第9話

 その後、裕は晶子おばさんに病気について正直に打ち明けた。


 晶子おばさんは話を聞いて、すべて受け止めてくれた。むしろ「なんでこんな大事なことをさっさと言わなかったの!?」としっかり怒られたらしい。自業自得だ。ちょうど、ゴミ箱に病院の明細書が紛れていたのを見つけて、今日にも問い詰めるつもりだったそうだ。私が元いた頃ではそんな話は一つも挙がっていないから、裕が病気を明かしたことがきっかけで未来が少し変わったのかもしれない。


 今後は高校、大学ともに事情を伝えたうえで、通院には晶子おばさんも同伴するといった、徹底的なサポートを受けていくことになったという。血は繋がっていなくとも、成人しても子どもは子どもだと言われて、裕は一生頭が上がらないと泣きながら笑っていたらしい。

 少しだけでも未来が変わったのなら嬉しいが、これがすべて、私の都合のいい夢で終わるなら杞憂に終わってしまうかもしれない。そう思うと少しばかり胸の奥がつんと痛んだ。


 入試直前まで一緒に勉強して、時々息抜きして。本当に大丈夫なのかと思うほど気の抜けた時間が過ぎていった。裕は勉強でも部活でも、追い込めば追い込まれるほど、実力を発揮できないらしい。確かにプレッシャーのかかった言葉を誰かに言われた翌日は、いつも顔が真っ青だった気がする。


 そして入試当日。粉雪の舞う寒い朝だった。

 いつものように家を出ようとすると、裕が家の前で立っていた。冬の寒さで鼻を真っ赤にして小刻みに震えている姿を見て、思わず駆け寄った。


「裕? なんでここに?」

「今日は送ってもらうから。それより、美織に頼みたいことがあるんだ」


 なんだろうと首を傾げると、裕は私の手のひらに赤いスタッドピアスを置いた。シンプルながらもシックなデザインがとてもかっこいい。


「今日受ける入試の合否発表、卒業式当日なんだよ。だから全部終わるまで、それ預かっておいてくれない?」

「いいけど……ピアスホール、空けるの?」

「そう。新しい明日を迎えられるようにって、空けたいんだ」


 そう言って手をぎゅっと握った裕は、清々しく朗らかな表情をしていた。

 両親を亡くした頃、「明日なんて来なければいい」とずっと訴えていた彼が、前を向いてくれているのだと思うと、胸がじんわりと温かく感じる。

 それと同時に、ピアスホールを空けて先生に呼び出されていた川瀬さんの姿が浮かぶ。

 このピアスは一緒に買ったの? なんて聞けなくて。


「わかった、預かっておくね。その代わり、私が空けてもいい?」

「最初からそのつもり。頼んだ」


 こんな貪欲に思っていることに気付いていない裕は、笑って頷いてくれた。



 裕を見送ってから学校に行くと、なぜか川瀬さんが私のクラスの教室に入ってきた。

 別のクラスなんだからそっちに行けばいいのにと思いつつ視線を逸らそうとすると、川瀬さんはいつかのようにまっすぐ私のほうへやってくる。


「おはよう、椎野さん。私のクラスの教室、二年生が使っているからこっちきたんだけどいいよね?」

「ど、どうぞ……」


 決定権、私にないのでお構いなく……と喉まで出かかったところで、川瀬さんが問答無用で私の隣の席に座った。

 私以外誰もいないのだから、もっと広々と使ってくれていいんだよ?


「ねぇ、真面目に勉強するのもいいんだけどさ、ちょっと話そうよ」

「話すって……川瀬さん、受験は終わったの?」

「ああ、私は就職組だから。とっくに内定もらっていて、卒業した後に本格的に始まるの」


 そう言ってにっこりと笑みを浮かべる。以前は本当に接点がなくて会釈すらした覚えがないのに、どうしてここまでまとわりつかれるのか、不思議で仕方がない。


「そんなことより、裕のことなんだけど」


 ああ、またこの話か。思わず顔を背けると、川瀬さんが正面に回り込んできた。


「私、裕に振られたの」

「……え?」


 思わずバッと顔を上げると、川瀬さんと目があった。心なしか、目元が赤い。


「振られたって、いつ……?」

「アンタに裕の物忘れが激しくなっていることを伝えた翌日。ここで話したら、なんて言われたと思う?」


 わからない、と首を横に振れば、川瀬さんは大きな溜息をついた。


「『ごめん、誰だっけ?』だって。わかってはいたんだけどさ、その後に『大切な人がいる』って怒涛の追い込み。本当、裕って女心がわかってないよねぇー」

「…………」


 川瀬さんが受けた仕打ちに言葉を失う。記憶の一部が無くなって、川瀬さんのことを覚えていないことは一度置いておくにしても、初対面の相手と認知して真っ向からフラグをへし折るなんて加減を知らなすぎる。


 そういえば、昔から女の子に告白されても興味ないっていう理由で片っ端から振っていたっけ。そう考えたら、記憶うんぬんの話ではなく、裕ならやりかねないと納得してしまった。


「その大切な人って誰って聞いたら、やっぱり椎野さんのことだった。でもね、告白はしないって言うのよ」

「え?」

「これでもめちゃくちゃ薦めたのよ? でもしないの一点張り。せっかく私がお膳立てしてあげているのにさぁ」

「…………」

「それで? ここまで聞いておいて、椎野さんもしないって言わないよね?」

「……しないよ」


 五年後に裕がいなくなることを知っている私に、告白なんてできるわけがない。


 病気であることを打ち明けてくれたことで、少しだけ未来が変わった今があるが、裕の病気は着々と進行している。これは同伴した晶子おばさんが担当医師から聞いた診察結果だ。

 だからどれだけ私が裕に関わったところで、できることは限られている。


 一日でも、一秒でも長く生きてくれるだけでいい。それだけでいいから。


「私は、自分の好きな生き方をする裕が好きだから。だから言わない」


 最期の日を迎えたあとも、この想いは蓋をすると決めた。その決意は変わらない。

 川瀬さんはむっとした顔で睨んだ。


「アンタたち、本当にむかつくくらいお似合いね」

「でしょう? 嘘をつくのはお互い得意なの」


 嘘をつくのも、現実から目を逸らすのも、今の私ができる精一杯。


 皮肉にそう言うと、川瀬さんは呆れたように溜息をついたあと、どこかすっきりした顔で笑った。

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