望まない忘れ物

sora

第1話

 村から街までは車で三十分ほどかかる。道は途中までしか舗装しておらず、ボコボコとした不揃いな道が車を揺らす。摩天楼や霧の町、あるいは観光客地元客のために綺麗にされた海岸沿いの街しか知らない車なら途中でバテてしまうだろう。中に乗っている人間もあまりいい心地はしない。

 悪路向けのトラックの中で揺られているジョンも、心地よい気持ちではなかった。

 今日は土曜日。週に一度、父親が作ったチーズを街に届けることになっている。彼はその日がやってきたら、宿題や村の友人と交わした遊びの約束事をやめて、チーズの載ったトラックに乗り込み、街に付いて行って仕事の手伝いをする。先月、11歳になったジョンはこの手伝いを9歳の頃から行なっている。最初の頃は悪路のもたらす不愉快と、友人との大切な時間を捨てなければならず、嫌々な気持ちで父親の隣に座った。だけど今は違う。仕事の手伝いをすれば父親は小遣いをくれた。雑誌やコミックスの一冊や二冊はお釣りがくるし、あまり着心地もセンス良いものではない、が安めの服を一着買うことはできる。雑貨屋に並ぶお菓子を袋一杯に詰めることもできる。大人が買う、少し高級なチョコレートを入れることも。11歳となり、色々なことに興味を持つようになった彼には金がいる。週に一回の手伝いで、友人たちの懐よりも暖かくなる。悪路の不愉快さはいつまで経っても受け入れることはできないが、仕事を手伝うことに抵抗はなくなっていた。金がないと、何も手に入らないことを知っていた。

「今日は随分と楽しそうだな」

 ハンドルを片手に、規則正しいペダル操作でトラックを操る父親が、窓の外の景色を眺めるマックに声をかける。相変わらずの悪路。トラックのサスペンションが小さな悲鳴をあげている。

「……今日はほら……街の公園に遊園地が来るじゃん」景色から目を離さずにジョンは答える。

「行くのか?」

「半年に一回しか来ないもん。友達には悪いけど楽しませてもらうよ」

「それはいいが、夕焼けが来たら帰るぞ。いつも通りに」

「わかってるよ、父さん」

 ジョンは外の景色から目を離さない。遠くの方、森の中から一匹の犬がこちらを見ている。群れから逸れたのか、寂しそうな顔をして。ジョンもなんだが、寂しい気持ちになった。

 村を出発してから二十分ほど経ち、悪路から舗装された道に変わる。黒い黒い道路。小さな悲鳴をあげ続けていたサスペンションは、カフェの片隅でにっこり笑いながら、穏やかにコーヒーを飲む老婆のように静かになる。十分ほど走り、ジョンたちを乗せたトラックは街に着く。信号を何度か通り、雑貨屋にたどり着く。

「ジョン。荷物を頼む。俺は主人と話してくるから」

トラックを雑貨屋の入り口近くに停めて、ジョンの父親は運転席を降り、店の中に入る。ジョンも助手席から降りて、トラックの後ろに行き、荷台のカバーを取り外す。

「おい!田舎者がいるぞ!」

 庶民向けの安いチーズが入った箱を、店の裏手に運んでいると、街に住む数人の若者が遠くから悪意を飛ばしてくる。ジョンより三つほど年上。皺一つないシャツを着た若者の群れ。狼の群れのような気高さはなく、顰めた笑い顔はピエロのような愛嬌はなくて、そこら辺に転がっている石ころのように汚い。ジョンはそれを一目見ると、あとは無視した。相手にすると無駄に時間を過ごすことになる。

 今は仕事の手伝い中だ。

 僕はあいつらなんかより立派なんだ!遊んでるんじゃない。僕は立派な人間だ!!

