約束のおまじない⑴
『アザレア』に来て数ヶ月もすれば、"人形を修復すること"にも慣れた。
人体実験については、大切な人の命を単なる消耗品として扱っていることについて軽蔑しつつも、自分には関係ないから目を背けた。
そして、この日も同じ。
人形を修復して、疲れたら眠るんだって、ただ漠然と考えていた。
キリノさんは近くに居なかった。任務に出ているか、それともジルさんとお話ししていたか──あるいは、喧嘩ばっかりのレオさんやリシュアさんの仲を保とうとしていたのか。……いいや、『アザレア』戦闘部総長のレオさんは、別に何もしていなかった。リシュアさんがいつもレオさんに噛み付いていた。きっと、レオさんとジルさんの仲がいいから嫉妬しているのだろう。
リシュアさんが医務室にくるときは、いつもレオさんの悪口ばかりで、一方レオさんは、そもそも医務室に来ない。『アザレア』で一番の強さだとキリノさんも褒めるほどで、その賞賛のとおり、ほとんど怪我をしないから医務室に用事がないのだ。だから、話をしたことも無い。
そんなことを漠然と考えながら、仕事で呼ばれるまでの間、適当に『アザレア』の迷路のような通路を探検した。
この扉を開ければ守り神のドラゴンが居るとか、そういう子供っぽいことを妄想しながら、扉を大袈裟に開けた。
が、もちろんドラゴンなんかいない。
魔物が『アザレア』の周りに出ただけでバタバタ騒ぎになるのに、建物の中に居るなんて事になったら、きっとジルさんは大慌てだろう。
いっつも笑わない冷静なジルさんが大慌て。
そんな妄想をしたら面白くて、「ぷくく」と一人で笑った。
「……キリノは、ジルが慌てているところを見たことがあるかな」
そんなふうに独り言を言っても、もちろん誰も答えない。シンとした部屋、よく見たらベッドも何もない。昨日死んでしまった人形じゃない職員の部屋だったが、1日も経たず私物は片付けられていた。よく私と話してくれた優しい人だった。それなのに──
「私、泣いていない……」
ここ『アザレア』で泣くことが許されないわけではない。
今の生活に慣れすぎて感情的になれず、涙を流すことをすっかり忘れていたのだ。
それを再認識して、ようやく涙が出る。でも、たった一粒だけ。最初の頃のようにワアワアと泣き叫ぶことができない。
ああ、なんと寂しい人間なのだろう──そう思って、私はその場にへたり込んだ。
するとそのとき、部屋の扉の向こうで、タッタッタという人の足音が聞こえてきた。足音だけで、その人の忙しさが伝わってくる。
もしかしたら、時間通りに医務室に来ないことに怒ってキリノさんが私を探しているのかもしれない。とはいえ、この時は本当にフリーで別に仕事を頼まれているというわけでは無かったけれど。
でも、なんとなく──どうせ気のせいだろうけど、怒られそうな予感がして。私は片付けられたこの部屋の隅まで、四つん這いのまま移動して、そのまま腰を落ち着けた。
バタン、と扉が開かれる。
こんな部屋に急いで入ってくるなんて、普通じゃあり得ない。普通の人ならこんなところに──死んだ人の後片付けが終わった部屋なんかに用事はないはず。ともすれば、私を探しているキリノさんが、『アザレア』中の部屋を開けて回っていたと考えるのが普通。
「……ああ、もうッ」
私の普通は、ハズレた。
部屋の扉が開かれたあと、殆ど転がるようにしてその人は入ってきた。
『アザレア』の職員の象徴たる黒いスーツ姿ではない、不思議な服を纏い羽織を肩に掛けた人。背の丈はキリノさんと同じか、もしかするとキリノさんよりも小さいくらい。わずかに吐き出された声音からは判別は難しかったけれど、おそらく男の人。
「まったく評判通りというか、それ以上だよあの人。ジルくんってば、僕がいない間にどこで拾ったきたんだろ」
「──とりあえず、このままだと出血が気になって能力使いづらいから、止血、止血、止血帯は……ん?」
一瞬、キリッとした鋭い赤目に睨まれた気がして、どきりとした。ジルさんの名前を話していたし、『アザレア』の建物の中に居るのだから『アザレア』の関係者だろうと思ったけど、見たことない人だった。
