第7話
その日の夜。母から回覧板と大量に作った筑前煮が詰まったタッパーを渡された。裕の家へお裾分けらしい。半ば強引に押し付けられたが、いつものことだ。それこそ上京してからは数える程度しか帰省していなかったから、少しばかり懐かしく思う。
適当にかかっていたジャンバーを羽織って、家を出た。
裕の家までは歩いて五分もかからない。通い慣れた道を歩き、到着すると、引き戸を数回叩く。昔ながらの木造建築ということもあって、ドアベルがないこの家は、引き戸を叩いて声を上げるしかできない。いつもならゆっくりと出てくるはずが、今日は奥からバタバタと足音をたてて、引き戸が勢いよく開かれた。
曇った表情で出てきたのは、裕の叔母にあたる晶子おばさんだ。
「あっ……美織ちゃん……?」
「こんばんは。回覧板とおかずのお裾分けを持ってきたんですけど……」
「ああ……わざわざありがとうね」
「……どうかしたんですか? 顔色、悪いですよ?」
持ってきたものを手渡すと、晶子おばさんは視線を逸らして、躊躇いながら口を開いた。
「裕が……まだ帰ってきていないのよ。今日も学校で勉強するって言って出て行ったんだけど、それから連絡がつかなくて。電車の遅延情報もないし、スマホは圏外みたいだし……充電が切れているだけだといいんだけど……」
――嫌な予感がした。
今日は学校でいたけど、裕の姿は見ていない。だから川瀬さんから聞いたあの話も、まだ確かめられていないのだ。
もし本当だとしたら――そう思うと、いてもたってもいられなくて、私は裕の家を飛び出した。
彼がまっすぐ家に向かっているとしたら、駅から家までの道のりで鉢合わせできるはずだ。雪は降っていないものの、今朝舞った粉雪が日中の日差しで溶け、夕方にぐっと下がった気温で凍ってしまった路面に足をとられないよう、しっかり地面を踏みしめつつ、速足で駅のほうへ向かう。
すると、向こうから見慣れた背格好の人物が歩いてくるのが見えた。
制服姿の裕だった。
「裕……っ!」
「……美織? なんでここに?」
「こっちの台詞! どこほっつき歩いていたの!?」
「どこって……学校から帰ってきただけだけど」
あっけらかんと答える。慌てて捜し回っていた自分がばからしく思ってしまう。
「学校って、ずっとそこにいたの? まっすぐ帰ってきたにしては遅くない?」
「いや、夢中になっていたから……」
裕は歯切れが悪そうに呟くと、「帰るか」と私の肩に手を伸ばした。
ふと、裕の左手に目が留まった。ボールペンで書き込んでいたものが擦れてしまったのか、真っ黒なインクが伸びている。街路灯の灯りだけではぼんやりとしか見えないけど、あまりにも伸びている範囲が広い。
よく見ようと、彼の手を掴んで、読めるところまで顔を近づけた。そこには、微かに「学校」と書かれた部分がかき消されており、その下には「連絡」「帰る」と言葉が並んでいる。
まるで、道順を忘れないようにメモしているみたいだった。
私が手メモを見ていることに気付いたのか、強引に振り払った。
「寒いだろ。早く帰ろう」
何事もなかったように問う裕に、私は昼間、川瀬さんから聞いた話を思い出す。きっと、私が問いただそうとしても、彼は素直に答えてくれないだろう。
「ねぇ、今日はどこで勉強していたの?」
「急になんだよ?」
「いいから!」
直接彼に問うたところで、きっと誤魔化されてしまう。だから少しだけ、意地悪をしてみる。もし以前と変わらない彼であるならば、きっと今日のことを戸惑うことなく話せるだろう。
しかし裕は、隠した左手をちらりと目で見やって、苦笑いする。そうして躊躇いがちに口を開いた。
「いつもの教室だよ。同じ大学を受けるクラスメイトと一緒に……」
「今日、私は教室にいたけど、川瀬さん以外誰もこなかったよ」
「かわせ……? 誰だっけ」
私の顔を見て、裕はしまった、と視線を逸らした。
「……えっと、悪い。俺の知っている人?」
「裕、もう一度聞くね? ……今日はどこにいたの?」
「それは……あ、あれ?」
頭を抱えながら、困惑した表情でこちらを見る裕。
ああ、やっぱり彼女の言っていたことは本当だったんだ。
今まで私が気付かなかったのは、自分の想いを自覚して、顔を合わせづらくなってしまったから。距離を置いて、言葉を交わすことすら拒否したから。
――これ以上、逃げちゃダメだ。
「ちょっと話そうか」
私はポケットからスマホを取り出して晶子おばさんに裕が見つかったこと、少し借りることを伝えると、電話越しから安堵した声が聞こえてきた。
通話を終えて顔を上げると、裕は諦めたように笑った。
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