 耳栓をしたように、外からの音を意識しないようにして、ジョンはチーズの入った箱を運ぶ。若者の群れは面白くない顔をして、離れていく。若者の群れの背中を見る。父親とは程遠く、小さな背中ばかりだった。哀愁なんかなくて弱者を笑おうとする情けなさしかなかった。チーズに群がるネズミのように見えて、ジョンはなんだか可笑しくなり、声を殺して笑った。

「ジョン……終わったか?」

 父親が店から出てくる。顔色は普段通りだが、声の音色の機嫌がいい。いつもより多めにもらったのだろう。ジョンはそう確信した。

「終わったよ、父さん」

「ありがとう。次の店に行くぞ」

「うん」

 雑貨屋を後にし、今度は中規模なスーパーマーケットへ。入り口ではなく、店の裏側にトラックを止める。裏口には係員がおり、父親は一言二言言葉を交わすと、チーズを運び始める。今度は一人ではなく二人。店の裏側ということもあり、街を歩く人からはよく見えない。先ほどの悪意はなく、ジョンはキビキビと体を動かし、汗を流した。量は雑貨屋よりも多かったが、二人で作業しているので早い。三十分も経たない内に、トラックの荷台は空っぽになる。だけど奥の片隅には小さな箱が置いてある。父親は報酬を受け取ると、トラックに戻った。ジョンも戻る。トラックはスーパーマーケットから離れて、街の北側に進む。アパートの並ぶ街中を抜けると、公園が見えた。いつもなら芝が広がるだけの公園だ。いつもならだ。だけど今日は違う。半年に一度やってくる移動型遊園地がそこにいる。大きな、白馬が回るメリーゴーランド。街全体を見渡すには高さが低いが、地上よりは雲に近づける観覧車。アイスクリームやタコスを売っている店やらが並んでいる。明るいピエロが、その中を右往左往と芸をしながら歩き回っている。ジョンはその光景に釘付けになる。

「ジョン……まだ仕事があるんだ。遊ぶのはもう少し待ってくれ」

 助手席のドアを開けて、朝日が生まれたと同時に飛び出す鳥のように、その光景の中にダイブしようと考えるが、父親の言葉が静止する。

 こうゆう時、仕事って邪魔だよね。

 聞こえないように、悪態を吐いた。

 夢の遊園地を通り過ぎ、トラックは北へ行く。しばらく進むと、建物が見える。古びた二階建ての建物。どこか気品がある。四十年ほど、雨に風に触れて汚れて傷ついているのに、その建物に抱く感情は尊敬の念に近い。父親や村の学校の先生に抱く感情とは少し違う。ジョンにはそれがなんなのかわからない。わからないけど、心が落ち着くような気がした。

 建物の前にトラックを止める。遊園地の騒ぎ声はまだ耳に聞こえている。

「なぁジョン。これから会う人は新しい商売の人なんだ」

「ここはお店なの?」

「あぁ。高級な料理の店だよ。俺が一か月懸命に働いても食べれないくらいのな。この前、お前が学校に行ってる時にうちにやってきたんだ。店で使いたいというチーズを探しているって言ってな……ジョン。俺が言いたいのはだな」

「お行事よくしていろ、だね?」

「理解が早くて助かるよ」

「父さんの仕事の邪魔はしないよ。小遣いもらってるんだし。僕もそこまで子供じゃない。もう11なんだから。来年には12だよ」

「あぁそうだったな。お前はもう子供じゃないな」優しく笑うと、父親は運転手を降りる。ジョンも続く。建物の扉には「準備中」の札がぶら下がっている。扉のドアノブを回して中に入る。入ってすぐ左に螺旋階段。2回に続く道。一階には丸いテーブルが左右の壁沿いに三つあり、二人分向かい合わせの椅子が置かれている。静寂に包まれている。人里離れた森の中のように、人の生き音がしない。ジョンは不安になり、父親の着ている紺色のオーバーオールに手を伸ばそうとした。

 だめだ。僕は子供じゃない。さっき父さんにそう言ったばかりじゃないか。

 伸ばそうとした手を戻し、かわりに自分の着ている灰色のオーバーオールの端を指で摘んだ。そうやって不安を紛らわしていると、甲高い革靴の足音が耳に入る。遊園地の騒ぎ声は窓に遮られているから足音がよく耳に入る。店の奥からだんだんと近づいてくる。品のいい黒いスーツを着た長身の男が、首元に赤い蝶ネクタイをしてやってくる。和かな顔をして。怒りという感情を全く知らずに育ってきたように見えてしまう。

