マラカ洞窟
未明の空。
こんな風に一人で過ごす夜は久しぶりだった。誰の寝息も聞こえないと静寂に心が騒ぎだす。色々なことが蘇る。ノアは眠れない夜、優しく頭を撫でてくれた兄を思い出した。大きな手、温かい眼差し……大好きだったその声は、もうあまりよく思い出せない。
――村の近くに捨てられていた赤子を妹として受け入れ、両親と共に身に余る愛で包み込んでくれた兄。兄は誰にでも分け隔てなく優しく、皆に頼りにされる治癒士だった。
邪神に怯える人々の心の安寧の為に、毎日女神に祈りを捧げていた信心深い兄。ノアも兄の真似をして女神に祈った。正義の女神レネセ……その存在を目にしたことも声を聞いたこともないノアだが、兄が信じるものなら素晴らしいものなのだろうと疑わなかった。しかし女神は兄の愛に加護を返すことはなかった。
ノアが十五歳になったばかりのある日、村は邪神の襲撃にあった。
襲われそうになったノアを庇い、邪神に寄生された兄。兄は愛し愛された村人達の命を惨く奪い、騒ぎを聞きつけた隣の村の自警団によって討伐された。
一晩の内に起きた惨劇。村の唯一の生き残りがノアである。大怪我を負ったノアを、邪神は屍と見間違え見過ごしたのだろう……と大人達は言った。だがノアは、兄に僅かに残った自我が見逃してくれたのだと思った。
残されたノアは途方もない喪失感と激しい罪悪感に襲われた。どうして自分だけが生き残ってしまったのか。生きるべき人は、優しく賢く人々の救いになる兄のような人の筈なのに……。隣村で治療を受け動けるようになり、元居た村に行くと、そこには何も残っていなかった。邪神を焼却するため村には火が放たれ、家屋も亡骸も全て塵になったのだ。
――目に焼き付いている、あの晩の光景。恐ろしい力で人間を蹂躙する邪神の力。ノアはその悪夢に囚われ、復讐の旅に出た。
守られてばかりの弱い少女の姿を捨て、髪を切り、男の装いに身を包み、兄の名をお守り替わりに借りて、ノアは邪神を追い西に向かう。しかし彼女一人に出来る事などたかが知れていた。
邪神の巣窟になっていた森に単身で乗り込んだノアは、己の非力さを呪う。旅の途中で鍛錬に励んだとはいえ、付け焼刃。細腕一本では魔獣一匹倒すのがやっとで、群れに囲まれたノアは絶体絶命の危機に陥る。
大切な人を守れなかった。復讐も叶わない。生き方も死に方も奪われたノアは絶望した。そこに現れた一人の剣士。ノアは目を引く彼の容姿に、一目でそれが誰であるか気付いた。彼が噂に名高い勇者、ルークであると。彼は憐れな魔獣達をたちまち一掃し、森に平穏を取り戻す。その圧倒的な強さにノアの心は震えた。
『僕を、あなたの旅に同行させてください。力は弱いですが治癒術が使えます。お役に立ってみせますから』
彼と共に居れば復讐を叶えることが出来るかもしれない。例え自分が死んでも、間接的にでもそれが叶うなら良かった。無駄に死ぬよりよほど良い。ノアは自らの目的の為、そして自分を救ってくれたルークに恩返しをする為、彼の旅に同行した。
旅の道中、他の挑戦者達に聞いた話によると……勇者に憧れ旅に同行したがる女は後を絶たないらしい。しかし彼は女を仲間にする気はないようだ。色目を使われるのが煩わしいのか、男より弱い生き物と見下しているのか、そのどちらもか。ノアは彼らの仲間で居続ける為に、兄の名のまま男を装い続けた。
(今となっては、ギルの女好きを懸念してたんだろうなって分かるけど。でもレイラが認められたんだから、結局は実力重視だってことだよね。……ハア。僕、本当に何の役にも立ってなかったのかな)
数時間前に、酒場でルーク達に掛けられた言葉がまだ耳に残っている。それはじわりと目の奥まで熱く沁みた。
