もしも出会わなければ、春風

夏伐

冬の終わり

 図書館で借りた本を片手に、隠れ家的な喫茶店に入る。


 メニューすらないその喫茶店に出会ったのは偶然だった。たまたま店主が外に出た時に俺と目が合った。

 店主の手招きに、吸い込まれるようにしてこの店の、この特等席に出会った。


 外壁のツタの隙間から木漏れ日が降ってくる。

 夏には青々と茂っているツタも、紅葉していた。


「そろそろ卒業かい?」


 優しげな店主の声に、俺は「はい」と返事をする。

 その答えに店主は嬉しそうに笑みを作った。テーブルにことりとコーヒーカップを置いてカウンターに戻っていく。


 俺は、真面目だけがとりえで人間関係が築けなかった。


 大学でも孤立して、もうサークルに入ったとしても俺がここにたどり着いたのはある意味で運命だったかもしれない。

 自分一人だけの世界であれば、視野が狭くなっていく。そうして、さまようようにして町を歩いていた先でここに出会った。


 店主の優しさに甘えるように、バイトの面接だとか単位が危ないことを相談していた。

 不思議と話したくなってしまう雰囲気があったし、店主は静かに俺の話を聞いてくれた。


 そして知り合いが出来たり、バイトを始めたり、俺が新しいことに挑戦するたびに喜んでくれた。


「君が卒業したらこの店も終わりだね」


「え?」


 週末の数時間、二年間をこの店で過ごしてきた俺にとって、何気ない店主の言葉はショックなものだった。


 大学に入学してからうつうつとした二年間を過ごして、ここで彼と出会うことで俺は変わった気がした。


「本当はもうこの店を閉めるつもりでね」


「ここ、なくなっちゃうんですか……?」


 人がいなくて過ごしやすい隠れ家的な喫茶店、そこが好きだった。だが、それが理由でつぶれてしまうのか?


「いやね、実は既に閉店済みなんだ……」


 驚きすぎて、とっさに言葉が出てこない。

 SNSでインフルエンサーが紹介したらお客で溢れるような、そんな雰囲気とおいしいこだわりのコーヒーたち。


 あまりの衝撃に読んでいた本がパタリと閉じた。


「はい、今までのコーヒー代。卒業祝いってことでね」


 重そうに大きな瓶をテーブルに置いた。中には100円玉や500円玉が入っている。


「一応、店やってないってことになってるから」


「そんな……」


「子供たちにも一緒に住もうって言われててね。君が卒業するまでの間、こうして店を構えておくことにしたんだ。元々、客が入らない店なんだよね、ここ」


 淡々とした様子の店主をはっきりと見つめることが出来なかった。


「なんで、お店、開いててくれたんですか?」


「君がこの店にやってきた時、その時の目が印象的でね」


「目?」


 店主を見れば、静かな瞳と視線があった。


「自暴自棄っていうか、投げやりな感じって言えばいいのかな」


「ああ……」


 サークルに入ろうにもうまく行かず、講義で隣になる顔見知りに話しかけることができない。

 なんでこうなったのかな。

 その原因への怒りを、俺は社会のシステムにぶつけていた。


「だから少しでも気分転換になればと思ってね」


 たったそれだけ、通りすがりに目があった、そんな程度で二年間も、


「季節が冬から春になる時に、強い風が吹くこともあるらしい。こういう風よけがあってもバチは当たらないんじゃないかな?」


「それだけで?」


「こういう出会いもあるのかもしれないと思ってね。僕も昔、そういう人に助けられたから」


「そう、なんですね」


 俺がこのお店を継ぎます、なんて言えるほど商売は甘くないだろうし、コーヒーだってうまく作れない。


「さすがに小銭ばっかりだと重いから、はい」


 そうして、ご祝儀袋をもらった。


「あ、ありがとう、ございます……」


 これからどうしたらいいんだろう。

 そういえばこの人の名前も知らない。支えが急になくなってしまった。足元が揺れているようなそんな気分になってくる。


「急にごめんね。そうだ、今日から閉店準備をしなきゃいけなくて、手伝ってくれないかな?」


「は、はい!」


 俺は、少しずつこの店の終わりを手伝った。自分の手で、心の支えを一つひとつ折り畳みしまいこんでいく。

 店主はいつもと変わらない、そしていつもより帰りは遅くなったものの、別れもいつもと変わらなかった。


「じゃあ、また」


「あの、ありがとうございました……」


「こちらこそ、ありがとう」


 翌週あの店へ向かうと、本当に閉店していた。扉が開かないのではなく、テーブルやいすも片づけられていた。


 夢だったのだ、と言われてしまえば、そうかもしれない。

 けれど、俺にとってあの店は辛い冬をしのぐために必要だった。


 人生の春なんていつ訪れるのか分からないけれど、あの店がなくなったことは本当にひどい衝撃があった。

 それを乗り越えて、このまま進めばいつか冷たい風は春一番へと変わるのだろうか。


 その日を実感できるかは分からないけれど、いつか、きっと。

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