マヌちゃんとのくらし

貘餌さら

第一話 ぬいぐるみが喋った

 風邪を引いた。大学生になると同時に実家を出て上京し、一人暮らしを始めたばかりの時分にである。昨晩の新入生歓迎会で薄着のまま外を歩いたのが祟ったのだろうか。

 自炊の仕方も碌に覚えておらず、生活を回すのに必死で過ごしていた私の家には残念ながら「風邪を引いた人が必要をとするもの」が一切揃っていない。家にあるのは炊かれていない米と水。熱の上がり始めだからだろうが、頭痛と寒気がする。だが本格的に動けなくなる前に、買い物に行かなければ。

 倦怠感のある体を引きずって無理矢理起こす。よっこらせ、と年寄りくさく声を上げて立ち上がる。くらくらと目眩がして、白く冷たいざらざらとした壁に寄りかかる。ああ、もう無理……。


「だいじょうぶ?」

「は?」


 一人暮らしだと、先程説明した通り、私は今、ここに、一人なのだ。誰が私に大丈夫?などと声をかけるものか。目眩のついでに幻聴まで聴こえてくるなんて、いよいよどうかしている。


「ねえねえ、あぶないよ。ねたほうがいいよ」


 お優しい幻聴さんはそう言うが、私は生命維持のために、食糧を調達しに行かねばならないのだ。どうか邪魔しないでくれ。

 よたよたと壁づたいに歩き始めると、今度はパンツの裾をちょいちょいと引っ張られる感覚がする。ええい、一体何なのだ!


「えっ」

「おそと、いくのやめたら?」


 私の右足の後ろには、いつもベッドサイドの窓が定位置の、猫のぬいぐるみ。上から眺めても、まんまるでふわふわでかわいい……。じゃない。私、本当にどうかしちゃったのかな。熱に浮かされて一人芝居でもしてるのかしらと疑わずにはいられない。


「ねえねえ、きいてる?」


 ぽふ、とぬいぐるみ特有の短い足が、私の冷たい足先を踏みつけにする。しっぽをふりふり上下に動かすそれは、電池式だったっけ。


「え、マヌちゃん……?」

「まま〜」


 私はぬいぐるみに名前をつける。この子の名前はマヌちゃん。本名、いや学名はマヌルネコで、響きがかわいいからと「マヌちゃん」と名付けたの、だが。

 ちょい、と頬の毛に人差し指を当ててみると、すりすりと擦り寄ってくる。ぬいぐるみにはない筈のリアルな温度。私が風邪っぴきで、体が冷えているからそう感じてる?

 ひょい、とぬいぐるみの前足の下を両手で持って持ち上げると「や〜」とジタバタ短い手足が動く。かわいい。かわいいんだけど。


「マヌちゃん、ぬいぐるみでしょ……?」

「……ぬいぐるみじゃないもん」


 むすぅと表情を変えたマヌちゃんは、確かにぬいぐるみには見えない。デフォルメ化されたマヌルネコが生きてるって感じ……?


「とにかくねてて」


 今度は尻尾でてしてしと腹を叩かれる。痛くも痒くもないのだが、やっぱりどうかしてるとしか思えない。いや、動いたらさぞかわいいだろうなぁと愛でてきた自覚はある。猫缶の形をした付箋を買って「マヌちゃんのご飯だよ〜」とあげてみたりしていたけれども。

 だめだ、普段からそうやって一人が寂しいからってマヌちゃんに頼って生きているから、こんな時にこんな幻覚を見るのだ。気のせい気のせい、と首を振ってマヌちゃんをベッドへ連れてゆく。お布団の間に入れて、とんとんするとゴロゴロ喉を鳴らす音が聞こえて……って、やっぱり空耳でも幻聴でもない気がする。


「もう!なんでしんじてくれないの!」


 ふんす、と鼻息荒くお喋りしているのは、確かに妄想していた通りにかわいいが、でも、だって……。


「いいもん。まぬがおかいものしてくるもん」


 ベッド脇に座り込んだ私をよそに、マヌちゃんが身軽にぴょんとベッドから飛び降りて、玄関の方へ行ってしまう。ああ、だめだめ、汚いよ……。頭痛で気が遠くなるのを感じながら、私は文字通り、気絶した。

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