聞き分けがない幸子に対し、姫花はカウンターの上を右の拳で思い切り叩いた。その音に、場が一瞬静まり返る。姫花は真剣な表情で幸子に告げた。

「私の店潰したいの?いくらユウちゃんの頼みでも、そのつもりならさっさと出てって」

威圧を感じた幸子は目を丸くした。

「はい・・。すみません・・。もう言いません・・・」

勢いに飲まれた幸子は、思わず謝ってしまう。

「なにか飲みたいなら、お酒以外にしてね。お金はいらないから。わかった?」

姫花が微笑むと、幸子は黙ってうなずいた。姫花は静寂に包まれた店内を、満面の笑顔で盛り返そうとする。

「ごめんなさいね。そうだ。お詫びに皆さんに私から一杯おごってあげる」

その言葉で、店内は再び活気を取り戻した。先ほどとは打って変わり、優しい表情になった姫花は幸子に言った。

「幸子さんには特性のフルーツジュース用意してあげる。ちょっと待ってて」


 翌日、捜査本部の辰巳のもとに、柏木がやってきて報告を始めた。その捜査本部は、杉村と鎌田の死亡に関連があると見て、コンビニ爆破事件のあとも捜査を継続していた。

「辰巳さん、駿河結介が釈放されるそうです」

「はあ?なんでや?」

辰巳には信じられない一報だった。

「駿河の弁護士が不服を申し立てて、それが受理されたとのことです」

「弁護士だあ?あいつ、いつ弁護士に相談したんや?」

駿河が留置されてからは、誰一人接見には来ていないはずだ。辰巳に疑念が生じる。

「あと、彼が犯人でないと証言した者もおりまして」

「誰やねん?」

「その方なんですが・・・」

柏木がヒソヒソと辰巳に耳打ちした。それを聞いた辰巳は気が動転した。

「マジか!?」

「マジです」

「でもわからん。なんでや・・・?」

辰巳は首を傾げた。


 身支度を整えた駿河が留置場を出ると、待合室にスーツ姿のふたりの男女が立っていた。

男は弁護士の蔵前和彦かずひこ、五十五歳。撫で上げた白髪を七三に分け、温和な顔にブロー眼鏡をかけている。女は司法書士の桐谷詩織きりたにしおり、三十三歳。黒いミディアムヘアをストレートに伸ばし、凛々しい目をした美人であった。

「蔵前さん。それに詩織も。え?なんで?」

突然知人がふたりも登場したことで、駿河は戸惑った。


 蔵前は駿河が探偵社にいた頃、そこの顧問弁護士をしていた。駿河に独立を勧めたのも蔵前だ。その後、駿河が独立してからは度々、自身の調査の仕事を駿河に委託していた。駿河にとっては食い扶持ぶちを与えてもらっていると言っても過言ではないだろう。


 一方、詩織は駿河とは幼なじみであり、前述した五十嵐の一件で、不審者に連れ去られそうになった女の子その人である。駿河とは仕事の関係で再会し、それからは友達以上恋人未満という微妙な関係を保っている。駿河も詩織もお互い恋心を抱いているが、どちらもあと一歩のところまで踏み出せないでいるのだ。


 蔵前が面食らう駿河に経緯を説明する。

「昨日、神坂さんから連絡がありましてね。すぐに留置を取り消すよう、手続きを行いました。なにぶん時間がなかったものですから、桐谷君には書類作成の業務を手伝ってもらいました」

