第10話 愛人と逢引部屋
温い空気に乗って彼女の付けた香水が部屋全体に広がる。
三つの破かれた避妊具の袋と、何かを包んだティッシュがベッドの端に転がっていた。
「来栖くん」
「あ?」
「来栖くん!」
気付いたら窓の外は暗くなっていた。
ベッドで横になり休んでいた夜斗の頬を、雨奈はむすっとした表情でつまむ。
「やりすぎ!」
「何がだよ」
「やりすぎなの! 途中、意識飛んじゃうかと思った!」
雨奈は転がって夜斗の上に移動すると顔を近付ける。
微かに汗ばんだ全身は熱く、何の服も着ていない彼女の双丘は夜斗の胸板に押し付けられ潰れていた。
「お前がもっとしてって言ったんだろ」
「言った! ……けど。だけど、ここまで凄いとは思ってなかったの!」
「凄いって何がだ?」
「そ、それは……言わない! 絶対に言わないから!」
一度体を重ねたことによって雨奈の夜斗への接し方が変わった。
今まではどことなく壁があったように感じていたが、今ではその壁が消え、一切の遠慮がなくなった。
会話もそうだが、ボディタッチもそうだ。
ひと時も離れまいと体のどこかをくっ付け、猫のように顔を夜斗の首や胸をくすぐってくる。
「来栖くんってさ、絶対に女性慣れしてるでしょ」
「お前ほどじゃないな」
「絶対に嘘!」
「じゃあお前、経験人数何人だよ」
「え、あ……やっぱいい! 過去のことはお互い言わない! ねっ、これからが大事だから!」
「お前から言い出したんだろ」
「いいからいいから」
「なんだそれ」
「でも、今までで一番、来栖くんとのえっちが気持ち良かったよ?」
甘えるような声で言うが、夜斗には効かない。
「って、いつも言ってんのか?」
「もう、違うってば!」
「まあ、お前の過去に興味ねえよ。っと、もうこんな時間か」
スマホを確認すると19時になっていた。
ベッドから立ち上がり制服を着始める。
「え、なんで。帰っちゃうの……?」
「ああ」
「来栖くん一人暮らしだよね? も、もし良かったら、泊まっていってもいいよ? お母さん、今日も帰ってこないから」
「いや、今日は帰る」
別に門限はないが、優枝に連絡していないので彼女がご飯を作って待っているかもしれない。
今までも帰りが遅いとご飯を作り、待っていたことがあった。
いや、正確には夜斗を待っていて食べなかったではなく、食事を後回しにして趣味に没頭するからだ。
「そう、なんだ……」
さっきまで明るかった雨奈の声が急に暗くなる。
その声は制服を着た夜斗の背中にくっ付き、彼女の手が離さないと言わんばかりに掴む。
「どうした?」
振り返ると、雨奈は慌てて手を離してぶんぶんと首を振る。
「ご、ごめん、なんでもない。えっとじゃあ、来栖くんが良かったら、その、また家に遊びに来てほしいな」
「家に?」
「うん。わたし、もっと来栖くんと一緒にいたい。さっき、今までで一番気持ち良かったって言ったけど、それだけじゃないの。来栖くんと繋がってたとき……なんて言ったらいいんだろ、初めて幸せだなって思えたの」
「大袈裟な奴だな」
「大袈裟かもだけど、本当だから。だからその……」
背中を掴んだ両手が微かに震えていた。
「ああ、いいぞ」
「ほんと?」
振り返ると、雨奈はなぜか涙目だった。
「なんで泣いてんだよ」
「え、あれ、なんでだろ……わかんないや」
「なんだそれ。まあ、いつも暇で時間だけはくそあるからな。お菓子食べる感覚で遊びに来てやるよ」
「ほんと!? 良かった……。じゃあ、お菓子作って待ってる!」
「いや、それは別に冗談で」
「ううん、お菓子作り得意だから! 今度来てくれたときにお菓子とご飯も作って待ってる! あとあと」
舞い上がっている自分に気付いたのか、雨奈は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい。わたし、重いよね……」
「体重か?」
「ううん、違う」
「まあ、別にいいんじゃねえのか。女に献身的にされて嫌な男はいないだろ」
「来栖くんは! 来栖くんは、嫌いじゃない?」
「ああ、俺も嫌いではないな」
「良かった。でも、重かったら言ってね。頑張って直すから」
とは言うが、おそらく流されやすいのと同じで直せないんだろうなと思った。
「じゃあ、連絡先交換しよっ!」
「ああ」
「やった。いっぱい連絡する。授業中もする!」
「それは止めろ」
「えへへ。でも、学校で話しかけたら来栖くんに迷惑かけちゃうから、これで連絡するね」
いくつものイルカのアクセサリーを付けたスマホを振る雨奈。
その献身的すぎる反応を見て、夜斗は呆れながら言う。
「なんかお前、愛人みたいだな」
「え、愛人? わたし、そんな風に見える?」
「ああ」
「愛人、愛人か……。なんかいいね」
「愛人って呼ばれて喜ぶのお前ぐらいだぞ」
「そうかな? なんかわたしにぴったりかなって。じゃあ、この家は既婚者の来栖くんと愛人のわたしが逢引する隠れ家だね」
玄関まで見送られながら言われた。
夜斗のカバンを持ち「はい」と渡す雨奈。
「また出張でこの辺り寄ったら遊びに来てね。もちろん、奥さんには内緒にするから」
「なに役になりきってんだよ」
「えへへ。じゃあまたね、来栖くん……ちゅ」
頬にキスをされ家を出る。
さっきまで暑いぐらいだったのに6月の夜は少し肌寒い。
「ん?」
雨奈の家を出て数歩しか経っていないのに彼女から連絡が届く。
『今日はありがと、気を付けて帰ってね。あと、さっき言いそびれちゃったけど、みんなの前では呼ばないから、二人の時とメッセージでだけ来栖くんのこと下の名前で呼んでいい?』
呼び方なんてどうでもいいので、短く『ああ』と返すと、雨奈からは文面だけでも喜びが伝わってくるほどの返事が届く。
それからもメッセージのやり取りは続いた。
とはいっても夜斗の返事は『ああ』とか『そうだな』といった短い言葉ばかりだ。それでも雨奈は文句も言わず、次々と話題を出し、やり取りが続いていった。
「こいつ、メッセージだと余計にテンション高えな」
こんな退屈な相手とのやり取りをしていてもつまらないだろ、と思うが向こうはそうでもないらしい。
──まあ、俺なんかとのメッセージで寂しさを紛らわせるなら付き合ってやるか。
最初こそ相槌だった夜斗のメッセージも、少しずつ文字数が増えて行った。
そんなやり取りをしていると、移動時間もいつもより短く感じた。
「ただいま、って……電気ぐらい付けれよ」
家に帰ると、なぜか部屋が真っ暗だった。
タブレットの画面の光に反射した優枝は、こちらを向くことなく言う。
「……珍しいのね、あなたがこんな時間まで出掛けるなんて」
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