「ジルの、お友達?」
「き、君は、どうしてこんなところに……」
「私、マリア。君って名前じゃない。マリア」
「あ、ごめんなさい。……マリアさん、か。ええと、ジルくんとはついさっきまで友達だったかな。今はちょっと、喧嘩して殺されかけてるけど。……って、ちょっと待った待った!」
私はただの興味本位でその人に近づくと、彼は大きく手を振って、さらに言葉で私の歩みを制した。
「いいよ、大丈夫。すぐに出て行くから。どうせ君もジルくんのアレでしょう?『アザレア』に歯向かうなんてことは無謀だとはわかってたし、覚悟もできていたけれど、教職にあるものが君のような子供に殺されるわけには──うべっ!?」
彼の頬を叩く。
思い切りではない。ちょっと強めに触れる程度。
彼の言う"ジルくんのアレ"とは、人形のことだとすぐにわかったから、そうじゃないという意思を込めて。
ただ、彼にとっては、ちょっと強めとは感じられなかったらしい。きっと、私のような子供に、しかも初対面のくせで、いきなり頬に強く触れられるとは思って居なかったのだろう。結果、彼の頭の中では、"少女に叩かれた"とでも文章が出来上がったと思う。
それにもかかわらず、私は図々しく、頬を押さえて若干涙目になっている男の人の膝の上に座った。
「い、痛い。いろいろなところが痛いけど、特にほっぺたが痛い!?って、あ、あの?マリア、さん?何をして……」
「……他でもない、怪我人の治療のため。怪我人は安静にしていないとダメ」
彼の足には無数の切り傷があった。
特に右足は腱までぱっくり切れていて、よくここまで走ってこれたなあと感心する。きっとこの人もなにかの能力者で、あれこれ駆使してここまで来たのには違いない。
他にも右の二の腕に同じような切り傷、腹部に刺し傷、さらに髪の毛が変に真っ直ぐ切られていた。多分、目を庇ってギリギリで避けた。
たった数ヶ月だが、私も患者が受けている傷から戦いの状況を判断できるくらいにはなっていたようで、複雑だった。
普段、傷つくことを厭わない人形の治療をしているから、"そうじゃない人"の傷の状況を見て、戦いの様子を聞いたりするのが特別で、印象に残るのだ。
まずは腹部の刺し傷、次は無数の切り傷。
そして最後に右足の腱に触れた。一番酷い傷だった腱を最後にしたのは、治療した途端に走り去ってしまいそうだったから。
私が撫でるだけで傷が完治するとはいえ、すぐに動いていいと言うわけじゃない。貧血による怠さとかちょっとした不調があったりするから。
「……う、うッわぁ」
「こっちも、それとこっちも、安静にしていたから治りました。はい、これでおしまい」
赤い目をまん丸、お口をあんぐりして。
男の人は私の能力をみて驚いていた。普通の驚きだったら許せたのに、その時彼が見せた表情は、感心というより、未知のものに対する不快感だったと思う。
それだから、もう一回……その失礼さに対する怒りとして勢い強めで頬に触れた。
男の人が「痛ッ」と小さく言うのをよそに、私は彼の頬の上で手を滑らせてゆっくりと撫でた。
「よしよし。元気になってよかったね」
「……う、ああ、うん。ありがとう。ところで、君は──」
自分のことを"君"と呼ばれるのはあまり好きではない。持ち主がころころ変わっていた時期は、"天使"という売り文句だけで、名前を呼ばれることがなかった。
せっかく名前があるから、他人にはそう呼んでほしい。
わたしは売り物でも、人形でもない。
一つの命として両親に与えられた"マリア"という名前がある。
そう思って、私は私のことを"君"と呼んだ男の人の頬をもう一度勢い強めに触ろうとするふりをして見せた。
「ちょ!?ま、まったまった!僕、何か悪いこと……」
「……マリア。"君"じゃなくて、マリア」
「あ、あぁ……ごめんね。マリアさん」
「ん。そうだ。あなたの名前──」
自分ばかり名前を呼んでもらうのは不公平だと思った。だから、男の人の名前を聞こうと言いかけたその時、彼が背もたれにしていた扉がドンと激しい音を立てた。
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