隣の芝は白い

五三六P・二四三・渡

第1話

 白黒の夢を見る。

『モノクロのテレビを見ていた世代は色のない夢を見る』というのは今では眉唾ではあるが、夢に関心がないから色がついていたことを忘れるというのはそれなりに説得力がある。

 しかしながら私にとって夢とは、もっとも興味のある対象だった。

 モノクロの夢は、多くの色にあふれた現実から解放してくれる。カラフルな世界は慣れ親しんだ存在ではあるが、しかし生まれた時からずっと目から入り込み、内側から自身を削られる感覚があるような気がした。

 そして私はその夢に、色がない。

 何物にも染まらない黒。それは私の理想であり憧れだ。

 だから、私は夢に見るのだ。

 現実と地続きでありながら、決して混ざらない世界を。


 ■ □ ■


「それで、締め切りは間に合いそうなんですか?」


 氷がずれて音がした。私はその音によって現実に引き戻される。視線を結露が滴るコップから、声を発した男に向けた。

 手には紙の束を持っており、こちらに向かって細い目を向けていた。私はかけているサングラスのずれを指で戻した。


「締め切り……?」


 私は尋ね返した。目の前の人物は溜息をつきながら肩をすくめる。


「確かに今朝のメールで次号分の原稿はいただきました。しかしながらカラー原稿の締め切りも数日後に迫っているはずです。進捗をお聞かせ願いたいのですが」

「それは……」


 私は返答に困り、思わず黙り込む。逃げるように目線をそらし、あたりを見回した。

 静かなジャズが流れており、コーヒーの匂いが漂っている。周りに座っている客もどこか年配で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 よく打ち合わせに使う喫茶店で、今日もまた出版社の編集と会うために訪れていたのだ。私は渋々と言った顔を作りながらケースから原稿を取り出し、目の前の人物に見せた。

 眉間にしわを寄せていた彼だったが、一瞬だけ表情を緩めた。


「何だほとんどできているじゃないですか……ん?」


 そしてあることに気が付くと、また目の間に力を込めた。彼は一旦原稿をテーブルの上に置き、指をさす。

 そこにはいづれ月刊誌にセンターカラーとして掲載される予定の、原稿の途中経過の画像を印刷したものがある。

 一部の除き、ほぼ完成と言っていい出来だろう。背景、人物、小物、ほとんどに色が塗ってある。しかし。

 編集は絵の一部分を指さした。キャラクターの頭部。正確に言うと――


「――なんでここまで出来ているのに髪だけ塗ってないんですか?」


 やはりそこをつくか。私はもう一度目線をそらした。

彼は眉間のしわを深くし、責めるようにこちらを見る。私は気まずくなって小さく頭を垂れた。


「思い浮かばないんだ。このキャラの髪の色が」

「はあ」

「主人公とかはいいんだよ。もう代一回のカラーで指定してしまったから。しかし、このキャラクターは後から思いついて、設定画にも色がついない。人気キャラなので是非とも読者のイメージ通りの髪色にしたいところだ。だが、どんな色を置いてもしっくりこない」

「読者どうこうではなく、先生がイメージする髪で塗っていただければいいんですが」

「……それが、私にとってはこのキャラクターはモノクロの髪なんだ……」


 編集は顎に手をやって、目をつむって少し考えた。


「それはつまり、黒髪や銀髪ということですか?」

「いや違う。それならベタを塗ったり、影にしかトーンを張らない。しかし髪全体にトーンを貼っているから、何かしらの色を想定している。私にとってこのトーンが貼られた状態こそが、このキャラの髪の色なんだ。金髪や茶髪じゃない。あえて言うならトーン髪と言うべきか……」


 編集がまた黙り込む。私は現実逃避じみた動きで、コーヒーに口を付けた。飲み干して間をつぶす手段がなくならないように、ゆっくりと飲む。


「……確かに、漫画の登場人物の髪の色が読者の想定と違うということはよくあることで、入念に考えるということはいいことだと思います。しかし締め切りに遅れては意味がないというもの。ちゃんと出せるのであれば、いくらでも悩んでもらって結構ですが」