「こんにちは、フランクリンさん」

 ジョンの父親は緊張気味に挨拶する。

「こんにちは、ウィリアムさん」

 父親とは違い、軽快に、だけど相手を軽んじているわけではない声で挨拶を返すフランクリン。

 ジョンはその声を聞いて、オーバーオールの端を摘むのをやめた。見境なく人を襲う野獣のような凶暴性はなく、声の中の温かさを感じることができたからだ。暖炉のように、ゆっくり燃えるような温かさを。

「……息子さんで?」

「ええ。そうです」

 フラクリンはジョンに視線を向ける。ジョンよりもずっと高い身長。山脈の頂上のような高さ。

「初めまして。フランクリンと申します」

 山脈はゆっくりと会釈する。

「ジョン・ウィリアムです!」

 学校の授業で、何らかの発表をするときのような声の大きさで名前を告げる。

 にっこり、と笑顔を絶やさないフランクリン。ジョンもつられて笑ってしまう。行儀よく笑おうとするが、友人達の前のように砕けた笑顔を浮かべてしまう。

「立ち話もなんですから店の奥に……上客用の席がございますので」

 フランクリンは背中を向けて店の奥に向かう。父親も後に続く。背の高さは父親の方が高いが、ジョンには同じように、逞しく見えた。






 2

上客用の席は個室だった。壁には、遠い遠いアルプスの山々を描いた壮大な風景画が飾られており、テーブルも椅子も上等な、英国風の高級品だ。家でも村でも街中のどの店でもみたことがない、綺麗なツヤをしており、椅子のクッションは抵抗なく守るように受け止めてくれる。高級品なのはわかるが、いかにも王宮や成金が買うようなものではなく、職人が丁寧に作った品の良さが感じた。ジョンは父親の横に座り、対面するフランクリンの話に耳を傾ける。父親は相槌をし、いつのまにか緊張を無くした声で返事をしたり意見を述べた。商売の手伝いをしてはいるが、それは出来上がったチーズを街に運ぶことぐらいで、金に関する話はジョンの中では迷宮に迷い込んだかのように難解だ。鏡が張りめぐされた迷宮の中、自分のこのしか見えず、どこへ行っても行き止まり。ジョンは何とか理解しようとするが、学校で教わる歴史や数学よりも退屈で何度か夢の世界へ行くために目を閉じそうになったが、父の邪魔をしないように目に力を入れた。一時間ほど仕事の話は続き「そろそろ喉が渇きますね。今から紅茶をご用意します。少々お待ちください」と言って、フランクリンは個室の外に出た。

 個室の窓から遊園地が見える。トラックに乗っていた頃よりは遠い場所。歩いて十分ほどの距離。大きなメリーゴーランドや観覧車は見えるが、園内で起きている楽しい祭り事まではよく見えない。

 ピエロは今頃何をしてるんだろ。アイスクリームの在庫は残ってるのかな。僕はチョコレートがいいな。バニラはちょっと飽きちゃった。どれかのテントには最新のアーケードゲームがあるかもしれない。街のゲーム屋のおじさん、ケチだから最新のものは入れてくれないし。

 夕焼けまで後三時間ほど。朝に目覚めた太陽は再び眠りにつき、静かな夜が世界を包んで月が代わりに地上を照らす。ジョンは焦りを感じて見えない汗が身体の上から下に流れていく。床にシミを作ることはないけど、その見えない汗はジョンの身体と心を徐々に蝕み、冷やしていく。今はカラッとした暑さのある季節なのに、冬のようなひんやりとした感触が細胞を走っていく。

