第3話

「ちょっと待ってくださいよぉ。『命』要らないんですかぁ? 七菊様に信じて欲しくて、僕、頑張ったのにぃ」


 七菊の背後から聴こえてきた声は、絶命した筈の少女の声だった。七菊が振り返ると、其処にはかすり傷ひとつついていないビスクドールみたいな美少女が立っていた。彼女が浸かっていた血の海も消え失せ、七菊の顔に付着した血飛沫も消えていた。この出来事が悪夢か幻覚でなければ、消去法で残るはひとつ。現実だ。七菊が自らの手で傷付けた傷がヒリヒリと痛み始めた。


「あなた、いったい、何者なの? わたくしの頭がまだ正常なら、あなたは確かに、わたくしの目の前で死んだ筈。一度絶命した人間が生き返るなんて……嗚呼! 信じられないわ! あなたはわたくしを助けるために現れた救世主なの? それとも私を誑かしに現れた悪魔なの?」


 九賀野財閥は、『九賀野製薬くがのせいやく』『二葉総合病院ふたばそうごうびょういん』『九賀野研究所くがのけんきゅうじょ』など、千時丸帝国せんじまるていこくに於いて、医療業界を牽引する大財閥だ。九賀野財閥の設立者である九賀野 筑紫くがの つくし氏自身が研究者であったことから、九賀野家に生まれし者の殆ど全員が医療関連の研究者や技術者として活躍している。七菊が例外ではないことは言うまでもない。故に、七菊は、死者が生き返るなどという非現実的なことを受け入れることができない。しかし、実際、非現実的なことが七菊の目の前で起こってしまったのだから、信じる以外の選択肢はない。


「これで、信じていただけましたか?」

 少女は微笑んだ。


「信じたくないけれど、信じる以外のわたくしの選択肢はないのでしょうね。あなたが時を巻き戻すことができるという特殊能力を持っているのなら話は別ですが」


 七菊は、自分の口から“時を巻き戻す”などという非現実的な言葉が発せられたことに驚きを隠すことができなかった。仮に少女がそのような特殊能力の使い手であったとして、七菊の脚の傷だけが消えないのは不可思議なことだ。


「へぇー。ちょっと驚きました。七菊様のような立派な医学研究者が、オカルティストの存在を肯定するような発言をするなんて! 七菊様は、小説家としての才能も持ち合わせていらっしゃるのかもしれませんね」


 少女が自分を観察する目の方が余程研究者のようだ。それも、相当狂った研究者の類だ、と七菊は思った。


「あまり、大人を揶揄うもんじゃないわよ、お嬢ちゃん。九賀野の家柄を知っているのであれば尚の事、わたくしに対する態度には気を付けなさいな」

 と居丈高に言うと、少女は、

「これは、これは、大変失礼いたしました。七菊様のご気分を害してしまい申し訳ありません」

と、然程反省していない薄っぺらい謝罪を済ませた後で、

「ところで、七菊様、『命』買っていただけますか?」

 と訊いてきたので、七菊は、

「……いくら欲しいの? 幸い、お金には不自由していないから、あなたの言い値に買うわよ。遠慮せず仰いなさいな」

 と言った。すると少女は、

「七菊様、僕が欲しいのはお金じゃないんです」

 と答えた。欲しいもの殆どすべてを金と権力とで手中に収めてきた七菊は少女が欲しているものが何なのか皆目見当がつかなかった。

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