第5話 星命
ほぼ同時に、勢いよく、地面を蹴りあげ駆け出した。ピリついた冬の空気が、ビリビリと破れるように頬を、体を引き裂くように流れていく。足を忙しなく動かす度に、息が上がる、白い息が、雪のように溶けながら、流れては消えていく。目の前を走るバイクがまた止まった。
__待ってくれ!
二人同時に声を上げた。しかし、声は届かず冬の空気に溶けて消えた。それもそうだ、2人のサンタとバイクの距離は、100m以上も引き剥がされていた。あまりに遠すぎて声が届かない。郵便物を投函し、配達員はまた発進する。彼はスピードを早め、みるみるうちに住宅街の中へ消えて行く。これまでにないほど息を切らしながら、2人共に失速する。足が地に擦れる音が響く。立ち止まって膝を抑えて浅い呼吸を繰り返す。万事休すか。
そのとき、数時間前に話しかけた、あの中年男性が脳裏を過った。彼の言葉が忘れられない。他人事のように思えなかった。頭を振った。そんなはずはないと、振り払うように進んだ。
サンタは消えてなどいない。思春期のせいでもない。ただほんの少し、忘れているだけなんだ。小さな記憶の片隅__それも四畳半程の小さな場所に。大切にしまい込んだまま、きっと忘れているだけなんだ。楽しみ、娯楽、興奮を、そこに置き去りにして、色褪せているのだ。サンタクロースが心から消えるなど、あるものか。誰の心からも消えるものか。
証明してやろうじゃないか。
忘れているなら、四畳半から引っ張り出してやる。俺がやるなら、きっと誰も文句は言うまい!
井之頭は進んだ。汗を拭いながら、血走った目で、ヨロヨロと数歩、小さな足取りになりながらも進んだ。
「ここで、諦める訳には……」
そのとき、十字路に差し掛かると同時に、「ブルル」という動物が鼻を鳴らすような音が響く。思わず体の節々が硬直する。何事かと思って、音がした方向へと顔を向けた。
「……ソリだ」
そこに佇んでいたのは、ソリに繋がれたトナカイ九頭だった。規則正しく並んだうちの一頭だけは、リーダーのように先頭を陣取っていた。彼は真っ赤なキラキラとした鼻を携え、蹄をカンカンと鳴らし、こちらを見てから頭を軽く揺らした。首についているベルがカランカランと音が鳴る。
「そうか、これで追いつく! まさかこのタイミングで見つけるとは!」
サンタクロースもようやく十字路に辿り着いてから、でかした! と井之頭の肩を揺すって、再会を喜ぶ声を上げた。
「やっぱりソリも本物なのか……そりゃあ、そうか……」
井之頭は今更ながらも呆気にとられて茫然とした。
サンタクロースは、一匹一匹を確認するようにトナカイの頭を撫でて頷いた。
「さあ、追いかけよう」
サンタクロースはソリの片隅に乗り込むと、空いた隣の席を叩いてこちらに手招いた。恐る恐る井之頭も乗り込む。サンタクロースが勢いよく、トナカイ達の手綱を引いた。赤鼻のトナカイが鳴き声を一つ上げて、全速力で駆け出した。蹄の音が鳴り響き、首に付けられた鈴が、聖なる夜を歌うように響かせて、一直線に加速する。あれ程までに痛いと感じた冬の空気が、まるでプレゼントの紐を解いていくように、シュルシュルと頬を流れていく。井之頭はしばらく、サンタクロースの服に強くしがみついたままでいたが、徐々に頬が緩んでいった。堪らず、ゆっくりとした動作で腕を大きく上げる。手のひらを開く。全身に重さを感じて、「生きてるな」と思った。
「ほら、見ていてください」
サンタクロースの言葉に、井之頭は夢中になってソリから身を乗り出した。いつの間にか心臓が、バクバクとけたたましく脳内に鳴り響いていた。
井之頭は、アスファルトの地面を、瞬きを忘れる程に凝視した。ソリの影の輪郭が揺らぐ。唾を飲み込む。喉が渇いていた。しかし、次の瞬間にはそんなことなど忘れていた。あっ__と叫んだ。徐々に地面が、離れていることに気が付いたからだ。ふわりとソリが舞い上がった。
地上から、どんどん離れていく。自分の住む町が小さくなっていく。ソリは、物理的法則も科学的証明も、このひと時には通用しないのだと、まるですがすがしく笑うように。駆け上がる、夜明けの上空500mを。