ノアは昨晩の冷酷な彼らが本当の姿だとは思っていない。ルークは合理的で冷たいところがあるが、少なくともギルバートとレイラは、本人達が自覚しているかはさておき人情家だ。そんな彼らにも見限られるくらい、自分は足手纏いだったのだろうか? ノアは少しは貢献出来ているつもりでいた。彼らが怪我をすればすぐに治癒を施し、彼らの危機には替わりに傷や呪いを受けることもあった。
ノアの強みは、人より少しばかり怪我の治りが早いこと。痛みに鈍いこと。治癒士の中には魔力が治癒に特化し、常に自身に癒しの効果を与え続けられる者が居る。ノアは自分もその一人なのだろうと思っていた。腕を折られても足を折られても、片手が残っていれば術は使える。ノアは意識ある限り、仲間の命を最優先に考え行動した。
三月前、魔獣に隙を突かれたルークを庇い背中に大怪我をした時も、ノアは悲鳴一つ上げなかった。寧ろルークの無事に安堵の息を吐いていた位だ。だが……失血で気を失ったノアが宿で目覚めた時、ルークは褒めるどころか凄まじい形相でノアを怒鳴った。ノアはその時の彼の様子を思い出し身震いする。見目の良い者が本気で怒ると迫力が違うのだ。
『ノア! どうして出て来た! 何故、私を庇った!』
『ルークさんが危ないと思ったから……』
『どうしてお前はいつもそうなんだ! もう余計なことはするな!』
それだけ言って、荒々しく部屋を出て行ってしまったルーク。ノアの傷の手当てをしたのだろうレイラが驚きに目を丸くした後、ひどく詰まらなさそうな顔をしていたのも覚えている。
“いつもそう”とはどういうことなのか。何が彼の逆鱗に触れてしまったのか。もしかするとルークは背後の攻撃に気付いていて躱すことが出来たのかもしれない。弱い仲間の勝手な行動で治療費が嵩んだことに対して憤っているのか。弱者に庇われたことでプライドが傷付いたのか。……どちらも彼らしくなかった。ノアはこの件にそれ以上触れてはいけない気がして、考えないよう頭の片隅に追いやっていた。
しかし今思えばあの時から、自分たちの関係は徐々に変わっていったように思う。ルークを見ると目を逸らされ、苦しそうな顔をされるようになった。二人で話をする時はどこかぎこちなくなってしまった。
(ああそうか。怪我した弱い僕を見て、ルークさんは失望したんだ。僕、本当に目障りだったんだ)
ノアは鈍感な自分に嫌気が差した。
……空は刻々と朝を受け入れていく。ノアはボロボロの鎧の紐を結び直し、地面を蹴った。守るべき仲間を失った今、ノアの原動力は復讐心だけである。ノアは一人、洞窟へと向かった。
洞窟の入り口では常に異常を検知できるよう、警備兵が巡回している。二人の警備兵は薄暗い夜明けに、ぬっと現れたボロボロの鎧姿を見て「うおっ」と声を上げた。亡霊と見間違えたのだ。数々の挑戦者達が犠牲になったこの場所は、そういうモノがいくら出てもおかしくない場所なのである。しかしどうやらその小柄な男はまだ生きているらしい。ただの亡霊予備軍だった。
「おいお前、一人か? ……なんだ、まだガキじゃないか。ここは遊びに来るところじゃないぞ」
「いえ。僕は一応、大人です。それに挑戦者ですよ」
「ハア? マジか? ……まあガキが一人でここまで来れるワケ無いか。そんなボロい装備で自殺でもしに行くってのか?」
「これ以上死体を増やさないでくれよ。最近じゃここまで死臭が漂ってる気がするんだ」
「善処します」
ノアは眉一つ動かさず、二人の間をすり抜けて洞窟に向かっていった。やけに肝の据わった少年だな、と兵士達は顔を見合わせる。……ああ、大人なのだったか。
近くの町にかの有名な勇者率いる一行がやって来たことは、兵士達の耳にも入っていた。女神に選ばれた彼ならば、きっと邪神を滅ぼし人類を恐怖から救ってくれるだろうと、誰もが期待している。だからお前みたいな奴は家で大人しく待っていればいい……と声をかけるべきだったのだろうが、颯爽と歩いていくその後ろ姿に、二人は何も言えなかった。
