第6話

 暗闇を裂いて、タクシーが現れた。バス停の隅っこにいた私たちの姿を認めて、タクシーを止める。ドアが開いた。

「栞は助手席乗りたい人?」

「いや……」

「じゃあ、一緒に後部座席やね」

 彼女は車に乗り込み、ずいずいと奥へ進んで行った。私はしばらくその場に立ち尽くしていた。あまりにも急なことで、あまりにも強引なことだったから。だけど、それを避けられないのだと知って、びくびくとタクシーに乗った。

 夜にタクシーに乗るのは、初めてだった。

「目的地、こちらでお間違いないですね?」

 表示されたナビを彼女が覗き込み、「はい」と相槌を打つ。そしてタクシーは動き出した。

「お客さんにこんなこと聞くのもなんですけど……」

 運転手が言いづらそうに呟く。

「『訳アリ』って訳じゃないんですよね」

 ……「訳アリ」?

「全然ちゃいますよ。日中忘れ物してもうて、その中に財布が入っとって。明日金沢行くんでどうしても回収せなあかんからタクシー呼んだんです。残ってるといいんですけど」

「そういうことですか。多分、忘れ物センターみたいなとこはないんで起き忘れた場所にあると思いますよ。どこかの店に忘れてきた訳じゃないですよね?」

「それがわかんないですけど、多分写真撮る時置いたんじゃないかと」

「ああ、『国定公園越前海』って書いてあるモニュメントで写真撮って、その近くのベンチに荷物置いてきた感じですか」

「あ、そうですそうです」

 私はそれを止めるか否かずっと悩んでいた。明らかに、彼女は嘘をついている。きっと、よくないことだって私にも分かる。

 だけど、夕陽さんになにがあったのか聞きたい。

 いや、それすらも言い訳に過ぎない。

 私は恋心に応えられない代わりにめぐるに満足して欲しくて、この旅に付き合っている。どんどん遠ざかっているのかもしれない。だけど、この子が満足するまで、一緒にいてあげたい。何をしたら満足なのかは、私にはわからないけど。

 だから、私は会話をそのままにした。会話が進む。車も進む。やがて、目的地に着いた。

 周りは、本当の意味で真っ暗だった。上を見れば夏の大三角形がよく見える。下を見れば、足元すらおぼつかない。

 めぐるがスマホを懐中電灯モードにして、それで地面を照らした。ここは駐車場らしい。彼女がスマホを左右に揺らすと、建物が見えた。そっちに近づいていく。

 波の音がした。

「ここ、どこ?」

「東尋坊」

「どこ……」

「観光名所」

「なんで、今なの。ここなの」

 訴えかける。返事はない。

 建物の壁に近づいて懐中電灯の丸い灯りが大きくなって、彼女は右にぐるりと回した。そこには、階段があった。

 彼女はずいずいと階段を下っていく。躊躇いはなかった。手すりを持って、踏み外さないよう薄ら灯った月明かりで照らされた足元に目を凝らして、ゆっくりと下った。

 下は商店街のようになっていた。真夜中にも関わらずいくつかの電灯が点っている。じわりと明るいその灯りに照らされた地面は白いブロックで統一されていて、順路を示すように黒いブロックがうねうねと真ん中を通っている。

