第8話

 幼い頃によく遊んだ公園にやってくると、近くにあったベンチに座る。近くには桜の木があり、まだ雪の降る寒い時期だというのに、ちらほらと芽が出ている。


 五年後、裕はこのベンチで雪に埋まった状態で見つかることになる。だから少し気が引けたが、今話しておかないと裕がどこかに行ってしまいそうな気がした。


 裕は鞄から一冊のノートを取り出してざっと目を通すと、躊躇いながらも話してくれた。


「記憶が抜けていることに気付いたのは、三年に進級してから。最初は前の日の夕飯とか、明日提出する課題を忘れる程度だったけど、次第にチーム内で決めたハンドサインも、クラスメイトの名前さえも忘れるようになった」


 さすがに記憶力の低下が極端すぎると思い病院を受診したところ、原因不明の記憶障害だという。


「今日は病院で診察を受けていたんだ。その後に学校に行こうとしていたんだけど、最寄り駅に降りた途端、急に何をしていたか忘れた。慌ててノートを開いたけど、思い出すのに時間がかかって結局近くのカフェに入って勉強してた。我ながらメモ魔で良かったと思う」


 そう言って見せてくれたノートは、一日のスケジュールが事細かに書き込まれていた。時間、場所、何をするのか。急に記憶が抜け落ちてもいいように作り上げた、いわば安斎裕の取り扱い説明書だ。すでにノートの端はぼろぼろで、セロハンテープで補強している。


「ずっと書き溜めていたの? 記憶が抜けている状況で、勉強していたってこと?」


 私の問いかけに小さく頷く。

 裕は昔から教師になりたがっていた。亡くなった両親が小学校の教師だったから、自分も同じ職について、両親が見ていた世界を知りたいんだって、胸を張って宣言していた。

 だから近々受ける大学はもちろん教育学部だ。いくら勉強しても記憶がごっそり抜け落ちてわからないものばかリなら、受かる確率は低いかもしれない。


「……このこと、おばさんには?」

「言ってない。ただでさえ両親が死んだ後、俺が成人するまで面倒見てもらっているのに、もっと気を使わせてしまうのが目に見える。……でもそろそろ時間の問題だな。忘れる頻度が増えてきているし、隠しきれない」

「もしかして、卒業したら家を出ようとか、思ってないよね……?」

「ははっ、そこまでわかってんの?」


 苦い笑みを浮かべながら裕は続けた。


「そうだよ、こっそり家を出ようと思ってた。最低限のものだけを持って、知らない場所に行こうと思ってた。無計画だと思うけど、ちょこちょこバイトしていたのもあって収入源の確保も目途がついているんだ。ひとりだけなら十分生活できる。……もうさ、おばさんにはこれ以上苦労かけたくないんだよ」

「そんな……」

「それだけじゃない。いつか俺はおばさんも美織のことも忘れる日がくる。大切なものを忘れたまま、死に場所を探そうと思っていたんだ。……ごめんな、美織にも言わずに行くつもりだった」


 申し訳なさそうに笑う裕に、私は言葉を失った。

 高校卒業して五年間も姿を消していた理由が、病気の発症だった。責任感の強い彼のことだ、晶子おばさんに迷惑をかけないために、成人したタイミングを今か今かと待ち望んでいたのだろう。


 もし法律によって制定された成人年齢が二十歳のままだったら、彼は誰かに助けを求められただろうか。


 すると裕はベンチから立ち上がると、私の前にきて屈んだ。俯いた私を覗き込むようにして言う。


「美織に話そうか、正直迷っていたんだ。一番気にかけてくれていたのはお前だったから。でもきっと本当のことを話したら、ずっと気に掛けるだろ? せっかく県外の学校に受かったのに、お前の足を引っ張ることだけはしたくなかった」

「それはっ!」

「『別の話』、だろ?」


 言いかけた言葉を遮って、裕は「わかるよ」泣きそうな顔で笑った。


「お前は、優しい奴だから」


 すべて見透かされていた。『あのとき、こうしていれば』と考えていたことを、すべて。

 裕は続けた。


「俺さ、小さい頃に美織に言われたことを今でも思い出すんだ」

「え?」

「両親が死んだことを受け止めきれなかった俺は、明日が来ることが怖かった。できることならこのまま眠ってしまって、自分も二人のところに行けたらってずっと思ってた。だから『明日なんて来なければいい』って、本音が零れたことがあってさ。美織は俺がこぼした言葉の意味なんてわからなかったと思うんだけど、『明日が来ないと、明日の裕と遊べないから嫌だ』って言ってくれたんだ」

「……あっ」


 つい最近見た夢を思い出す。あのとき私は彼になんて答えたのか曖昧だったけど、ようやくはっきりと思い出した。

 明日、学校に向かう通学路で裕に会えない。教室に入っても裕の姿がない。こうやって遊べない――そんな毎日は、つまらないなって思ったから。


「何気ない一言だったと思う。それでも俺は、いつか明日が来なくなった世界でも、美織に会いたいと思った。……それくらい大切だから、明日お前を忘れるくらいなら、もう姿を見ないほうがいいと思った。逃げたかったんだ、自分の最期に」

「……ばかでしょ」


 私は、裕がいない世界から来たんだよ。


 五年後にはここにいないことを、知っているんだよ。


 引き留められるのならなんだってする。だから――


「そうやって強がるの、もう辞めて」


 覗き込むようにして前にしゃがみ込む裕の顔を、私は冷え切った両手で頬を挟み込むようにして触れた。


 冷たい風に吹かれているのに、肌を掠めるだけでもひりひりして痛いだろうに。

 こんなにも、温かい。


「美織……?」


 五年後に再会した彼の頬が、氷みたいに冷たかったことを思い出す。真っ白な肌で、清々しい表情で眠っている姿が今でも目に浮かぶ。未来を知っているからこそ酷なのだ。


「迷惑いっぱいかけていいから、周りに心配させていいから、黙って遠くに行かないで。私は明日も明後日も、五年後もずっと、裕に会いたい……っ!」


 好きだから。――そう言いかけた途端、私は裕に優しく抱きしめられた。


「裕……?」

「……ずるいなぁ、美織は。そんなことを言われたら、俺はどこにも逃げられねぇじゃん」


 言えないよ。

 裕が五年後にこの公園で人生を終えるんだって。


 少しでも未来を変えたい一心で言葉を選んだところで、裕に響かないと意味がない。


 名前を忘れたなら、いくらだって伝えるよ。

 声を忘れたなら、何度だって話しかけるよ。

 顔を忘れたなら、もう一度「初めまして」から始めよう。


 だから明日も一緒に生きていてほしいって、溢れてしまうほど詰め込んだこのどうしようもない想いを、どうやったら裕に伝わってくれるだろうか。


「去年の桜、あんまり覚えていないんだ」


 肩越しで裕が呟く。朧気な記憶を思い出そうとするには相当時間がかかるらしい。

 なら、上書きしていくしかないじゃないか。


「だったら、今年の桜を覚えていようよ」

「……そうだな」


 小さく震えた背中に手をまわす。

 どうか彼が明日も生きてくれますようにと、願うように力を込めた。

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