「空から見るこの景色は何とも美しいでしょう?」
身を乗り出したまま町を眺め続ける井之頭に、サンタクロースは声をかける。
「私は貴方に一度、この景色を見てほしかった」
世界を見下ろせば、
「……なあ。もしかして今、サンタクロースに溢れている時間じゃないか? この、日本中で」
顔を上げて遠くの水平線へと目を向けてみれば、集まった光が身を寄せ合うように輝いている。小さな星の粒が集まったように、大都会の夜光が眩く輝いていた。サンタクロースは仄かに笑って返した。
「ええ、そうかもしれませんね」
井之頭は声を押し殺して笑った。サンタクロースも同じように笑っていた。
「俺さ。この世界に面白みを感じなくなったのは、今このときまでサンタクロースが来てくれなくなったからなのかもしれないんだ」
「サンタクロースが?」
「そう、幼少期に両親が離婚してね。母はその後、再婚したが……それを境に俺の中のサンタクロースは、現れなくなった」
すると、サンタは少し食い気味になって詰め寄った。
「それなら、私に手紙を書いてくれれば」
「それがどうやら、四畳半にしまいこんだまま忘れてたんだよ! ずっと!」
サンタクロースは顔を顰めて首を傾げた。
井之頭は目の前の景色を眺めたまま笑い飛ばした。
街の眺めは、ポツリポツリと星のような瞬きがあった。生活の色を垣間見せる光が一つ一つ輝いているのを見て、井之頭は目を何度か瞬かせて口を開く。
「ああ、生きてる。そこに、誰かが生きる証がある」
そんな言葉が零れ落ちた。上空から見る町の光は宇宙で瞬く星とは違って、井之頭にとっては手を伸ばせば届いてしまいそうな輝きだった。
この光の中で、俺は今まで生きてきたんだ。井之頭は言った。
少し間を置いて、サンタクロースが答えた。 えぇ、そうです。貴方はあの中で、生きてきたんです、と。
「これから先、もし貴方が闇に溶けそうになったとき、この景色を思い出してほしい。世界が始まる空の色を、目を凝らせば誰かの息吹が聞こえる、そんな地上の星々を」
ああ俺はもしかしたら。この世界で生きてきたことを、ずっと誰かに知って欲しかったのかもしれない。
*
ソリは徐々に住宅街へと潜り込んでいくと、井之頭のアパートの前で停止した。
「結局また戻ってきたな」
そんな言葉を呑気に交わしながらサンタクロースと井之頭がソリから降りると、ちょうど追いかけていた配達員が、道路に沿って遠くからやって来た。バイクが目の前に近づくに連れて徐々に減速して止まると、不健康そうなサンタクロースと本格的なサンタクロースを交互に眺めて目を丸めていた。後ろの方でトナカイがブルルと鼻を鳴らしたので、それにも驚いて体を仰け反らせていた。
「すみません。私の持っていた手紙が、貴方の配達物に紛れ込んでしまったようで。中村という名前が書かれた手紙なのですが……」
本格的なサンタクロースが流暢に日本語を話し始めたからか、配達員は勢いよくそっちへ顔を向けた。彼は状況を何となく飲み込むと、バイクを降りて荷台にあるボックスの中身をまさぐった。そして、ヨレヨレになった手紙を差し出す。間違いなく、サンタが大切に持っていた手紙だった。井之頭はそれを見て胸を撫でおろした。
「宛先が書かれていませんでしたから、差出人のお名前も中村しか分からないとなると……このままだともしかしたら破棄になってしまうんじゃないかと考えていたところです」
サンタは感謝を述べながら受け取ったところで、そのことについて__と付け加える。
「それが……この手紙の主を、私も探しているのです。下の字は龍介。中村龍介さんです。ご存知、ないでしょうか。大人の方なのですが……」
配達員はサンタの日本語能力に関心しながら軽く頷いた。
「どうか、少しでも手がかりがあれば。教えてください」
サンタは少し顔を上げて、顔色を伺うように覗き込んでいた。それは期待を込めた、彼なりの動作だったようだが、その気持ちとは相反するように配達員は首を横に振る。
「いえ、いませんよ」
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