やつれた駿河を見て、詩織が心配そうに声をかける。

「ユウ君、大丈夫だった?自白の強要なんかされてない?」

「ないない。俺は大丈夫。協力してくれてありがとね」

「それは私じゃなくて、蔵前先生に言って。頑張ってくれたのは蔵前先生のほうなんだから」

首を振った蔵前は否定の意を示す。

「私に感謝は不要です。感謝すべきはあの方々ですよ」

蔵前が指した先には、加藤と篠塚がいた。加藤は腕にギプスを付け、篠塚は松葉づえをついている。蔵前は語を継いだ。

「彼らの証言がなければ、これほど早く釈放できなかったでしょう」

加藤と篠塚が歩み寄って来ると、駿河は呟いた。

「幸子さんが言ってた警察・・・」

蔵前がその点を補足する。

「警察は警察でも皇宮こうぐう警察。おふたりはその護衛官です」

「えっ!?皇宮警察ってたしか、天皇に仕えてる警察ですよね?」

「おっしゃるとおり」

駿河の前に立った加藤と篠塚は、それぞれ警察手帳をかざした。

「護衛部護衛第二課、加藤です」

「同じく、篠塚です」

駿河の頭が混乱をきたす。

「ちょっと待ってください。なんで皇宮警察が幸子さんを?」

「それは・・・」

蔵前が説き起こそうとするのを、加藤が片手で制した。

「私がお話しします。幸子さまは我々の護衛対象だからです」

「幸子、さま?」

怪訝な顔の駿河に向かって、加藤は明言した。

「あのお方は琴樋宮ことひのみや家のご息女、琴樋宮幸子さまです」

駿河は一瞬、腰が抜けそうになった。

「琴樋宮っていったら、皇族じゃないですか!?」

だから幸子は自分の素性を明らかにしようとしなかったのか。やはり「サトウ」と名乗っていたのは嘘だった。これで納得がいった。と同時に、ふと疑問が浮かぶ。

「あれ?でも、あそこって娘さんいましたっけ?メディアで見たことなかったような・・・」

その点については篠塚が明かした。

「幸子さまは近年、おおやけの場にお姿をお見せになっておられません。おそらくですが、もし大衆にお顔が知れれば、家出をした際にすぐ見つかってしまうのを恐れたのでしょう」

「じゃあ林さんは?あの人も護衛官なんですか?」

「いえ。彼女は皇室の職員で、琴樋宮ご一家の侍女じじょ、要するにお世話役です。幸子さまが家出をされ、七節町にいることがわかった際、林さんがそちらの蔵前さんに相談しようと提案したのです。蔵前さんには業務委託をしている探偵、つまり駿河さんがおり、あなたに依頼してはどうかと。もちろん実情は伏せたままで。失礼ながら、我々としては全く期待していませんでした。しかし、あなたはその日のうちに幸子さまを見つけ出した。正直驚きましたよ」

「いや。あれはほとんど俺の力じゃないんですけどねえ」

駿河は頭を掻いたが、そこでもうひとつ、脳内で疑問が湧いた。

「あのー、そもそも警察なら、俺なんか使う必要なかったんじゃないんですか?」

問うた駿河に、加藤が答える。

「我々には捜査部門がありません。それに警視庁の上層部は、幸子さまのお顔を存じています。対象に家出されたから捜索に協力してくれなどとは、口が裂けても言えません。我々の恥をさらす結果になってしまいます。ですので、秘密裏に捜索するしかなかったのです。たとえ探偵の手を使ってでも。ご両親であらせられるご夫妻さまからは、あとになって「強制的な手段は使わぬように」と仰せつかっていたものですから、護衛も兼ねて幸子さまの周りを見張り、ご一家のもとへお連れ戻しするチャンスを伺っていたのです」

「なるほど・・・」

表情の深刻さがさらに増した加藤は、駿河に訊いた。

「幸子さまは今、どこにおられるのですか?」

「あるお店に匿ってもらっています」

「その店の場所を教えてください。我々でお迎えに上がります」

駿河は自分を示して返答した。

「それ、俺に任せてもらえませんか?多分、ふたりを見たら幸子さん逃げちゃうと思うんですよ。家に帰るの相当嫌がってましたから。ですんで俺が説得します。彼女がその気になったら連絡しますんで。お願いします」

加藤と篠塚は顔を見合わせた。やがて、加藤が駿河に言った。

「一日だけ待ちます。それでも説得が出来ないようでしたら、こちらの意に反しますが、強硬手段を取らざるを得ません。ご夫妻さまも幸子さまの身を案じておられますので」

「わかりました」

駿河は静かにうなずいた。その駿河の背中に詩織が触れる。

「私、車で来たから。送ってく」


 詩織の車に乗った駿河がガールズバーへ向かっているとき、捜査本部の辰巳は疑念が拭えないでいた。

「なんで皇宮警察なんや。わけわからん」

そこへ柏木が駆け寄ってきた。

「辰巳さん、鎌田のスマホを調べたら、例のフィアーのアプリが見つかりました」

「なんやと!?あいつも連中の一味やったっちゅうことか?」

「そのようですね」

「末延いうんもフィアーやった・・。内部分裂でも起こしとんのか・・?どうなっとんねん・・。こりゃもう一度、吉沢に話訊いてみるか」

辰巳は再度取り調べを行おうと動き出した。


 詩織の車がガールズバーに到着した。後ろを振り向いた駿河は、店先に自分の車が駐車されているのを確認すると、礼を述べた。

「ありがとう。俺は自分ので帰るから」

駿河がその車を親指で指した。視線を向けた詩織は目が点になる。

「え!?あれで帰るの!?」

廃車にしか見えない駿河の車を眺め、詩織は驚きの声を上げた。

「エンジンもかかってたし、タイヤもパンクしてないようだから、なんとか動くでしょ」

「いや、私が事務所まで送る。最初からそのつもりだったし。あの車はレッカー手配して運んでもらいましょう」

「それじゃお金かかっちゃうじゃん。いいよ。あのままで」

駿河は内心懸念していた。自分は今、命を狙われている。いつまた襲撃に遭うかもしれない。詩織をその巻き添えにしたくなかったのだ。だから敢えて、本当のことは黙っている。

「詩織は蔵前さんとこに戻っていいよ」

シートベルトを外した駿河は車から降りようとした。すると、詩織が呼び止めた。

「待って」

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