 ここで、『はい! もちろん考えはしますけど、締め切りには間に合わせます!』と断言出来たらどんなに良かっただろうか。実際には、私は弱弱しく頭を下げただけだった。


 それを見て編集は、鞄からタブレットを取り出した。


「出来ないのなら仕方がない。SNSで読者がどういう髪の色を想定しているか調べましょう」

「実を言うともうしているんだ。しかしやはりまたカラー版がないので、ファンアートも色を塗った絵が少なくて、あっても数パターンあるため統一できないんだ。『このキャラの髪って〇〇色だよね』という感想もあまりない」

「感想やファンアートを調べるんじゃないんですよ。最近有名SNSが実装した新機能がありまして」そう言いながら編集は画面を切り替えた。「脳内デバイスに直接接続して、人が想像している映像をから情報を取り出すことができるんです。映像そのものを取り出す技術も開発中ではあるみたいですが、まだ黎明期のさらに初期段階AIイラストのような不明瞭な画像しか抽出できないみたいです」

「そんな技術が」

「まだ試験運用中ですが、この機能を使えば、読者が想定している色を調べることができますよ」

「いや、しかしだな。人にはクオリアと言うものがあるんじゃないか? 脳内に映像のようなものが存在したとして、実際に見ている色や質感は人それぞれ違う可能性があるとか」

「逆転クオリアという奴ですね。大丈夫ですよ。試験段階とはいえすでに数十万人が使っている技術です。逆転クオリアは脳が感じるクオリアを調べることが出来ないということから生まれた思考実験でしたので、脳科学の発展によりそれが可能となった今、逆転クオリアはないと証明できたのです」

「すでに否定されてたのか……」


 かつて10代の頃にはまっていた哲学だったが、永遠の命題だと思っていたものがいつの間にか解決していたことに少し寂しさを感じた。

 例えばこの機能を自分に使ってみることを考える。しかし自分自身が考えるこのキャラクターの髪の色は先ほども言った通りトーンの色だ。モノクロとカラーを合わせるデザインの絵の案を出したことがあるが、最初のセンターカラーなので王道なイラストで行こうという話になって、推しきれなかった。

 結局のところ漫画とは作者だけのものではないという考えも私自身はある。本当に自分だけの漫画ならこの雑誌には載せなかった。だからこそ読者に合わせることも大切のはずだ。


「……わかった。その技術を使ってみよう」


 そう返事すると編集は嬉しそうに笑った。


「助かります。では、SNSに申請をしておきましょう」


□ ■ □


 数日後、担当の編集者が慌てた様子で連絡をしてきた。


『申し訳ありません。どうやら想定外のことが起きたようで……』


 とりあえずメールに添付した資料を見てください。と言われたので画像データを開いてみる。

 既に仮画像として、私の書いた線画に読者のイメージする色を載せたものが出来上がっていた。

 しかしながら空は薄い灰色で、髪は黒や白。カラー画像ではとてもなかった。


「グレースケールで生成したのか?」

『違います。何度も確認しましたし、何度出してもこの画像になるんです』


 私はじっとその画像を見ていた。カラーを予告しているのだし、このイメージ通りに塗って雑誌に掲載することはできない。しかしこの画像にはどこか惹かれるものがあった。まるで自分の中の理想をそのまま抽出したような。


「もともとモノクロの絵だったから、読者も当然モノクロの絵を想定している、という単純な結果なのではないのか?」

『いいえ。この技術はほかの漫画家も試したことがあり、連載初期段階であろうと、ちゃんとカラーで生成が可能でした』

「つまり……?」

『おそらく先生の漫画のみでこういうことが起きるみたいです』


 つまり、私自身が技法や表現、ストーリーセリフにおいてモノクロでイメージして描いているために、読者もまた同じように想定して読んでいてこうなったのだろうか。

 そんな馬鹿なと思う。

 私のように色に苦手意識を持っているのは少数派だと思うが、漫画を脳内ではカラーではなくモノクロでとらえている者は多数派だと思っていた。しかし実際は何らかの色を付けて読んでおり、私だけが例外だったようだ。

