31.絵本のように
「
「そんな……」
僕はもういちど
「私も、私もね。一真くんが好きだよ。ずっと忘れられなかった。一真くんがいなくなったあの日からずっと引きずってきてたの。たぶん私にとっての初恋だったんだと思う」
みらいは僕をじっと見つめていた。
それと共に雪がどんどん深くなっていく。
どんどん白が降り積もっていて、あたりの風景をすべて飲み込んでいく。
「でもその恋はやっぱりあの日に終わったんだよ。一真くんが事故にあったあの日に。一真くんにとっては、私が事故にあったあの日に。だから、だからさ。私は終わってしまった恋よりも、まだ続いている恋を応援したい」
みらいはどこか振り絞るような声で、僕達に告げていた。
「だから。私は最後にさ、
みらいは梨央へと視線を向ける。
同時に僕も梨央へと振り向いていた。
「ね。梨央。一真くんに告げたい気持ちがあるはずだよね」
「……ひどいよ。未来。あたし自分で告げようと思っていたのに」
「ごめんね」
「……うそ。たぶん、あたしはさ。告げられなかった。だって一真の中に未来のことばかりが詰まっていたことを知っていたから。だから一真に断れるのが怖くって、ずっと言えなかった。今日だって、一緒にいられればそれでいいって。今のままでいいって、思っていた」
梨央は僕の方へと向き直って、それから少しだけ顔をあげて僕へと視線を合わせる。
「でもこうして未来が背中を押すというなら、あたしも本当の気持ちで応えたいと思う」
梨央は僕へとまっすぐに瞳を投げかけてくる。
僕の胸が強く鼓動していた。
何が起きているのかもわからなかった。
だけど梨央はそんなこともかまわないとばかりに、僕へと言葉をぶつけてくる。
「あたしさ、一真のことが好きなんだ。ずっとずっと、あの頃からずっと好きだった。高校だって、一真と一緒にいたくて選んだんだ。一真の中にずっと未来がいることは知ってる。でもさ、あたしだってずっとずっと一真を見てきたんだ。だからあたしのことも見てほしい」
「梨央……」
僕は何と答えていいのかわからなかった。だから彼女の名前をつぶやくことしか出来なかった。
だけど梨央は僕の答えを待ち続けていた。
僕は未来のことが好きだった。たぶん今でも好きだ。
でもその気持ちはみらいへ向けていたものだっただろうか。
みらいが言うように、それは終わってしまった恋だったのかもしれない。ただ僕は終わってしまった過去を引きずっていただけ。
何も答えない僕に、みらいが再び口を開く。
「私が考えた絵本の結末。あれはさ、梨央と一緒になってもらいたいって。そう思ったから。私と一真くんは別々の道をいくの。だって、だってさ、私はもうここにはいない人間なんだよ」
みらいは笑いながら、でもその瞳に涙をたっぷりと浮かばせて、それでも顔をそらさずに僕を見つめていた。
「私の世界ではさ、私も梨央も一真くんのことをずっと引きずったままだった。だからせめてこの世界では、梨央に、そして一真くんにも幸せになってほしい」
みらいの言葉を僕はもう否定することは出来なかった。
ただ終わってしまった恋が、ここにあることを自覚していた。
梨央に言葉を返さなければいけない。梨央のまっすぐな気持ちに、どうするにせよ、何か答えなきゃいけない。
それなのに僕の言葉を結ぶ前に、少しずつ降りゆく白の中にみらいの体が溶けていくように薄れていく。
そのことに気が付いて、僕は思わず息を飲み込む。
「みらい、体が」
「あ。うん。残念。もう時間が来てしまったみたい。そろそろ終わりになりそう」
笑って告げるみらいに、でも僕はまだ終わらせたくなくて、ただ引き留めるように声を漏らす。
「もう、会えないの?」
「うん」
「みらいはもう消えてしまうの?」
「うん」
「いやだよ」
「うん」
「いかないで」
「うん」
僕の呼びかけに、ただみらいはうなずくだけ。
少しずつみらいの体が薄れていく。雪の中に溶けていくように。
もう声を出せないでいた僕の代わりに、梨央が小さな声でみらいへと語りかける。
「未来。これでお別れなの。あたしも、もっと話したかった」
「ごめんね。梨央。私も梨央と話したかったよ。でも無理なんだ。せっかく会えたのにごめんね。それが私達が絵本で決めたルールだから」
みらいは涙をこぼして、それでも笑顔を崩さずにいた。
無理して笑っているのだろう。ぐちゃぐちゃの笑顔は、僕の心の中に染みるように溶け出していく。
たぶん今度こそ笑って別れるために。ただ笑顔で。
「一真くん、ありがとう。ごめんね。出来るなら、梨央と一緒になって幸せになってほしい。もうこれで本当に最後。だから最後は笑顔でお別れしよ」
みらいは泣きながら笑って。
僕はいつの間にかぐちゃぐちゃに涙をこぼしていて。笑顔なんてとても作れなくて。
でもみらいの気持ちをどこかで受け止めていて。
それでも僕は消えてしまいそうなみらいを引き留めようとして、すがりつくように言葉を漏らす。
「いかないで、未来が好きなんだ」
「うん。私も一真くんが好き。でもね。たぶんその気持ちは今の一真くんでなくて、いなくなってしまった七年前の一真くんへの気持ちなんだと思う。そしてきっと一真くんのその気持ちは私への気持ちじゃないと思う。私じゃなくて、いなくなってしまった七年前の私への気持ち。その未来はもういないんだ」
みらいはどこか目を伏せて、少しだけ顔を背けて答える。
