8. 腕輪のきらめきと春の風
「竜王様の真のお姿……」
コーネリア城、中庭の高台は風が強い。ラーラの銀にも見えるシルバーブロンドの長い髪が風によって揺れ、彼女の瞳が閉じられる。
(今でも思い出せる。あの恐ろしい魔力を撒き散らしながら世界を壊す天災のような邪竜の姿を)
ぎゅ、とラーラは手を握る。
この場にいるのはあの邪竜王ではない。自我を失っておらず未だ邪竜王になっていない、現在のゼレンセン王国の竜王クリスなのだ。
(それに……こんなに優しいお人柄なのですから。興奮されるとちょっと不思議、いえかなり奇妙な言動をされる方ですけど)
大丈夫のはずだ。ラーラはクリスに向き直った。
「見せて……いただけますでしょうか。この目で私は確かめたいのです」
「君が恐れるのも無理はない。俺は邪竜となった未来で、君を殺してしまったループの時代もあったのかもしれないのだから」
「いえ、私の記憶の限りでは邪竜王に殺されたことはありませんよ。いつも私は仕様がないヘマをしてばかりで死んでいましたから」
クリスは目を瞬かせてから、ラーラに伝えた。
「ラーラ。どうか自分を卑下しないでほしい。どんなに苦しくて辛い死に方をしていたとしても、君の命の輝きは俺には綺麗に見えるんだ」
だから自分を大切にしてくれ、とラーラの頬を撫でる。
(撫でられている……春の風のような、優しい撫で方)
心地よく感じてしまう、彼の手袋越しの体温。なぜだか振り払えなくてもっと撫でてほしいとも思う。
「あっ……許可なく君に触れてしまった。気分を害してしまったのならすまない」
「……いえ。大丈夫、です」
離れてしまう彼の暖かさ。名残惜しいと思うのは我が儘だろうか。自分には勿体のないことなのだろうか。
そんなことをラーラがぐるぐると考えていると、凛とした女性の声がかかった。
「陛下、拘束具の交換のお時間です」
筆頭執政官のアイリスだった。高台の下で箱を持ちクリスたちを待っている。
「ああ、今そちらへ行く。ラーラ、その……」
クリスがラーラへ控えめに手を差し出す。
高台からの下の中庭に繋がる道は坂道になっていているためクリスは手をとってエスコートしようと思ったのだろうが、先ほどラーラの頬を勝手に撫でてしまったことを負い目に感じているのかもしれない。
そんなクリスの様子が、飼い主に叱られたペットの犬が耳を垂らしている姿にも見えて、ラーラは口元に笑みを浮かべた。
「不快になど思っていませんよ。竜王様にエスコートしてくださるのは恐れ多いことですが、そのお気持ちが有難く思うのです」
「それでは……! ラーラ、手を」
美しい刺繍の施されている黒の手袋で覆われたクリスの手がラーラの手をとり、嬉しそうにエスコートをする。
(本当に竜王様はあの邪竜王になるお方なのでしょうか)
そうラーラは思いながら、二人でアイリスの元へと坂道を下っていった。
「こちらが今のものよりも強力な拘束力を持つ魔力の拘束具です」
「ありがとう。アイリス、手間を取らせるが交換する前に俺の魔力の全力を出そうと思う」
「……それは、真の竜のお姿をラーラ様にお見せになると?」
アイリスの目からは本当に大丈夫ですか、という心配の色がうかがえる。
「たまには元の姿に戻らないと魔力が滞ってしまうからな。それにここの中庭は十分な広さがあるしラーラやアイリスに危害を加えないよう少しは抑えるつもりだ」
下がっていてくれとクリスに言われ、ラーラとアイリスは中庭の入り口側へと下がる。
そして、クリスは「フゥ……」と息を吐き、装飾が美しい腕輪をパチンパチンと外していった。
瞬間。
「──ッ!」
ラーラは感じた。膨大すぎる魔力の濃い風を。
クリスの姿が魔力のうねりの中に消え、どんどんうねりが大きくなっていく。そして──吹き荒れる魔の風がおさまったとき、ラーラたちに巨体の陰が落ちた。
漆黒の鱗。荘厳で美しいフォルムをした大きな翼。その尾を振ればひと凪で家などは薙ぎ払われてしまうだろう。
「……っ、竜王、様……」
「はい。あれが竜王陛下の真のお姿、この世界で唯一の黒竜様です」
黒竜の瞳がラーラたちを映す。
「……ッ!!」
ぞわり。
金の視線と記憶が交わる。
咄嗟にラーラは剣を構えようとしたがその腰には女神の聖剣はない。
(今の私は……勇者じゃない)
