第5話 なんで私を気に掛けるの

 「はぁ……」

 その夜。帰り道。次々とヘッドライトに影を百八十度移動させられながら、大通りを私は痛む頭を抑えつつ歩いていた。頭痛の原因はもちろん、先ほどのミーティングであった獅々田くんの指摘だ。

 「時間が足りない……」

 試験まで。あと二週間弱しかない。今まで練習してきた期間は三週間ほど。曲の中でリツが納得いくまで作り上げられた部分は半分も行っていない。最初の惨劇のような演奏からすれば多少は聞けるような音になってきたとはいえ、単純に計算すれば間に合わないのは明らかだ。

 「でも、妥協するわけにはいかない……ここで諦めちゃダメだ……」

 六月頭にある中間試験。全ての科で一斉に行われる実技試験には、当然オーケストラも含まれている。

 御門学院のオーケストラは有志型と選抜型に分かれている。有志型はその名の通り、オーケストラを組みたい生徒たちが自主的に集まり、学院に許可を貰っている型だ。一方選抜型は優秀な成績を収めている生徒たちが集められてオーケストラを組む型だ。私たち『第三オーケストラ』はこれに当たる。この単位を取れば他の科目の単位が一部免除になることもあり、生徒たちはこぞってオーケストラに入りたがる。

 獅々田くんの発言は最もだった。単位を取る程度の演奏は選抜オーケストラに入るほどの実力の持ち主ならば容易いだろう。しかし単位を取れたとして最低限の評価でなぜいいのか、そんな音楽をやって果たして演奏家と言えるのか。

 「ここで私はもう一度音楽をちゃんとやらなきゃいけないんだ。そうしないと……そうしないと……また────」

 「ういっすー。おひさー」

 「きゃあっ!」

 後ろから誰かに急に声を掛けられ、私は思わず大声を上げてしまった。

 「な、なんですか! 誰ですか! 警察呼びますよ!」

 「待って待って、あたしだって! あたし!」

 街灯にピアスが反射して目が眩んだ。よく見るとそこには創路さんが立っていた。私はすぐさまスマホを取り出した。

 「やっぱり警察呼びます」

 「なんで!?」

 「だって……あなた怖いんです。こんな夜にいきなり背後からなんて。非常識です。痴漢です」

 「冤罪すぎる! 『漢』じゃないし、『漢』じゃ! 友達ならこんくらいするし!」

 「あなたと友達になった覚えはありません。用は無いですよね。では」

 さっさと歩き去ろうとする私の手を、創路さんは慌てて掴んだ。

 「ちょっ、タンマ! なによ、冷たいなぁ。用は無いけどお喋りしながら帰ろーよ」

 「手、離して。ヘンタイ」

 「ご、ごめんて。そんな目で見ないでよ……」

 創路さんの手を振り落とし、私は早足で歩きだした。しかしすらっとして足が長い創路さんとは歩幅が明らかに違うせいで容易く追いつかれてしまった。

 「つ、着いてこないで」

 「あたしの家こっちなんだけど」

 「嘘」

 「ホント」

 「やめてください。私、あなたのこと嫌いって言ってますよね」

 「まぁまぁ。こんな夜道に女の子一人じゃ危ないっしょ」

 「あなたも女の子でしょ……」

 「だから二人だったら怖くなーい」

 冗談めかして言ってはいたけれど、言葉の裏に真摯なものを感じた。やはり、街灯があるとはいえ、星が出てくるような真っ暗闇の夜に一人はやはり心細かった。しかし私はそれをおくびにも出さず淡々と歩みを進めた。

 「ストーカーとかやめてください。最低ですよ」

「ヤダなぁ、その、リツちゃんを出待ちしてたみたいなその言い方。マジで偶然なんだって」

 「じゃあ何してたんですか?」

 「バイト」

 「は?」

 バイトだって? 心底呆れた。私は創路さんに軽蔑し切った視線を向けた。

 「あなた、御門に通ってる自覚ありますか? バイトなんかせずに練習したらどうですか」

 「いやぁ、バイト楽しいからさ。それにお金欲しいし」

 「親にねだったらいかがですか。お小遣いくらいくれるでしょう」

 「親いねぇもん、うち。御門にも奨学金で入ったし」

 思わず私は足を止めた。他人に興味を抱く暇の無い私にも、流石に今の発言は不躾に言い過ぎたと分かった。

 「あの、ご、ごめんなさい。私、何も知らずに」

 「いいよいいよ。てか、親いないって分かって態度変えられんのキモイから、普段通りでお願いしていい?」

 「でも……」

 「いいからいいから」

 笑顔で「ね?」と茶目っ気たっぷりにウィンクされた。しかしその表情にいつもの軽い雰囲気との違いを感じて、私は素直に引き下がった。

 「……分かりました。まぁ、そんなの関係なくあなたはキモイですよ」

 「ひっど! あははは!」

 私の不安を吹き飛ばすように創路さんは豪快に笑った。それに内心ホッとした。

 「バイトは、何をやってるんですか」

 「ん、興味ある?」

 「いいから答えてください」

 「ジャズバー」

 「バー……って、あなた未成年ですよね!?」

 あまりの私の慌てぶりに創路さんは吹き出した。

 「大丈夫だってぇ。むしろ未成年だから八時に帰されたって話。それに、ジャズバーで演奏してればお客さんの前で演奏する練習になるでしょ? クラシック以外の音楽に触れることも大事とか、リツちゃんなら言い出しそうだし」

 「……ジャズはあまり好きではありません」

 私は暗い表情で呟いた。

 「その場の雰囲気で演奏を変えるジャズは、上手くいけばそれでいいのかもしれません。ですが失敗すればただの無責任です」

 「そうかぁ? アンサンブルって面で考えれば、オケと変わんない気もするけど」

 「……そう、でしょうか。私はオーケストラの方が好きです。楽譜に書かれている秩序だったハーモニーを奏でることに美しさを感じます」

 「そう? 好みかなぁ、これは」

 私は肩にかけた鞄の取っ手を握りしめた。

 「ごめんなさい。別にあなたの好みを否定したいわけではないんです。ただ……」

 「いいよ、別に。あたし、今まで碌にオケの曲聞いてこなかったし。そういうもんでしょ」

 「……はい」

 そこからは二人は無言で歩き続けた。遠くで聞こえる車の音と光。夏の近づきを思わせる温い風。たまに聞こえるお互いの息遣い。湿った空気の香り。靴とサンダルが地面に擦れる音。すれ違う人々の話し声。夜空に浮かぶ数少ない星々の輝き。通りに建つマンションやビルの明かり。

 「あたし、こっちだから」

 「私はこっちです」

 十字路に差し掛かり、私たちは逆方向に分かれることになった。

 「あの、ありがとうございました。ここまで送ってくれて」

 頭を下げると、創路さんはフッ、と笑った。そして「いーよ、そんなのいちいち言わなくて」と言い残して去っていった。

 「……あの人は、なんで私を気に掛けるの」

 私はそう独り言ちながら、彼女に背を向けた。

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