辻野がさらにもう一発、駿河の腹を殴った。抵抗できない駿河は苦痛でむせてしまう。

「守秘義務だ?ふざけてんじゃねえぞ」

うつむいている駿河の顔を覗き込み、辻野は語を継いで訊く。

「駿河。お前、組長オヤジがほかの女と付き合ってること、あねさんにチクったろ?」

質問する辻野に対し、駿河は口をつぐむ。

「また守秘義務ってやつか?ああ?」

辻野は拳を握り、今度は駿河の頬に右フックを打ち込む。駿河の口の中が切れ、血が出てきた。

「そのパンチやめてくれよ・・。めっちゃ痛えから・・・」

弱々しい言葉を吐く駿河の胸ぐらを辻野が摑む。

「だったら答えろ」

すごむ辻野に観念したのか、駿河は話した。

「俺はあんたらの姐さんから依頼を受けただけ。悪いのは組長さんのほうだろ。あんな美人な奥さんいんのに不倫してたんだからさあ」

駿河が開き直った。辻野は眉をしかめて睨みつける。

「お前のせいでなあ、俺がどんだけどやされたか、お前知らねえだろうが!」

「あんただって知ってて黙ってたんだろ?自業自得じゃねえかよ」

「んだとコラッ!」

辻野が駿河の顔めがけてパンチを繰り出そうとした瞬間、駿河は血が混ざった唾を辻野の顔に吐きかけた。その唾が辻野の眼に当たる。辻野が一瞬怯んだ隙に、駿河は辻野の腹を思い切り蹴り上げた。内臓が飛び出るほどの打撃を与えられた辻野は、腹を押さえて後ずさる。取り押さえていた組員ふたりが、その光景に動揺して力が抜けた間隙かんげきを突き、駿河は拘束を振り解いた。それから先は瞬く間に事態は動いた。拳を縦にした駿河は、俊敏な動作でふたりの組員を叩きのめしたのだ。駿河は実際のところ、かなり強かったのである。


 駿河は「詠春拳えいしゅんけん」と呼ばれる中国武術を会得していた。道場に通っていたわけではない。小学校に入学したときから高校を卒業するまでの十二年間、五十嵐いがらしという男に弟子入りし、マンツーマンで個人的に習っていたのだ。きっかけは小学一年生の頃、不審者の男に連れ去られようとしていた同級生の女の子を助けようとしたが、大人相手に非力な子どもが立ち向かっても、打ち負かされるのがオチだった。そんなときに五十嵐が現れ、ナイフを持った不審者を片手一本でねじ伏せた。不審者は警察に逮捕され、同級生も傷ひとつつかずに無事だった。その姿に感銘を受けた駿河は、五十嵐に技を伝授してもらえるよう、子供ながらに懇願した。当初は難色を示していた五十嵐だったが、駿河の「強くなりたい」という気概を汲み取り、この武術を一から教えた。五十嵐の「この拳は自分や人を守るため、救うために使え」という言葉は今も忘れてはいない。のちにわかったことだが、五十嵐は日本人と中国人のハーフで、中国名はリー・チャンロン。中華圏では有名な武術家であり、かつて、香港で暗躍していた犯罪組織を素手で壊滅に追い込んだことがあるという伝説の男だった。五十嵐は現在、香港で暮らしているようだが、なにをしているかまではわからない。


 反撃に出た駿河は、辻野の側頭部に鋭い蹴りを入れる。辻野は横倒れになり、気を失ってしまった。そのとき、拍手をする音が聞こえた。いったい誰だ。駿河が見ると、サングラスをかけた男が立っていた。ツーブロックの黒い短髪に端正な顔立ち、黒いTシャツの上にこげ茶色の革ジャンを羽織り、色落ちしたグレーのジーンズと黒いマウンテンブーツを身に着けている。男がサングラスを外す。駿河はその男に見覚えがあった。

「あれ?修二しゅうじ?」

駿河が訊くと、男は微笑んだ。

「やっぱ結介だったか。久しぶりだな」


 男は弓永ゆみなが修二、三十三歳。駿河とは小中と同級生であり、友人のひとりでもあった。中学校を卒業と同時に海外へと引っ越して、それきり全く音沙汰がなかったのに、まさかこんなところで再会するとは思いもよらなかった。十年以上も経っているので、さすがに顔つきは多少変わってはいるが、面影は残ったままだ。


