第13話
遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえた。すごく安心する声色は、だんだん小さくなっていく。
その反対の方向から、重い身体を強引に引っ張られている感覚がした。されるがまま目を覚ますと、真っ白な天井と、泣きそうな顔の母が目に飛び込んできた。
「……お、かあさん……?」
「美織!? ああ、よかった……! 目を覚ましたのね!」
周りを見渡せば病院の病室のようで、母の手を借りながら上体を起こした。
視界の端に見えた指先には、高校生の自分にはなかったピンク系のネイルが施されており、黒髪からこげ茶色に変わっていた。五年後の姿に戻っている。
茫然としていると、母がカーディガンを私の肩にかけながら言う。
「覚えてない? あなた、朝一で帰ってきたけど、駅に着いた途端に倒れるんだもの。びっくりしちゃったわ! お医者様の話だと、ストレスと疲労が溜まっていたんじゃないかっていうけど、ちゃんと寝ているの?」
「え……?」
ベッドサイドに置かれたデジタル時計に目をやると、訃報をもらった翌日の昼間だった。駅に到着したときはすぐに母の車に飛び乗ったはずだ。
むしろ病院に行ってひとりで帰るときに車に……?
困惑する中、ふと右の手のひらが何か握っていることに気付く。母曰く、ずっと握って離さなかったそうだ。開くとそこには赤いスタッドピアスが一つ、ころんと転がった。裕の左耳に付けたものの片割れだ。五年前に戻ったときに握らされたのは覚えているけど、本当にタイムリープしていたってこと?
夢じゃなかった――だとしたら?
「そうだ……裕は? どこにいるの?」
「裕は、同じ階のフロアの個室にいるわ。五年も行方をくらませていたけど、昨日、公園のベンチで眠っているところを警察の人が見つけてくれてね、意識は取り戻したけど、合併症を引き起こしているみたいで、肺炎で苦しんでいるわ。それに記憶もほとんど覚えていないから、誰が来たかもわかっていないみたい。晶子おばさんの顔も忘れてしまったみたい。それよりも深刻なのは合併症のほう……正直、もう時間がないって」
母は時折言葉を詰まらせながら、裕が見つかった経緯も教えてくれた。所々私が知っている未来とは異なっている。
「……危篤って言った?」
「そうよ。だから美織も戻ってきたんでしょう?」
「裕は……まだ、生きてる?」
「……さっきから、美織の名前を、呼んでいるの」
未来が、変わった。
私はずっと握っていたピアスを自分の右耳に付けると、母の制止を聞かずに病室を飛び出した。自分の病室が同じフロアで良かった。周囲の人の目を気にする間もなく、裕のいる病室へ足を速める。
裕が生きていると知って、心臓が今にも張り裂けそうだ。
会いたい。
一目でもいい、裕に会いたい。
名前を忘れていても、いくらだって伝えるから。
声を忘れたなら、何度だって話しかけるから。
顔を忘れてしまったら、もう一度「初めまして」から始めるから。
ずっと言えなかったこの想いを、どうか――
「裕!」
病室のドアを開くと、晶子おばさんが担当医師に寄り添われていた。すでにぐしゃぐしゃの顔でも笑っているのは、最後まで笑顔でいたかったからだろう。
「美織ちゃん……」
「おばさん、裕は……?」
切らした息を整えながら問うと、晶子おばさんは私を彼の前に連れられた。
五年前よりも大人びた顔つきに白い肌。虚ろな目がこちらに向けられる。口が小さく動くか、声は発していないようだ。
ただ一つ違うのは、私の目の前にいるのは今、必死に生きようとしている裕だ。
「裕、来るのが遅くなってごめん」
「…………」
裕は私を見るなり、小さく首を傾げた。きっと彼の記憶に私はいない。忘れられてしまっていても構わないと、少しでも聞き取れるように屈んで裕に近付く。
「私、椎野美織って言います。裕の幼馴染。五年ぶりだね」
聞き取れているのかわからないけど、できるだけはっきりと、ゆっくりと言葉にしていく。
「高校のとき、ずっと避けてしまってごめん。裕が病気のことで悩んでいたの、気付けなくてごめん。……いなくなったとき、見つけてあげられなくてごめん……っ!」
今の君はもう覚えていないかもしれない。これは私のエゴであり我儘で、君に押し付ける形になってしまうけど、どうか届いてほしい。
すると、裕は震える右手をゆっくりと伸ばして、私の顔にかかった髪をはらうと目を細めた。
「み、おり」
「……え?」
裕の手が赤いスタッドピアスをなぞると、小さく微笑んだ。
「思った通り……よく、似合う」
うっすらと笑みを浮かべた裕を見て、頭の中に映像が流れ込んできた。ピアスホールを空けたあの夜の公園で、裕が言った同じ言葉。
そして、今の彼には同じピアスが左耳についている。
――いつか、明日が来ない日を迎えても、俺は最期の一瞬まで生きるよ。また美織に会うために。
裕は忘れていなかった。五年間、姿をくらましている間でも忘れずにいてくれた。
そしてずっと、待っていてくれたんだ。私がここに来ることを、最期のこの一瞬まで。
「俺も病気のことを、言い出せなくて……ごめん。言ったら、また離れてしまうかなって……こわかった、から」
「裕……」
「でも、戻ってこられて、よかった。最期にまた……美織に会えた」
途切れながらの言葉に、私はただ首を横に振るだけだった。泣いちゃダメだと思うたびに、涙をこぼさないように震える右手を両手でしっかり握ると、弱いながらも握り返してくれる。
すでに目がゆっくりと閉じ始めている。
ああ、本当にこれでお別れなんだ。
「裕、待っていてくれて、ありがとう……っ!」
死なないでとか、もっと生きて欲しいとか。言いたいことはたくさんあるんだけど、私ができるのは彼を見送ることだけというのも、十分わかっている。
だからその分、私は最後まで笑っていよう。
君が安心して眠れるように。私が明日も生きていくために。
裕は察したのか、小さく息を吐いて目を細める。心なしか、笑っているように見えた。
「また……会おう」
「うん……っ、またね。裕」
その日、安斎裕は静かに息を引き取った。
この世に未練なんてないと言いたげに清々しくて、優しい顔だった。
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