 フランクリンさんが戻ってきたら伝えよう。僕は遊園地に行くって。

 ジョンは決意した。

 わがままなのはわかるけど、このまま見えない汗を流し続ければ、きっと顔色は熟れたブドウのように青くなる。そんな状態で質問なり話を振られても、楽しい会話を生み出すのは非常に難しい。父親は怒るかもしれない。もしかしたら、今日のお小遣いはないかもしれない。そしたら遊園地で遊ぶお金はあっても、欲しかったコミックスの新刊や、季節の到来とやってくる洒落た帽子や服は買えないだろう。だけどジョンは迷わない。

「お待たせしました」

 フランクリンは個室に戻ってきた。台に載せた紅茶セットと一緒に。ジョンは立ち上がり、フランクリンの元に行く。

「あのフランクリンさん」

「ん?何でしょうか?」

「あの、お茶は凄く楽しみなんですが、その、僕は、えっと」言葉がうまく繋がらず、目が泳ぐ。フランクリンは笑みをなくさず「いいですよ。行ってください」と言った。

「え?」

「遊園地ですよね。あなたの目が時々、窓の外にある楽園に向いてましたから」

「……すみません」

「謝ることはないんですよ。退屈な話をしてしまったのは私のほうですし。それに、あなたの年頃なら、部屋でお茶を飲むより外で遊ぶ方がいいでしょ。私もそうでした。商売の話なんて、うんざりするもんです」

「……それじゃあ!」

 見えない汗が流れるのが止まる。代わりに心臓の鼓動が速くなり、身体を蝕んでいた冷たさは消えて、ふつふつとした暖かさが外へ放出しそうになる。

 ジョンは父親を見る。

 希望を眼差しに込めて。

 父親は笑う。

「夕焼けまでには帰ってこい」

 困ったように。

 されど、深淵のような暗さはない。

「行ってきます!」

 ジョンは個室を出る。先ほどまで聞こえなかった祭りの音が耳に聞こえ始める。

 窓が開いたわけじゃない。

 扉が開いたわけじゃない。

 それなのに、彼の耳には確かに祭りの音が聞こえている。身体は軽く、今なら鳥と同じように空を飛べそうな錯覚すら覚える。ジョンはその身体を必死に、地上に留める。誰の目もないが、ここはお店の中。やってくる客のために綺麗にされている場所を、おもちゃを買ってもらった子供のように走り回るわけにはいかない。見えざる目が彼の足を走らせるのを制止する。

 外に出た。祭りの音はさっきよりもはっきりと聞こえる。空は青く青く、雲一つ寄せ付けない晴天。トラックは動かせない。自分の足で行くしかない。

 ジョンは走ろうとした。

 野原を駆け回る馬のように。

 「待って!!」

 晴天の下、女性の声が……いや女の子が響いた。



3

 ジョンは走りそうになった足にブレーキをかける。声は後ろから響いた。後ろを振り返る。ギンガムチェック。白と青のギンガムチェックの、人形が着るような半袖ワンピースを着た女の子がいた。降り積もった雪に反射して生まれる黄金のように輝く髪は腰まで伸びてあと数年もしたら地面との交流を始めるかもしれない。大きい瞳は瑠璃の様で、寒空で輝く青星のように輝いている。今はカンカン照りが日中を支配する季節。汗をかくほどの温度はないが、女の子は冬の妖精のに見えて、今の季節は辛そうだなと思うけど、親しみを込めたように笑っている。辺りに家はない。遊園地のある方から来たのかと思ったが、年はジョンよりも下に見えたし、わざわざ歩いてここにくるとは思えない。ジョンは幻を見ているのかと思った。迷宮から脱出し、有頂天になった頭が見せている、もしくは晴天の空が作り出した陽炎なのではないかと思ってしまう。ジョンは一度、青々とした空を見上げて、視線を地上に戻した。女の子は消えなかった。