*
ノアは遂にマラカ洞窟の前に立つ。苔生した岩壁に縦に入った亀裂が入口だ。人一人を簡単に飲み込む巨大な亀裂の向こうには、すぐに湿った壁が見える。洞窟は前ではなく下に続いているのだ。過去の挑戦者達が掛けたままになっている縄梯子の中から一番丈夫そうなものを選び、ノアは慎重に下りていった。足元から這い上がってくる冷気に身震いしながら、深く、深く、地下へ潜る。
洞窟の内部は、数少ない生還者から得た情報通りだった。壁も足元も湿っており、岩肌は仄かに不思議な光を放っている。緑色の光には強弱があり鼓動しているみたいで不気味だ。カビくさい道を進んでいくと、強い異臭に襲われる。……これも想定内。洞窟は今や人々の墓場。そこには色々なものが滞留しているのだ。ノアは足元に転がる憐れな挑戦者達を悼みながら、避けて歩く。邪神がその骸に潜んでいないとも限らない。
邪神は、細い光の線のような姿をしている。他生物の耳や口から侵入し、脳を乗っ取り、生命力を奪う寄生生物。自我を失った宿主は本来の肉体以上の力を発揮し、人間を襲う怪物となり、人間を殺し人間に殺される。一度体を奪われた宿主はその時点で脳も肉体も作り替えられ、元に戻ることは出来ない。邪神を討伐するには宿主の命を奪い、邪神が次なる宿主を探して外に出た瞬間、本体を切り刻むしかなかった。
邪神の恐ろしい生態が分かった今では、人々は寄生対策をしている。挑戦者達は戦いに臨む際は、必ず兜で耳や口を覆うか、魔力を跳ね返す聖具を身に着けていた。結果、今では人間の寄生被害は減り、邪神の宿主となるのは主に野生の獣である。
武具を全て酒場に置いてきたノアは、宿の女主人から買った錆びついた兜を確認する。少し隙間が気になるが、無いよりはマシだろう。刃こぼれした剣を手に歩みを進めた。前にも後ろにも誰も居ない事は、こんなに不安だっただろうか?
(……おかしい。やけに静かだ)
情報によると、洞窟に入った者はすぐに魔獣に遭遇したという。挑戦者達が進むのを邪魔するように立ちはだかり、襲い掛かってくると聞いていた。だが物音も気配も何もない。異様な静寂に満ちている。
もしかすると、既に殆どの魔獣は討伐され尽くしてしまったのではないか。あまりに何も起きない状況に僅かに油断が生じた時……その声は、聞こえてきた。
“待っていたぞ”
地の底を這うような低い声。兜越しに聞こえるものにしては鮮明で、近すぎた。それはノアの内側から響いているのだ。
“我はずっと待っていた。お前が来るのを待ち詫びていた”
ノアは頭が割れそうになった。感じたことの無い痛み。腕や足を折られるより、背中を切られるよりずっと痛い。頭蓋骨に釘を刺されトンカチで何度も打ち付けられているみたいだ。激しい痛みに意識が遠のく。
(この声は、一体……)
知らない筈のその声をノアは――どこか懐かしく感じていた。
瞬間、痛みが変わる。体が拒絶を諦め、声を受け入れ、不思議な快感を抱き始める。もっと近くで感じたい。もっと強く感じたい! ノアの手が兜を取り払い、重たい鎧を脱ぎ捨てる。軽くなった足は何かに導かれ、洞窟の奥へと吸い込まれていった。
“よくぞ戻った――我が子よ”
声に呼応し、岩肌が強く光り輝いた。緑色の光が視界を覆い、脳内を埋め尽くし、何も分からなくなる。
――深い緑色の沼。沈む意識。暗い瞼の裏には、兄、両親、村の友人達、旅の仲間達。短い人生で出会った人々の顔が、次々に浮かんでは消えていく。いつまでも中々消えていかないのは、月明りみたいな金色の髪。
(ルークさん……僕、あなたの役に立ちたかったな。僕は、)
