第6話 嫌いなら嫌いで結構

 「ただいま帰りました」

 階段を上って、私は玄関のカギを開けた。高級住宅街に堂々と建つ大豪邸だ。真っ白な壁に真っ赤な屋根を持ち、三階建てで、大きな庭まで付いている。しかし壁には所々に亀裂が走り、そこから苔が生えていた。窓のいくつかにはずっとカーテンがかかっており、庭は管理する者がいないために荒れ放題な有様だ。

 ここが私の暮らす家だ。正確に言えば────私と父親の。しかし父親はもう随分家に帰っていない。最後に父の姿を見たのは、二年生が始まった時の始業式で私がスピーチをしている時だ。

 「……食べるもの……」

 キッチンをごそごそ漁る。カップ麺やエナジーバーのごみが纏められた袋が大量に置かれている。棚の中から新しいエナジーバーを発見した。冷蔵庫を開けると、いくつも詰められている二リットルの水ペットボトルのうち一つを取り出して、私は自室に向かった。

 「ふぅ」

 背負っているヴァイオリンケースと鞄を下ろし、私は本棚から一枚のレコードを取った。レコードをプレーヤーに置くと、スーッ、という時々途切れるくぐもった音が鳴り、音楽が再生された。

 「…………」

 エナジーバーを口に咥えながら、私はスコアを広げてレコードに耳を澄ませる。そして自分がどうやって指揮を振っているかを想像する。理想の音を探し、それが今の自分のオケの音とどう違うのか、どうやったら近づけるのかを考える。

 オーケストラの進みが遅い原因────それは、オーケストラが私の意図を理解していないことだ。そしてなぜだか理解しようともしないことだ。

 「なんでよ。音楽家でしょ、あなたたちは……オケなら指揮者の指示に従いなさいよ……」

 私は課題曲をどのように理解し、どのように表現するべきかは散々語っている。言い尽くしている。しかし私の熱量にオーケストラが着いてこない。音楽家として当然だと私が思っていることが彼らにとっては当然ではない……らしい。

 「嫌いなら嫌いで結構よ。それでも私はやらなきゃダメなの」

 オーケストラの面々は私を嫌っている。そんなことは私だって分かっている。しかし音楽をやる上で人間関係の馴れ合いは不要だ。音楽で語り合えればそれでいいんだ。

 「私がもっと引っ張らなきゃ……有無を言わさないくらいに……余計な雑音を黙らせるくらいに……」

 夜が更けていった。私がやっと新しい方向性に満足し始めた時には、すでに日が昇り始めていた。

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