 ジョンは頭が痛くなってきた。

 彼女がこの建物に住む幽霊的な少女であるはずがない。コミックスの主人公のようにマントをつけて空を飛ぶ練習はたくさんしてきたし、街の中の教会の中を探索して封印された獣を探す冒険を友人と行ったが、空を飛ぶことも神秘的な経験をしたことはない。せいぜい父親に鼻で笑われたことと、赤い顔をしたゴブリンのように血相を変えた神父様の怒りを喰らったことぐらいである。彼女の着ているワンピースは上品で、遠目から見てもわかるほどの綺麗な色彩をしている。ジョンの身近な人間関係の中で、このような綺麗な服を着ている女性は一人もいない。雑誌に掲載された女優の写真ぐらいだ。フランクリンの娘、あるいは従業員関係者であることはわかる。

 ジョンは頭が痛くなってきた。

 ここで選択肢を間違えれば、父親の仕事に、悪影響が出るかもしれない。今でも貧困とは程遠い生活を送れてはいるが、良くなるなら良くしたい。小遣いだって増えるだろ。街の服屋のショーウィンドウに、美術館の絵画のように飾られた服にも手が届くかもしれない。何より、父親の仕事が広まるのが嬉しかった。

だから、選択は間違えれない。学校のテストなんかより難題な問題だ。いっそ、逃げ出そうと思ったが、瑠璃色の宝石が影を地面に縛る。不思議な魔法がジョンを包む。

「君は誰?」

 ジョンは口を開く。渇いた唇を懸命に動かして。

「私はシャーロット」

 不思議な国の迷い子とは違うようだ。

「シャーロット……素敵な名前だね。女優さんみたいだ。それでシャーロット。そんな君が僕に何のようだい?」

「待って」

 もう待ったよとジョンは言いたくなるが、喉の奥に突っ込み溶かした。

「なに?」

「あなたの名前は?」

「名前なんてどうだっていいじゃないか」

「良くないわ。これからお友達になるかもしれない人の名前を知らないなんて困る」

「なにに?」

「思い出したくなっても思い出せなくなるわ。顔や声は時が経ってしまうと薄れて、本当に見たのか聞いたのかわからなくなる。そんな残酷なことって、死ぬことよりもひどいことよ。あなたはそう思わない?名前なら薄れないわ。声に出せばいつでも思い出せる。どんな時も……風邪で頭をうなされてもね」

 女の子は詩を歌う詩人の様に、見えない観客に問いかけるような口調でそう言った。

 一歩一歩間を詰めてくる。汽車に汽笛とは程遠く、いつの間にか降っていた雨のような静かさだ。

 ジョンの目の前で、息が混じる距離で「ねぇ、あなたの名前は?」と尋ねる。

「ジョン……ただのジョンだよ」

 瑠璃色の宝石から逃げるように晴天を見る。いつのまにか雲ができていた。

「素敵な名前ね」

「そんなことないよ」

「いいえ。初めて聞いた名前。素敵な名前よ」

「……学校の同級生に、一人や二人ぐらいいるだろ?」

「……学校には女の子しかいないの。同い年の男の人の友達はあなたが初めてよ」

 ジョンの頭の中の血液が沸騰しそうになる。頭痛は消えたが、なにかこう、春の日照りのような暖かさが血液を沸騰させようとする。同じ教室の女の子には感じない不思議な感覚。

「まだ友達じゃないよ。それで、シャーロットは僕に何のようなの?」

「あなたはこれから遊園地に行くのでしょ?盗み聞きが行儀が悪いのは知ってるけど、つい耳に入ってしまって」

「……一人で行けばいいんじゃないかな」

「初めてなの。興味はあるけれど、少し怖いわ」

「なら君の……フランクリンさんは君のお父さん?」

「ええ、そうよ」

「フランクリンさんに連れってもらえば」

「今はあなたのお父様と談笑にふけているわ。此の所、忙しそうにしていて家族の前ではあまり笑わないのに」

 シャーロットの言っていることに、ジョンは違和感を覚える。山脈のように背は高いが、物腰は偉そうに高くはない。むしろ低いぐらいだ。商売相手ではない年下の自分を対等の相手のように接していた。

