第二章「あなたのほとり、咲く花」
第1話
日差しがベッドに入り込む。夏の日差しは強烈だ。たちまちに目が覚める。目を擦る。その手がいやに重い。体も重い。「今日もか」と心の中で呟く。
あれから6日が経って、その間私は学校を全部休んでいた。今日は金曜日。今日行かなかったら一週間一日も行かず夏休み。
行く気にはなれなかった。
枕元のスマホを手に取る。まだ6時。日光をたくさん取り込む位置に置かれた窓の存在が恨めしく思えた。
ぼーっと通知をスクロールする。たくさんの人からLINEが来ていた。友達からも親からもだ。
一件も既読をつけていない。会話をするのはしんどいと分かっていたからだった。
内容は多少頭に入っている。多くは心配で、たまに夏休みの課題が何だったか、みたいなのが入っている。ありがたい。そして、その善意に何も返せない自分を憎く思った。
自分を憎く思った。それはきっと、あの二人のことを考えたくないせいもある。一瞬その影が頭をよぎると、狼に睨みつけられた鼠みたいな気分になって、嫌な汗をかく。
だけど、それを助けてくれるのはきっと夕陽さんしかいないとも思っていた。
だって、恋以上の救済なんて、この世には存在しない。
私は失恋した。苦いものが胸から迫り上がる。
だけど、私はまだ夕陽さんのことが好きだ。まだ終わってない。まだ終わらせられない。
けれども、めぐるが言った「性的暴行を受けた」というのは凄く重くのしかかっていて、それは私にとってのボーダーラインを大きく跨いで暗い側にある。それが仮に事実だとして、それでも私は夕陽さんを愛せるだろうか。
恋人の暗い過去を私は許容できるだろうか。
きっと許容できる。間違いは正すことができるから。それが愛だと思う。
私はブックマークから美容院の予約ページを開いた。それがここ一週間の日課になっていた。今はとても会える状態じゃない。だけど、夕陽さんはそこにいる。そのことが私の支えだ。
予約表を見る。
「えっ?」
思わず声が漏れた。全身の血がサーっと引いていく。
夕陽さんを指名した時の予約表は、全てがバッテンになっていた。今日だけではない。明日も、明後日も、その先の日も。
何かの間違いかと思ってページを読み込んだ。それでも、表示は変わらない。何かお知らせは出ていないかと血眼になって探す。
どこにも、何もない。昨日まではそんなことなかったのに。嘘のように消え失せてしまった。
呆然とする。
ピコンと通知の音がした。
白鳥めぐる。
メッセージ主の名前。
内容。
『夕陽葵のこと、知りたい?』
吸い込まれるように通知を押した。
私は何も言わなかった。けど、既読が付いたことで、白鳥めぐるはこう続けた。
『夕陽葵が何でこんなってるのか、教えてあげる。放課後うちの前に来て。学生証とお財布と携帯を忘れず持って』
メッセージはそれだけだった。いくら待てど、それ以外は何もない。
私は乾いていた。砂漠の砂粒が足の裏にくっついて、一歩進むたびに体は沈んでいって、どうしようもなく乾いている。
だから、水を求めることしかできない。
それが例え腐った水かもしれないとしても、それを求めることしかできない。
だから私は行くことにした。放課後、白鳥めぐるの家に。
突然スクールバッグを手に持って現れた私服の娘に、母は驚いているようだった。目を見開いている。
「学校、行けなくてごめんね。体調悪くて。でも少し良くなったから、友達に課題を聞きにいってくる」
何か言われる前にそう説明した。嘘はスラスラと出てくる口だった。そして、嘘に鈍感な母だった。
私はなんて悪いやつなんだろう。
ふと、そんなことを思った。ずっと思い続けているべき事柄が、ようやく、ふと湧いてきた。そのこと自体が私の醜さを象徴しているように思えた。
いっそのこと、全て打ち明けてしまえたら。盗みも、恋も、全部。
だけど、私は臆病だから、怖がりだから、それを隠してしまう。夕陽さんへの恋心をずっと隠していたみたいに。
どんどん湧いてくる罪悪感を払拭するように、私は微笑んで、母に軽くハグをした。そして、「行ってきます」と言って外に出た。
外に出ていなかったから、日差しをいやに明るく感じる。家の外を歩いていると制服姿の生徒が歩いていて、思わずビクッとした。制服が怖い。今は会いたくない。
私の姿を見つけた友達が写真を撮って、インスタにあげていたらどうしよう。
怖い。
「笑い者にされるかも」とか、そんなことじゃない。外に出ているのを見つけられること自体が怖い。
早足で私は白鳥家に向かった。ただの早足なのに、鼓動はバクバクと鳴っていた。
交差点に差し掛かって、赤の時間が酷く恐ろしかった。スクールバッグだけでも隠そうと胸の前で抱くように持って、それも変だと思って辞めた。青になった。早足に白と黒の帯を抜けた。
白鳥家が見えた。白い塀の前に、同化するような白い服を着た女が立っていた。黒髪だけが浮いているような、そんな見た目だった。
「めぐ……」
言いかけて、口を噤む。私は、彼女を何と呼んだら良いだろう。
彼女は私に気が付いて、たったったっと走ってやってきた。白いワンピースに黒い髪をそのまま垂らしている。靴がピンク色のヒールパンプスで、「お姫様にでもなりたいのだろうか」と思った。それでも、制服よりはマシだったので、私は少し安堵していた。
彼女が後ろ手に持っていた大きなカバンを前に突き出し、切なさの残る笑みを浮かべた。
「行こう。金沢まで」
「……え? ……夕陽さんの話は……」
「金沢に着いたら……いや、その前に全部話すよ」
「え……?」
「ほら、行こう!」
手を引っ張られた。どうしてもそれに対抗する気力が起きなくて、きっと彼女はそれすら知っていて狡猾に私の手を引いていて、「やっぱりボディタッチが苦手なんてことはないんだな」と思っていたら、四条烏丸のバス停に泊まっていた京都駅へ向かうバスに乗っていた。運賃は彼女が勝手に支払っていた。
京都駅に着く。手を引かれる。
「特急サンダーバード敦賀行は19時10分発です」
そんなアナウンスが聞こえる。
「はい」と乗車券を渡された。「用意周到にも程があるだろ」とか言おうと思ったが、それすら出来ないほど私は落ち込んでいるようだった。
これを通せば、戻れない旅が始まる。
「あっ」
後ろの彼女に手を押され、乗車券が改札機に吸い込まれた。
「始まりやね。二人っきりの旅行」
後もどりのできない旅は、私の意思すら介さず始まってしまった。
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