 道の両脇には商店街特有のお店の上に伸びているカラフルな屋根。それからシャッター。こんな時間だからどこも閉まっている。

「お店、全部閉まってるけど」

 一足早く下に着いていて私を待っていた彼女に話しかける。

「お店なんてええねん。ほら、行こ」

 暗闇の方を指差す。

 行くというからには、彼女は行くだろう。そう思っていたので、その背中が動き出すのを待っていた。だけど、一向に動かない。

「……手、つないであげよっか?」

 後ろから手を差し出す。

「……ええの?」

 振り向く。髪がバサっと乱れて、夜の一部になる。

「……それで勘違いしないなら」

 彼女の動きが止まる。出かかっていた手がここまで届かない。開いた手をゆっくりと握って、また開いて。

 逆光になっていて表情はよく見えない。

 やがて、彼女は意を決して、私の手を取った。少し遠慮がちな手つなぎ。それが、私たちの関係。

 暗闇に向かって歩き出す。

 波の音がどんどん大きくなって、空気が湿り気を増していく。

 道の端に公衆電話が光っていた。それから、緑色の灯りが一つ浮かんでいた。

 目の前に黒いものがどんどん広がっていく。

「ここは、東尋坊」

 彼女が呟く。

「いくつもの柱状の岩と日本海が織りなす、絶景の見れる場所」

 少しだけ嬉しそうに、そう呟く。

「見える? 絶景は」

「全然。海も空も真っ暗なだけやもん」

「あはは」

「でも私は嬉しいんや。この場所を私と栞だけで二人じめしてることが」

「私はせっかくなら絶景を見たかったけどね」

「でも、悪くないやろ? 夜の東尋坊も」

「昼に来たことないし」

「あははっ。そらそやな」

 手を離して、彼女は崖っぷちを歩いていく。私はそれを追いかける。なぜか二人とも「あはは」と笑いながら。

 彼女は崖に腰掛けた。

「いいの? ワンピース穴空いちゃうんじゃ」

「ええねん。疲れたから座る。そんな生き方で」

「それもそうだね」

 私も崖に、彼女の隣に腰掛けた。

 こんなに近くにいるけれど、彼女は私に触ったりしない。肩に寄りかかってきたり、手を重ねたりしない。もう、全部わかってるようだった。

 そんな感じの空気が流れた。

「まだ、夕陽葵のことが好き?」

「うん」

「じゃあ話そか。夕陽葵のこと」

(投稿,第二章第六話)


「夕陽葵と私が出会ったんは、多分小学校2年生の頃やな。その頃、夕陽葵は多分美容学校に通っとって、バイトでエレクトーンの家庭教師をやっとった。家庭教師……って言い方も変か。よぉ分からんけど、多分個人レッスンみたいなことやったと思う。それからしばらくは何もなかった。態度は懇切丁寧で、親への挨拶も明るくこなす。だから親からも気に入られた。その頃、私はエレフェスの地区大会で優勝した栞の演奏を見て、本気でエレクトーンをやろうと練習しとった」

 私より少し長い夕陽さんとの関係。妬ましい。

 小学校低学年の部、ヤマハエレクトーンフェスの地区予選で入賞して大阪までエレクトーンを弾きに行った思い出。懐かしい。

 その頃からずっと私を思い続けていた彼女、いじらしい。

「けど、夕陽葵はエレクトーンの腕前はそこまでやった。まあ小学校低学年レベルならそれで良かったんやろうけど、私は栞に憧れとったから、それは嫌だった。けど、『新しい講師は男性しかいなくて不安だ』って父親が言うたからずっとそのままやった。私がフェスを諦めて習い事を辞めたいって申し出た頃、夕陽葵が美容師になった。だけど、それからも夕陽葵は居座り続けた。それで、中学生のある日……もう……言いたくない。……言わん。その頃には、『自分は家庭教師時代に作った教え子の女の子と関係を持っている』、『美容師をやりながら、キープの女の子を何人か作っている』、『そのうちの一人が栞』なんて話もしとった。全部、『でも私が好きなのはめぐるちゃんだけだよ』ってつなげとったけど」

 彼女がため息をつく。

「キモいわ」

 彼女がこちらに目線を向けた。「これでもまだ好き?」。そう聞かれていた。

 私は狼狽した。

 夕陽さんのことを嫌いになりたくなって、狼狽した。子供と無理やり関係を持とうとする。それはこの世で考えられる罪の中でも、最も嫌悪すべきものに思えた。吐き気のするような悪に思えた。

 それでも、私の目の前からは夕陽さんのあの優しい微笑みが消えない。髪をかきあげる可愛らしい癖が忘れられない。私の髪がシャンプーであわあわのままなのに椅子を起こしてしまったりする、その少し抜けているところが愛おしい。何度も言ってくれた「かわいいね」という甘い言葉が耳から離れない。