「あぁ勘違いしないで。吸血男爵のように冷え切っているわけじゃないわ。夏の休暇で行くバカンスなら心底楽しそうにしているし、別に私やお母様に八つ当たりするような人ではないの。ただ、忙しいの今は。事業の拡大と言って東に西、北や南、汽車に乗ってあちこち行って帰ってきてもすぐに出てしまうし。だけど今日は少し暇があるの。趣味の紅茶を淹れるぐらいに。邪魔したくないわ」

「君って、父親思いなんだね」

「あなたもそうよ。扉の隙間から見えたあなたの顔、退屈の色すら出さなかった。私には無理よ。すぐに顔に出てしまうの」

「そんなことはないよ」

 ジョンは急に恥ずかしくなった。人に褒められのには慣れていない。教室にやってくる先生はいつも不機嫌そうに顎を突き出している。ジョンは先生を相手にすると、何も言わない石のように固まる。他の生徒は必死に懸命に、我先と手を挙げて答えようとするが、ジョンの腕はフラフラと、机の下で円を描くだけだ。答えはわかっていても答える気にはなれない。顎を突き出した先生は何を言っても「ふんふん」と小さくうねるだけなのだから。

「あぁ、シャーロット。行くなら早く行こう。時間は限られているんだ」

 褒められて幾分か気持ちが良くなった。もう彼女を自分からどう遠ざけようか?という思考回路は彼の頭にはない。

「そうね。そうした方がいいわね」

 彼女はジョンを通り過ぎて、遊園地に行く。

 なんだよ。よくわかんないけど、こーゆ時は手とか繋ぐんじゃないのか。コミックスの嘘つきめ。

 自室の本棚に無造作に並べられたコミックスに悪態をつきながら、ジョンは歩き出す。

 野原を駆ける馬ではなく、悠々と散歩する羊たちのように。




 4

ジョンとシャーロットは問題なく遊園地に入った。自分と同い年ぐらいの男女がどこを見渡してもいる。だけど、二人の顔を見て声をあげたり、駆け寄って甘いチューニングガムはいかが!というものは誰もいない。ジョンはこの街に住んでいない。自分の住む村の友人も今日はここを訪れていない。シャーロットの気高い友人はここを訪れることはない。何人か思うものはいるだろうが、それを教えてくれる親しい友人は彼女にはいなかった。

「まぁすごい人ね」

「毎回、こんな感じだよ。見知らぬ誰かさんばかり」

「あら?友達がいないの?」

「ここにはね。でも今は、君がいるじゃないか」

「そうね。エスコートしてくださる?」

 彼女はか細い白い手をジョンに差し出す。

「えぇお嬢様。ご案内しますよ」

 カーラジオから流れ出る、メロドラマの役者の真似声をして、わざとらしく手を大振りして、彼女の手を握る。

 母とは違う皺のない手。氷のように冷たく、日の光を知らない白い肌。

 不思議なもんだ。同じ人間なのにどうしてこうも違うんだ?僕の見ている世界ってなんなんだろうか?幻?それとも彼女が幻?あぁよくわかんないよ、父さん。僕はどうしちまったんだ?散歩前のウッドのように気持ちが昂るよ!

「君、綺麗だね」

「何よ急に?」

 シャーロットは顔を顰める。お互いに色を知らない。ジョンがシャーロットに芽生えた感情を彼女はわからないし、ジョンもまた、なぜそのようなことを口走ったのかもわからない。カーラジオやコミックス、劇場や映画の物語を二人は知ってはいるが、経験はない。

「でも嬉しいわ。よくわからないけど」

 シャーロットは顔を顰めるのをやめた。よくわからないものはよくわからないが、悪い気持ちはしない。

「喜んでもらえて何よりだよ」

 ひまわりのようにはにかんで笑う彼女にジョンは気をよくした。コミックスに描かれたように手を繋ぎ、活気に溢れた人混みの中を歩いていく。

「ここに入ろうよ」

 青いテントの中に入った。一つのゲーム機がある。大きなスクリーン画面があり、そこにはゲームのタイトルが赤い文字で表示されている。二つの赤と青のおもちゃの銃が並んでいる。