 駿河が見つめるなか、弓永は辻野に歩み寄り、しゃがみ込むと言った。

「なんかピンチみたいだったからさあ、手助けしようかなんて思ってたんだけど、その必要なかったみたいだな」

辻野の身体を指で突っつきながら、弓永が駿河に訊く。

「お前、こんなに強かったっけ?」

五十嵐のもとで武術の鍛錬を積んでいたことは誰にも話していない。当然ながら、弓永も知らなかった。

「まあ・・、仕事柄、こうなっちゃったのかな・・・」

駿河は適当にごまかした。経緯を話すと長くなるからだ。今はそれどころではない。

「こいつら、どうすんの?通報すんの?」

弓永が辻野らを指差した。

「いや、寝かせとく」

駿河は語を継ぎ、断りを入れる。

「修二ごめん。俺、その仕事の最中でさ。すぐに戻んなきゃいけないんだよね」

ダウンしたヤクザたちを放ったまま、慌てた様子で歩き出す駿河に、弓永がついていく。そして問いかけた。

「仕事って、結介なにしてんの?」

「探偵」

駿河の発言に弓永が驚く。

「探偵!?お前が探偵?うわあ、似合わねえ」

「うっせえな。修二こそ、なんの仕事してんだよ?」

「えっーと・・。そうだな・・。日雇い労働者みたいなことしてる。世界中周りながらな。稼ぎは国によってまちまちだけど、なんとかやってるよ」

「相変わらずぶらぶらしてんだな。中学のときもそうだった。授業サボりまくってたし」

弓永が笑って返す。

「結介が真面目過ぎんだよ」

「そこまで真面目じゃねえって。先生に怒られたくなかっただけだよ。で、日本に帰ってきたのは仕事?それともプライベートか?」

「仕事のほう。それが終わったら、次はいつ帰国できるかわからない。こう見えて忙しいんだよ。俺は」

「なにビジネスマンみたいなこと言ってんだ」

バックルームのドアを開けようとした駿河に、弓永が右手を差し出した。どうやら握手を求めているらしい。駿河は弓永の手を凝視した。

「また会えて嬉しかった」

弓永が言葉を贈ると、駿河はその手を摑んだ。

「珍しいな。修二が握手なんて。初めてなんじゃないの?」

「海外生活が長かったせいかな。いつの間にか習慣になっちゃったんだよ」

「なるほどね。じゃ」

駿河はドアを開けて、探偵の仕事に戻っていった。


 先ほどから希が呼んでいる。

―結介、大丈夫?ねえ、応答してよ。

「悪い。ちょっと立て込んでた。幸子さんまだいる?」

駿河はヘッドセットで返事をし、二階からダンスフロアを見た。幸子の姿がないか捜す。

―GPSだとまだそこにいる。てか、なんかあったの?

「辻野がいたんだよ。ほら、あの松久組の」

―なんであいつがいんの?

「このクラブ、あいつらがケツ持ちしてる店みたい」

―ヤクザってまだそんなことしてんだ。

「やっぱりそう思うよねえ」

ダンスフロアに幸子はいない。出て行っていないとすると、別のどこかだ。少し移動して奥のほうに目を遣ると、バーカウンターに幸子らしき背中が見える。駿河は急いで階段を下りた。


 バーカウンターにいたのは、やはり幸子だった。踊り疲れたのだろうか、カウンターの上で頬杖をついている。駿河は視界に入る程度に離れた席に腰掛けた。そこへ、クラブの従業員が声をかける。

「ご注文は?」

「ウーロン茶」


 幸子は琥珀色のカクテルを飲んでいた。普段から酒をほとんど飲まない駿河でも、それが酒だとはひと目でわかった。十九歳の未成年だというのに、酔っている様子もない。これは頻繁に飲んでいるなと思った駿河は、そこで気づいた。依頼人に一報を入れなければ。スマートフォンを取り出し、幸子の姿をこっそりと撮影した。そして、画面を何度かタップすると耳に当てた。


 電話口に由樹が出ると、駿河は早速報告をした。

「駿河です。夜分遅くにすみません。先ほど娘さんが見つかりました」

―えっ!?もう見つかったんですか!?

「ええ。林さんがいろいろと情報を提供してくださったおかげです。写真を送りましたので確認してください」

―それで、娘はどこに?

「七節町五丁目にあるクラブです。それで、今後はどうしましょう?今日はもう遅いので無理でしょうけど、林さんが幸子さんをお迎えに上がられますか?」

―いえ。私はちょっと忙しいので、これから代わりの者に行かせます。

「わかりました。クラブの名前は≪セブンジャック≫です。また動きがあればご連絡します」

―よろしくお願いします。

「ちなみに、代わりの方というのは?」

―親戚です。

「そうですか。私は店内のバーカウンターにいます。服装は先ほどお会いしたときと同じですので、ご親戚の方にそうお伝えください」

―はい。わかりました。


 クラブの店先に黒塗りの車が停まっている。ずっと駿河を尾行していた車だ。その中には、スーツ姿の男ふたりが乗っていた。共に四十代前後といった印象で、黒い髪をオールバックに整え、硬い表情をしている。そのうちのひとりが、スマートフォンで女の報告を聞いていた。由樹の声だった。

―たった今、探偵から連絡がありました。写真も届いています。その店で間違いありません。

「わかった」

電話を切ると、男はもうひとりに言った。

「あの店で違いないそうだ。行くぞ」

ふたりの男は車を降りた。

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