 これはある意味では喜ぶべきなのかもしれない。自分の想定した漫画が、その想定通り読者に届いているのだ。それが脳波レベルで証明された。


 それはそうとしてセンターカラーは仕上げなければならない。結局妥協してそれっぽい色で塗ることにした。

 編集は間違った技術を紹介したことを謝っていたが、私が泣き言を言ったのが悪いはずだった。

 我慢できなくなり話題をエゴサーチした。予想通り「思っていた髪色と違った」という意見が目に入り、慌ててブラウザを閉じた。

 似たような感想がどれだけあったかはわからない。


 ■ □ ■


 それからしばらくたって、脳内の色を抽出するシステムのバージョンアップが行われた。

 より正確に色を再現することができるのだという。だとしたら今までは正確ではなかったのか。

 そんな疑問はシステムが導入されてすぐになくなった。何故ならバージョンアップは失敗だったのでそれどころじゃなくなったからだ。脳内から抽出する映像すべてがモノクロだった。何度プログラムを改善しても、結果は同じになり、最終的にはプロジェクト自体が失敗だったという結論に至り、終了を迎えることとなった。


「つまりはあのカラーの結果も意味がなかったということですかね」


 かつての日と同じように、私は編集と打ち合わせをしていた。連載は順調で、あれ以降何度かカラーを載せさせてもらっている。単行本も数巻出た。

 しかし漫画家としては順調だというのに、生活に何か言いしれない不安を感じるようになった。

 私はそんな不安を吐露しようかと迷う。何度か打ち合わせを重ねたとき、ついに切り出すことにした。


「もしかして、あのプロジェクトは失敗じゃなかったのじゃないだろうか」


 編集が原稿を確認している手を止めたが、顔を上げようとはしていない。しかしまるで、私が描いた漫画ごしに、私を見ている気がした。


「というと?」

「バージョンアップしたほうが正確なのだとしたら……この世界の人間の見ているのはモノクロだということだということだよ」

「それは……色覚異常の話をしたいのではいのはわかりますが……クオリアがモノクロだと?」

「ああ、皆は白黒の世界を見ており、そしてそれっぽい色があると錯覚している。だから正確に色を抽出したらああなるのだと」

「その可能性は……あってもいいと思いますが、だから何だって言うんです? もしかしたら技術が進歩してその仮説が正しいことが証明されるかもしれません。しかし書いている漫画がSFじゃない以上、この議論にそこまで意味があるとは思いませんが」

「もしそうだとしたら……」

 

 私はコーヒーの表面を眺めた。サングラス越しでもわかるが、完璧な黒ではない。


「私はそれがうらやましい」

「はあ……症状のことは理解していますが……しかし、その仮説が正しいのでしたら、あなたもまたモノクロの世界に生きていることになる。だとしたら同じ立場ですよ」


 私は首を横に振った。そして、鞄から画像を取り出す。一回怒りに駆られて丸めたために、皺だらけだった。

 編集はようやく顔を上げて、それに目線を向けた。


「これは……かつてのセンターカラーの画像ですね。しかし少し色が違う……?」

「実は私も試したんだ。脳内の色を抽出する技術を。バージョンアップ後と前の両方をな。そしたら同じ画像が出てきた」


 編集が一瞬硬直し、それから慌てて画像を確認する。そして息を吐いてからこちらを見た。


「それで?」

「つまり私のだけがカラーの世界を生きているということじゃないのか? もしかしたら同じような例が数件ほどこの世界にいるかもしれない。しかし。色を嫌っているのはその中でもさらに少数だろう。最もこの苦しみを分かち合ったとしても、なんとなるかもわからないがな」


 編集は悩んだように頭に手を当てる。何か言いたげに口を何度か動かしたが結局黙ってしまった。そしてようやく口を開く。


「今回の原稿も素晴らしかったです。次回もよろしくお願いします。それと今の話ですが」


 編集は原稿を再度読み始めた。今度は確認のみのようで、紙をめくる手が早い。そして机の上に置く。


「考えすぎですよ」


<隣の芝は白い(完)>

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