思考が、想いが途切れる。しかし喪失感はない。それどころか失っていたものが戻ってきた安堵、自分が完全なものになる充足感に満たされた。もう力不足の自分をもどかしく思う事も、孤独を感じることもない。
(ああ、きっと復讐なんて口実だったんだ)
あの晩、村を滅ぼした邪神の力。ノアはそれが忘れられなかった。ずっと気付かないふりをしていたが、それに魅入られていた。復讐心は嘘ではないがそれだけではない。ノアは……
(僕はずっと、ここに来たかっただけ。ここはずっと僕を――わたしを呼んでいたんだね)
“ただいま”と
ノアは幸せな闇に、落ちていく。
*
朝に町を出たルーク達は、すっかり太陽の位置が高くなった頃、マラカ洞窟に到着した。彼らの後ろには王都から派遣された兵士が三人、治癒士が一人。治癒士が中年の男であることに、ギルバートはずっと不服そうな顔をしていた。治癒士が美女であるというのはノアに辛くあたる為のデマカセだったが、真実であればいいなと期待はしていたのだ。
「おお! あんた様がかの有名な勇者様ですね!」
洞窟警備兵の興奮した大声に、ルークは顔を僅かに顰めた。それを見てレイラは、まだ酔いが抜けていないのかしら? と心配になる。
「俺、ファンなんだ! いやあ、感激感激」
「それは良かった。……通してくれるか?」
「ええ、ええ! 勿論でございますよ」
二人の警備兵はさっと道を空けた。その顔は勇者一行の登場に高揚し、明るい未来への希望に満ちているが……ルーク達が通り過ぎようとした時、僅かに曇った。レイラが目敏く「何かしら?」と柔らかく尋ねる。花の芳香の如き美女の声に、警備兵は少しぼんやりしながら「あ、ああ」と曖昧に返事をした。
「実は今朝、無謀な挑戦者が入って行ってな。……もし洞窟内で会うことがあったら、助けてやってくれないか?」
「どんな奴なんだ?」
ギルバートが問う。レイラは嫌な予感がして、警備兵が答える前に二人を先へ促そうとしたが、間に合わない。
「黒髪の、まるでガキみたいな顔の細っこい男だ。拾い物みたいなボロボロの鎧で、重そうにフラフラ歩いていやがった」
兵士の言葉にルークの顔色が変わる。ルークはレイラの肩を掴み、噛みつく勢いで問い質した。
「どういうことだ! ノアは宿に残っていると言っていただろう! お前はそれを確認してから出て来たんじゃなかったのか!」
ルーク達が町を発つ時点で宿に居たのなら、ノアが早朝に洞窟に来ることなどあり得ない。レイラが痛みに顔を歪めるのを見て、ギルバートが慌てて仲介に入った。
「おいおい! ノアな訳ないだろ。アイツは鎧なんて持ってなかったしな……落ち着けよ」
ギルバートの声に、ルークはいくらか冷静さを取り戻した。だがまだ疑いを捨てきれないようで、何か言いたげな顔のままレイラから手を放す。ギルバートに「大丈夫か?」と念入りに肩を擦られ、レイラは「触らないでよ」とその手を乱暴に払った。その衝撃で、レイラの懐から巾着袋が落ちる。
ガシャンと金の鳴る音。レイラの顔がサッと青くなる。ルークは醜悪なものを見る目でレイラを見た。ノアに渡すよう託したそれが、ここにあるということ。早朝に洞窟を訪れたというノアらしき人物。その二つからは、レイラが金の為に嘘を吐いたとしか思えない。
事情が分からず戸惑う兵士達。ギルバートは自分の行動が発端となってしまったことを一旦棚に上げ、頭を抱えた。これから邪神の巣窟に入るというのに……こんなところで仲間割れをしている暇などないというのに……。相変わらずノアの存在がかき回してくれるなと思った。
(ノア、生きていてくれよ)
ギルバートは生まれて初めて、真面目に女神に祈りを捧げた。
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