何度も対峙した黒き邪竜。恐ろしき強大な敵、世界の敵対者。
(私は何もできない、ループしたての婚約破棄された元伯爵令嬢。紙切れも同然な無力でただの人族……)
ラーラの記憶に強く残るあの姿が、目の前に現れたのだ。
ごくりと生唾を呑み込む彼女に、禍々しい悪の権化たる黒竜が──。
『わーっ! ラーラ、俺だ! あっその構えは俺に立ち向かった三十二回目の、いや九十八回目のループのときのだな!』
あわあわと威厳も何もない黒竜がそこにいた。
「……竜王様?」
『そうだ! でもクリスと呼んでほしいなって本当は思ってたり……』
その巨体のまま黒竜が屈みラーラの近くへと寄ろうとして、アイリスが叫ぶ。
「今のお姿をおわかりで? そのままではラーラ様もろとも城の中庭を破壊してしまいますわよ!」
『わわわすまない、忘れていた』
世界の敵たる未来の邪竜──ではなく竜王クリスは慌てて竜の身体を起き上がらせた。
起き上がった際に完全な竜の姿であるクリスの足が中庭の花壇を踏んでしまい『ああっ!』と声を上げる。
『俺がデザインした花壇がぁ!』
「それより陛下、翼を動かさないでください! 風魔法が発生しています!」
ラーラは風魔法で飛ばされそうになっている、アイリスが持ってきた箱の中身にあった拘束具の腕輪を取り出してクリスの方へと投げた。
「竜王様! これを!」
クリスの巨体に腕輪が当たり、強烈な光が腕輪から放たれる。
そうして──光がおさまり、すべての中心に横たわるクリスがいた。
「陛下!」
「竜王様! 大丈夫……そう、ですね」
とラーラが言うのも。
「ハッハッハ! 久方ぶりに元の姿に戻れた! どうだった、ラーラ!」
笑い声をあげ、きらきらとした瞳でラーラを見上げる。
「どうって、その……」
伝えるのが
「……可愛かった、です」
「可愛かっ……た?」
へ、と口を開ける竜王クリス。
「怖いじゃなくて、可愛い?」
「は、はい。最初はびっくりしましたがよく見ると私の知っている邪竜王とは違くて、なんというかその……挙動が、可愛かったです」
ラーラの言葉に嘘偽りないとわかったクリスは肩を落としたかと思いきや次の瞬間、パァッと嬉しそうに表情を明るくした。
「よかった! 聞いたかアイリス、皆俺の元の姿を恐れていたというのにラーラは可愛いと言ってくれたぞ!」
「格好いいじゃなくて可愛いというのがラーラ様らしいですわね」
ふふっと微笑むアイリスと心底嬉しくてたまらないのだろう「スタンにも報告しなくちゃな!」とはしゃぐクリスがいて。
「あの……お言葉を間違えてしまいましたか?」
この状況が理解できず心配そうなラーラにクリスが言う。
「ありがとうラーラ。ああ言ってくれたのがはじめてなんだよ。この星で黒竜は俺だけで毎日魔力量が増していくし、魔力をよく暴走させて皆に迷惑をかけていたから。それに君は……」
それはもう幸せそうに、クリスが続ける。
「
ありがとう、と立ち上がって目を見て伝えるクリス。
「聖剣があれば……あのまま剣先を向けていたかもしれないのですよ」
「それでもいい。俺は竜族で竜王だ」
パンパン、と何ともなさそうに身につけている黒の服についた汚れを払い「勇者だった君があの行動を取ったのは正しいしな」と言う。
「だが、このループの世界では俺は邪竜王にはならないぞ。だってラーラにようやく会えたんだから」
だから安心してくれ。
クリスは至上の歓びのように微笑む。その笑みはどうしても世界の災いの邪竜王と結びつかない。
(なぜ。なぜこんなにもお優しい方が、今までの未来で邪竜王になってしまわれたの)
ラーラは己の胸に手をやって拳をつくる。
固く力を込めて。未来の理不尽さを思って。
「ラーラ。手を」
クリスが手を差し伸べる。
「竜王様……私は」
「俺を怖がらなかったラーラと手を繋ぎたいんだ。だめか?」
優しい金色の瞳がラーラを映す。
それはあの黒竜の瞳と同じで、でも錯乱した邪竜王とは違っていて。
ラーラはゆっくりと手をクリスの手に重ね合わせる。
暖かな彼の手におさまる金の腕輪は、これから先の二人を暗示するようにきらめいている。
クリスとラーラを包み込むように、優しい風が吹いていった。
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