことを思い出した瞬間、影は腕をアタシの肩に伸ばし触れる。

「アッ……ウッ……!」

 頭の中がオーガの棍棒で引っ掻き回されるような、酷く不快な感覚に襲われる。アタシの意識は混濁し、すぐに全身の感覚も意識も失った。



 ……。

 …………。

 ………………。

 ……………………。



「…………ッ!!」

 意識と全身の感覚が戻ってくる。気付けば、アタシはニッポンに行く前の、四方を本棚に囲まれた魔術師ギルドの一室にいた。

 部屋は、転移魔法陣の発動によってめちゃくちゃになっていたはずだけど、そんなことは無かったかのように綺麗になっている。


 ああ、帰ってきたんだね。アタシの世界にさ――。


 一ヶ月ほどしか離れていなかったはずなのに、懐かしさと寂しさが同時に込み上げてくる。

「やあ、おかえり。ニコ、我が友人」

 涼やか極まりない声が聞こえてくる。声の主を確認するまでもない。

「ズワシ、人を強引に異世界に転移させといて……。次はまた、強引にこの世界に連れ戻しといてさ……。その挨拶はないんじゃないのかい?」

 アタシはそう言って、声の主の方に顔を向ける。


 部屋の一角に豪奢なテーブルと一対のソファー。片方のソファーに座り、優雅に足を組んでカップを口に運びなが、こっちを見て涼しい笑みを浮かべているズワシ。

「……やれやれ、紅茶なんて飲んで優雅なものだね」

 アタシはズワシに向かって皮肉を言う。

「ハハハ。ニコ、残念だね。これは紅茶じゃないよ。珈琲コーヒーさ」

 ズワシはアタシの皮肉を相変わらずの涼しい笑みで受け流すと、そう言う。……いや、まあ、紅茶か珈琲かとかそういうことじゃなくてさ……。


「いいかい? ニコ、この珈琲はね……」

 ズワシは口につけていたカップをテーブルにあるソーサーに置きつつ、嬉しそうに話をはじめる。

「三年戦争が終結した後、アンブロシア兵の多くが職を失ってしまった。兵たちが職を失ったままでは、国にとっては危険だ。そこで、事態を重く見たアンブロシア王の命で、職を失った兵たちで王国南西部に広がるヴィヴェゼンの大森林の開拓をはじめたんだ。あそこは危険なモンスターも多い反面、資源も多いからね。屈強な兵だった者たちならモンスターに対応しつつ、大森林の開拓ができる、と見込んだわけだよ。そして大森林の一部が開拓され、そこに農園ができた。そこで栽培されるブラックルビー豆から作った珈琲は格別でね。何と言っても苦味がスッキリしていて……」


「あー、ズワシ? お得意の蘊蓄うんちく話の途中すまんね。アタシをなんで異世界こっちに呼び戻したんだい?」

 ズワシの蘊蓄話を聞くと、なぜだか怒る気力が失せる。怒ることすら、めんどくさくなるというか呆れるというか……。

「ああ、そうだったね。ニコ、君を呼び戻したのは勇者に動きがあったからだよ」


「ほう……? 動きがあった、と言うと?」

 小さくため息を吐いていたアタシは、『勇者』という単語を聞いた瞬間、暗殺者としての本能が目を覚ます。

「先刻、勇者と奴隷二人が王都をったよ。勇者たちの動きから予測するに、向かう先は自由都市アルカンセルで間違いないね」


「自由都市アルカンセル……。デベッタのとこかい。……まさかとは思うけど、勇者の奴、冒険者にでもなろうってのかい?」


「多分だけど、そのまさかなんじゃないかな」


「…………解せないな。なんだって、そんな無法者アウトローまがいな冒険者になりたがるんだい?」


「さあ? それは私にも分からないよ。ただ……」


「……ただ?」


「ニッポンから来た勇者には、きっと、冒険者になりたいがあるんだろうね」


「『ニッポンから来た』っていうか、ズワシ、お前が召喚したんじゃないのさ」


「まあ、そういうことになるかな。……それより、もちろん行くんだろう? アルカンセルに」

 ズワシはアタシのツッコミを涼しい笑みのまま受け流すと、アタシに言う。

「そりゃ、行くしかないじゃないのさ。アタシが、 どんな手を使ってでも、必ず仕事をやり遂げる暗殺者だってことは知ってるだろ?アタシに、失敗という二文字は存在しないさ」

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