「これを握って」

 ジョンは赤を持ち、青を彼女に渡す。

「銃なんて怖いわ」

「大丈夫だよ。これはおもちゃ。弾なんかでないよ」

 引き金を引いてみるジョン。カチャカチャと乾いた音が出るだけで、弾の火薬に火がつくことはない。

「それじゃ、これで何を?」

「まぁ見ててよ」

 二人分のコインを投入して、スクリーン画面に向かって引き金を引く。スピーカーからけたたましい呻き声が飛び出して、スクリーン画面には血まみれ怪物が複数現れる。

「きゃー!何よこれ!?」

「ゾンビを倒すゲームだよ。知らないのかい君?」

「ゾンビ!?あの黒魔術で蘇る奴隷のことかしら!?」

「多分それとは違うけど、似たようなもんだよ。さぁ銃を構えるんだ。自分の身は自分で守らないと」

「ちょっと待ってよ!どうすればいいのよ!」

 慌ただしく、怯えて竦めて、銃を抱える彼女を見てジョンは声を出して笑う。

「もうなんなのよ!やってやるわよ!!」

 ジョンに赤い頬を見せた後、彼女はおもちゃの銃をぎごちなく、だけど勇ましく構えてゾンビを撃ち殺す。赤い頬に小さな川を作りながら。

「このこのこの!!」

 スクリーン画面にゾンビの山ができていく。ステージが進み、狼男やマミー、ムカデなど怪物たちが現れるたびに、彼女は悲鳴をあげて泣き叫んだ。引き金を弾きながら。

「ひどいわこんなの!」

 ゲームが終わり、テントの外に出ると、シャーロットは眼を腫らしながらジョンに詰め寄った。

「上手だったよ」

 気品な様子なのに、駄々をこねる子供みたいでジョンは笑ってしまいそうになるが、そうなれば山の噴火よりも恐ろしいことが起きそうな気がして、唇の内側を噛み締めて笑いを殺して答える。

「えぇそうですよ。あなたが先に倒れてしまうから私一人で頑張ったのよ!」

「説明しなかったのは悪かったよ。でも説明したら君はしなかっただろ?それじゃ勿体無いじゃないか。世の中、本を読むこと以外にも楽しいことはたくさんあるんだし」

「……」

「ごめん睨まないで。そうだアイスを食べようよ。もちろん僕の奢りだ。だから機嫌を直してよ。君の綺麗な顔が台無しだよ」

 僕は何を言ってるんだろ?脳の留め具が緩んだのか?嫌だな。ローレン先生の診察、長くて退屈なんだよな。

 考えずにスラスラと、何かが滑り止めの役割をせず、キザな言葉が出てくる。そう言った人間に憧れを抱いたことはない。偉大に思う父親はどちらかといえば寡黙だ。多くは喋らない、けど季節の移り変わりを知らせる森のように。

 ジョンは不思議に思う。

「チョコレートがいいわ」

「奇遇だね。僕もそれがいいと思ったんだ」

 並んで手を繋ぎ、彼らは人混みをまた掻き分けて、アイスの販売所を探す。すぐに見つかった。アイスの販売所には真っ白な顔で、真っ赤な縮れ髪をしたピエロが風船片手に突っ立ていた。二人は迷うことなく、その場所へ。ピエロが気づいた。手を振った。二人も振り返す。

「いやーお坊ちゃんにお嬢さん、よくきてくれましたね〜」

 間延びした声。どこら揶揄った声。だけど不快ではない。その声色は、目に見えないがすれ違う人々を笑わそうとする暖かみがある。ジョンはお坊ちゃん呼びにカチンとはこなかった。ピエロの仕事をここで邪魔するわけにはいかない。彼がジョンの仕事を邪魔したことがないように。

「お味はどれがいいですかな?」

「チョコレートを二つ」

 アイス二つ分のコインをジョンはピエロに渡す。ピエロは見えない動きでサッとコインを懐に隠すと、器用にアイスが入ったクーラーボックスを開けて、チョコレートを二つ、カップ二つに移す。そこにプラスチックのスプーンが二つが落ちないように添えられている。