 夕陽さんは、どうやっても否定できない、私の恋そのものだった。

 私は、「うん」と頷いた。

「でも、めぐるは好きな人思いのええやつってことはわかったわ」

 そう付け加えた。

 めぐるは満足したような、寂しいような、見たことのない顔をした。

 そんな感じの雰囲気がまた流れた。

「方言、戻ったな。これから夕陽葵に何があったのか教える」

 めぐるが立ち上がった。

「正しくなってな」

 私も立ち上がる。目を見たかった。

「正しく」

「うん」

「言われても変わらへんよ」

「せやろな。それもわかっとんねん」

 手に持っているスマホの懐中電灯が海を照らした。それを消さずにスクールバッグに入れて、「これ見といて」と地面に置いた。

「私、そこで電話してくる」

 通ってきた道を指差しながらそう言った。向こうには、電話ボックス。無言で頷くと、彼女はタッタと向こう側へ走っていった。そして飛び降りた。

 崖から飛び降りた。

「あ」

 っと唱えても、返事は返ってこない。

 呆然とその場に立ち尽くした。


 いつまで経っても、その光景は変わらない。足元にはスクールバッグがあって、緑色の光に照らされた崖があって、遠くに電話ボックスがあって、めぐるはいない。

 どうしようもなく、暗い。

 一つだけ明るいものがあった。めぐるが置いていったスクールバッグの中から光が溢れている。懐中電灯モードにしたまま電源を切らずにそのままバッグの中に入れたのだ。

 それを慎重に持ち上げた。光が大きくなる。決して落とさないように胸の前に両手でスマホを構えて、私はめぐるがいなくなった辺りによろよろと近づいていった。

 懐中電灯で地面を照らす。ごつごつとした岩肌が露わになる。岩肌を照らし続けて、やがて、別のものが目に映った。

 ピンク色のヒールパンプス。

 めぐるの靴。

 靴に光を当てようと、奥の方に光を動かした。

 海に光が当たる。

 夏、風に揺れる百合のように、白い服が波に揺れていた。

 そこで、「ああめぐるは死んだんだな」と不思議なくらいすんなりその事実を受け入れた。

 恋敵がいなくなった。それは、素敵。けれど私は最後、めぐると共犯になれたようなそんな気がして、不思議な親近感が湧いた。

 私は靴を片手で持った。もう片方の手で電灯をつけて、スクールバッグの置き場まで戻る。泥を私の服で拭ってから、バッグの中に靴を入れる。破れるとまずいので地図は上の方に動かした。

 いい加減、懐中電灯の灯が眩しかった。それを解除する。スマホは電源を落とさないままになっていたので私でも操作できた。

 懐中電灯は下からシュッって出すWi-Fiを切ったりする画面でつけたみたいだった。懐中電灯ボタンを押して、光が消える。いつもの癖でその画面から元の画面に戻った。

 見知ったレイアウトだった。夕陽さんの美容室だ。「お知らせ」画面からお知らせが開いてあった。

『平素より当美容室をご利用いただきありがとうございます。突然のお知らせとなりますが、当美容室の美容師である夕陽葵が児童福祉法違反により起訴されました。当美容室はそのような事実に対し、解雇処分を言い渡しました。当美容室をご利用いただいているお客様に対し、真摯に謝罪させていただきます。これからも当店をよろしくお願いします』

 プルルルルとめぐるの電話が鳴った。登録していない電話番号のようだった。

「もしもしめぐるちゃん?」

 あ。

「私、今大変で……助けて欲しいの!」

 夕陽さんの声。

「あ、夕陽さん……」

「えっ……」

 しばらくの無言。

「あれ、栞ちゃん。なんで?」

「それはちょっと説明が……」

「めぐるちゃんと一緒にいるの?」

「いません」

「ならなんでこの電話に?」

「勝手に借りてる……と思ってます」

「あっ、そうなの! それなら良かった。実は私も栞ちゃんに連絡したくて。私ね、あんな風に突き放したけど実際は栞ちゃんのことも大好きなの。本当だよ。だってずっと一緒だったじゃない。それで、今すごく困ったことになってて、いつもみたいに私を助けてくれないかな?」

 聞いたことない甘い声。

 見境なし。

 私は、スマホを海に投げ捨てた。ジーンズ二のポケットに入っていた私のスマホも投げ捨てた。

 デジタルデトックス。

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