第9話
夕陽さんが好きだ。子供の頃から、夕陽さんは私に優しく語りかけてくれて、髪を切ってくれた。昔々、「これ似合うと思って」とブローチをくれた。それが大層嬉しくて、明らかに子供向けなデザインだけど小学校高学年くらいまで付けていた。
走る。
夕陽さんのことを考えると幸せになる。夕陽さんが笑う姿を見ると、私も笑顔になれる。私は夕陽さんが好きで、それは憧れでもあって、私は好きを伝えずにこの距離のままで良いと思っていた。「夕陽さんが男の人と付き合っている」という事実に吐き気を覚えながらそれを受け止めれば良いと思っていた。付き合えなくたって良いと思っていた。
走る。
だって、私は夕陽さんとの今の関係が好きだから。私が恋心を隠していれば、夕陽さんは優しく私に接してくれる。それ以上なんて必要ない。
走って、走り疲れた頃、もう私は美容室の前に立っていた。この重いドアを開ければチャイムが鳴り、夕陽さんが出迎えてくれる。
胸の高鳴りを落ち着かせながら、私は扉を引いた。チャイムが鳴る。「はーい」と夕陽さんの声がする。
「いらっしゃいませ。今日はずいぶん早いねえ」
いつものように、夕陽さんが微笑む。私は何も言えなかった。そんな私に困惑した表情を浮かべながら、「じゃあ髪濡らそうか」と案内され、その後カットに入った。と言っても、切ったばかりだから毛先を整える程度だ。
明らかに不自然なタイミングだと思う。だけど、夕陽さんは何も言わない。私は怖くなった。そして、鏡の向こうの夕陽さんを見た。
「嘘ですよね。白鳥めぐるが好きだなんて」
カットの手が止まる。
私は、あらゆる質問を想定した。「どこでそれを」。「なんで栞ちゃんが」。「そんなデマどこで聞いたの?」。完璧だった。
カットが再開される。心地よいハサミの音がする。
「本当だよ」
呟くように夕陽さんはそう言った。
夕陽さんは耳元に近づいて来た。
「私とめぐるちゃんの関係、邪魔しないでね」
耳打ちされる。
それは、ごくシンプルな拒絶の言葉だった。 私の恋は、失恋に変わった。
「はい、これで終わり。シャンプー行くよ」
「……帰ります。お金、置いて来ます」
「あっ、ちょっと」
ロッカーに入ったショルダーからお金を取り出す。レジの前に置いて、そのまま店の外まで逃げ出した。
私は、また走ることにした。
今度は、白鳥めぐるを求めて。
スマホのナビから白鳥家へ辿り着く。不用心なことに、外壁からの入り口は再施錠されていなかった。松の木の横を歩く。ドアのインターホンを押す。
しばらくして、ドアが開いた。白鳥めぐるがいた。
私は、白鳥めぐるのことを押し倒した。どたんという音がして、めぐるは玄関奥へ倒れ込む。そこに馬乗りになる。玄関のドアが閉まる。靴がぐちゃぐちゃになる。抵抗はない。
私は、胸ぐらを掴んだ。
「なんでお前なん!? なぁ! なんで私じゃないんや! なんで……! 私、こんなに好きやのに……! なんで……! なぁ!」
涙で視界が滲む。怒りで手が震える。
胸ぐらを掴んでぐわんぐわんに上下した。めぐるの後頭部が床にぶつかって鈍い音がする。ぜぇぜぇはぁはぁと、肩で息をする。
そんなめぐるが私の方を見て、全てを受け入れるかのように微笑んだ。
「でとるよ、関西弁」
「あっ」
思わず、口をつぐむ。怒りが落ち着いて、冷静になっていく。
なんでこんなことになってしまったんだろう。
ずっと、客と美容師で良かったのに。
ずっと、クラスの端っこで本を読んでいるクラスメイトで良かったのに。
「私は栞が私のこと好きになってくれないと嫌やから」
微笑みながら、めぐるが言う。
「私は……どうしても夕陽さんのことが好きでしょうがない。どれだけめぐるが正しくても、夕陽さんが悪い人でも、今さら変えられないよ……」
心の中には、ぽっかりと穴が空いていた。丸い穴。そこにハマるピースはめぐるが持っている。私の持っているピースは穴にはハマらない。
心の中に注入された鉛はすっかり冷えて固まって、ただただ重苦しかった。気持ち悪かった。
「こんなに辛いんだったらいっそ何もかも無くなれば良いのに」
吐き出す。それが失恋というものだった。
体を上げる。下敷きになっていためぐるを解放する。めぐるは笑っていた。会話はない。そのまま、私はドアを開けて、外に出た。
ずっと走っていたからかもしれない。今日は暑い日だ。
夏の暑い日。夏休み前のある日。
私は、失恋した。
第一章完
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