たぶんみらいの言葉は正しいのだろう。きっと僕が呼び止めたのは、七年前の未来だったのだろう。僕はただ七年前に引きずられているだけなんだ。
それでもみらいが消えてしまうことに僕は必死で抗い続けていた。
「一緒にいった美術館楽しかった……もういちど一緒に行きたかった」
「うん。私も楽しかった。本当にあんな未来があったなら良かったのにって思った。でも私の世界に戻れば、そんな未来はなかったことになっちゃう。だからせめて一真くんがくれたプレゼント。大切にするね」
僕が送ったブックマーカーは、確かに僕とみらいがここにいた証拠を残していた。
あれは僕とみらいの、本当は重ならないはずの未来が重なった瞬間だった。
「みらい……」
「ごめんね。一真くん。私だけプレゼントもらっちゃって。ごめんね。梨央。何も出来なかったね」
「未来。なんていっていいのか、あたしにはわからないよ」
「うん。もっと話したかったね。でもごめんね。これが限界みたい。一真くんをよろしくね」
みらいの姿が少しずつ少しずつ雪に溶けていくように薄れ消えていく。
「みらいはそれでよかったの、この世界から消えてしまって、それで」
僕はみらいへともういちど呼びかける。
だけど僕の言葉を聞いたその瞬間、無理矢理にでも浮かべていたみらいの笑顔がとうとう崩れてしまっていた。
「いいわけ……ないじゃない。私だって、私だって、いられるなら、もっとここにいたかった。お母さんともっと話したかった。梨央とももっと話したかった。一真くんとだって、もっといろいろ話したかった。一真くんと一緒にいたかった。一真くんと触れ合いたかった。できるなら、私だって自分の気持ちを抑えたくなんてなかった。でも、でもさ。でも。もう、無理なんだもん。私は消えてしまうんだもん。だからそうするしかないだもん。だから最後くらい笑顔でいたかったの。いてほしかった」
「みらい……!」
僕は思わずみらいを抱きしめていた。
でもそこにいるはずのみらいは、触れることができなくて。僕の手はみらいをすりぬけていく。
「もう本当に時間が残されていないみたい。だから、これでお別れ。ごめんね。一真くん」
みらいの手が僕の頬に触れる。
雪で冷え切っていて冷たいけれど、それでもみらいの体温が感じられた。
僕から触れることは出来ないけれど、みらいからはまだ僕に触れることが出来るのか、それとも、僕が感じた幻だったのか。どちらにしても僕はみらいを感じ取れていた。まだみらいはここにいる。
「ね、最後だから。笑顔でお別れしよ。ね」
自分も泣きながら、それでももういちど笑顔を浮かべて僕へと強さを向けていた。
「無理だよ……だって、みらいがいなくなるなんて……」
「もう。しょうがないなぁ。一真くんは」
みらいは微笑みをもらして、涙をこぼしながら、ゆっくりと僕へと近づく。
みらいの顔がすぐそばに近づいてきていた。
みらいだけで僕の視界がいっぱいになる。
みらいがそこにいた。
みらいはまだここにいる。
みらいで満ちあふれていく。
みらいの唇が、わずかに僕の唇に触れた。
軽く触れたほんの一瞬だけのキス。
それでも何が起きたのかわからなくて、僕は思わず自分の手を唇に当てる。
微かなぬくもりが僕の中に残っていた。
「お別れの印だよ。これなら、笑顔になれるかな」
わずかに頬を染めて、みらいは僕へと優しい笑顔を向ける。
少しだけ止まった時間に、いつの間にか涙を流すことを忘れていた。
「ごめんね、梨央。悪いとは思ったんだけど、最後の思い出、もらっちゃった」
「もう、いつもずるいな。未来は」
梨央は怒ったような口調で、でもその顔は寂しげに笑っていた。
梨央はそれ以上は何も言わなかった。
消えていくみらいに何も言えなかったのかもしれない。
誰も何も言わないで、少しだけ時間が流れる。でもそれは本当に少しの間に過ぎなくて。強くなる雪がどんどんとみらいの姿を埋め尽くしていく。
「でも、たぶんね。一真くんの本当の気持ちは私へ向かっている訳じゃないんだ。だから。最後だけわがままさせてもらったよ。私はね。一真くんが好きだった。今も好きだよ。でも一真くんの気持ちは、今の私に向けられたものじゃないはず。だから、もっとちゃんと自分の気持ちに向き合ってみてほしい」
みらいは寂しそうに笑っていた。
だけどその笑顔も少しずつ雪で隠れていく。
「ああ、もう。これが本当に最後の最後みたい。一真くん、梨央。バイバイ」
降り積もる雪の中に、微かにまだ見えていたみらいは、その言葉と共に姿を消した。
同時にパタと小さな音をたてて、雪の上に一冊の本が残されていた。
みらいがもっていた魔法の本だ。魔法の本がこちらに残されたということは、もうみらいはここには現れないということかもしれない。
「みらい……」
彼女の名前を呼ぶ。
彼女はもうここにはいない。
もう未来を重ねることはないんだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ」
だから僕は梨央に答えを返すこともなく、ただ叫び続けた。
だけど降り積もる雪が、僕の泣き声をすべて吸い込んでしまう。
何事も無かったかのように、静かに静かに降り積もる雪と僕の叫び声だけが世界に満ちあふれていた。
絵本のように消えた君と共に、僕の初恋は終わりを告げていた。
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