「さぁさぁどうぞ。チョコレートでございます。良い遊びを」

 ジョンはシャーロットの手を離し、チョコレートのアイスを受け取る。

「ありがとう」

「そう言うならまたきてくださいな……おや、別のお坊ちゃんお嬢さんが来たようで」

 ピエロは愛想よく笑い、新しい客の相手をする。

「どうぞシャーロット」

「ありがとう……」

 シャーロットは一口食べる。

 彼女の不機嫌そうな様子は見る間に消え失せてしまう。

 ジョンは笑った。もう隠す必要もない。噛み締めた唇にチョコレートが沁みたが、甘味と彼女の笑顔の前で些細でつまらないことだった。

 チョコレートを食べ終えて、彼らは遊園地を回る。お化け屋敷には彼女が断固と「それ以上言えば、私はこの崖から飛び降りる!!」という姿勢を崩さなかったので入らなかった。風船割やメリーゴーランド、回るカップの中で身を寄せて。そして、夢の終わりがやってくる。

「素敵な時間だったわ」

 観覧車の頂上付近。街を見下ろせる高さで、彼女は感慨深そうにそう言った。胸の前、ジョンが風船割の景品として得た熊のぬいぐるみを抱いて。つぶらな瞳の熊だ。野生にいる、人が銃を持たなければ立ち向かうことすらできない獣の瞳には程遠い。

「本当に素敵な時間だったわ。家族と行く旅行よりも」

「それは、大げさなんじゃないかな」

「いいえ。大げさなもんですか。誰がなんと言おうと私はそう思うわ……ジョン。無理を言ってごめんなさい」

「いいよ。もう気にしてない。僕も素敵な時間だったよ。君と出会えたのは」

「また会えるかしら?」

「僕の父さんが、チーズを廃業にしない限りはね。そうなっても、お金を稼いで君のお店に行くよ。その時は一緒にディナーでもどうかな?」

「ええ、喜んで。とびっきりおめかしするわ」

 彼女は笑顔で答える。

 熊のぬいぐるみと変わらない瞳。

 ジョンは突然。それが愛しく思えた。

 僕の近くにいて欲しい。毎日学校で話をしたい。隣の席に座ってさ。そうすれば、退屈な授業も少しはやる気が出せるのに。あぁそうだよ。そうなるに決まってる。

 そして、ひどく悲しく思えた。

 チーズの配達が続く限りは彼女に会えるだろ。だけど、それは長い人生の中でほんの一時に過ぎない。やがて大人になり、チーズ作り以外の職に就いた頃には、彼女はどこか遠く、自分の知らない社交界にいるだろ。ジョンのことを忘れて、どこかの見知らぬ男と愛を囁き合う。

 ジョンにはそうなることが薄々とわかっていた。

 陽が沈んで行く。

 彼の心は夜の帷に包まれる。

「ねぇ、ジョン」

 沈みゆく夕陽を見ながら、彼女はお願いをする。

「私の名前を呼んで」

「君の名前はシャーロット……シャーロットだよ」





 5

陽が沈み、街灯が街を照らす中、ジョンはトラックに乗って村へ戻る。父は上機嫌に、カーラジオから流れるイギリスバンドのロックに鼻歌を合わせる。放浪者の歌に。

 ジョンは窓越しに外を見る。

 ビール片手に踊り狂う人々。

 身を寄せ合い、その人々から見られないように歩く人。

 自分にはなんら関係のない人が街中で生きている。

「シャーロット……君の名前はシャーロット」

 また会える。

 チーズを運べば彼女に。

 いつか、別れの時が二人を別つまで。

 残酷的で、どうしようもなく愛しい。

「シャーロット」

「どうかしたのか?ジョン?」

「ううん。なんでもないんだ父さん」

 街中を抜けた。

 村に続く道でトラックが揺れる。

 ジョンは呟き続けた。

 彼女のことが、忘却の彼岸に行かないように。

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望まない忘れ物 sora @soraironisomate

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