次の日も、その次の日も。
少年は僕の帰路に現れ、僕の前から走り去って行く。
その度に僕は、言い知れぬ焦燥感を募らせていった。
そして次の日。
帰路に少年は現れなかった。
僕は少し落胆して家路を行く。
妻と娘の待つ家まで、あと一つの角まで来た時、突然少年が僕の前に飛び出して来た。
顔は伏せたままだ。
僕は驚いて、一瞬棒立ちになる。
すると少年はいきなり僕の腕を掴み、咬みついた。
鋭い痛みが走る。思わず腕に咬みついたその顔を見ると。
蛇だった。
無機質な蛇の目で僕を見上げた少年は、僕の腕から離れると、走り去って行った。
後に残された僕は、少年に咬まれた腕を見る。
そこにはくっきりと、2本の歯型が刻まれていた。
***
最近何となく気怠い。
そして、それ程気温が低くない日でも、妙に寒いと感じることが多い。
どうしてだろう?
もしかしたらあの日、蛇の顔をした少年に咬まれたからだろうか。
咬まれた痕は、もう消えてなくなっている。
だから疵のせいではないかも知れない。
あるいは咬まれた時に、毒でも流し込まれたのだろうか。
その割には、傷口が腫れたり化膿したりすることもなかった。
なのに、こんなに気怠くて寒いのは、どうしてだろう?
頭の中にいつも靄が掛かっているようで、このままでは家庭生活にも仕事にも支障が出るかも知れない。
いや、既に出始めている。
最近妻との間で、小さな諍いが絶えない。
職場でも上司や同僚から注意される回数が増えた。
多分僕が、皆の話をちゃんと聞いていないからだろう。
家に居ても、職場に居ても、何となくぼんやりしていることが多くなった。
そんな時は妻や上司や同僚の話が、耳を素通りして行く。
別に聞きたくない訳ではないのだが、内容が頭に入って来ないのだ。
困ったな。
どうしたらいいんだろう?
そう思う一方で、どうでもいいやという、投げやりな気分が沸き上がって来る。
その繰り返しだ。
僕はどうなっていくのだろう?
「あなた最近、本当におかしいわよ。一体どうしちゃったの?」
今朝も妻が僕に小言を言っているが、理由が思い出せない。
多分些細なことだとは思うが、ちょっと前の出来事なのに、まったく頭に思い浮かばない。
娘にミルクをあげながら、妻がまだ何事かぶつぶつと呟いているが、それもまったく耳に入って来ない。
僕はぼんやりした気分のまま、パックの牛乳を取り出すために冷蔵庫の扉を開けた。
卵だ。
僕は急にその卵が食べたくなり、手に取った。
少し赤みがかった大き目の卵だ。
とても美味しそうだ。
僕は思わずごくりと喉を鳴らし、卵を口に入れて飲み込んだ。
言い知れぬ満足感が沸き上がって来て、僕は恍惚としてしまった。
「きゃあ。ちょっとあなた、何してるの」
突然後ろから妻の悲鳴が聞こえる。
我に返った僕が振り向くと、妻が娘を抱いたまま、驚愕の表情で僕を見ていた。
どうしてそんなに驚いているんだろう?
僕が不思議に思っていると、妻が恐る恐る近づいて来る。
「あなた。本当に大丈夫?卵を殻のまま丸呑みするなんて、おかしいよ。もしかして…」
もしかして、何だというのだろう?
妻の言っている意味がよく分からなかった。
卵を飲み込むのが、そんなにおかしなことなのだろうか?
「一度、お医者さんに診てもらった方がいいんじゃないかな?」
医者?
どうして?
僕は、妻が何故そんなことを言うのか、とても不思議に思った。
そしてこれ以上話を続けるのが、急に億劫になってしまった。
「ごめん。ごめん。何かぼうっとしちゃって。卵を殻ごと吞むなんて変だよね。やっぱり」
僕が誤魔化すように言うと、妻は心配そうに僕を見つめる。
「口の中とか、喉とか大丈夫?切れていない?」
「ああ、何ともないよ。ごめん。ごめん。変なことしちゃったね。ぼうっとしてたみたい。そう言えば今日は早出の日だった。急いで支度しなくちゃ」
妻はまだ何か言いたそうだったが、僕はそそくさとダイニングを出て着替えを済ます。
そして妻から逃げ出すように家を出た。
会社に向かうバスの中でも、僕はずっと考え事をしていた。
卵、美味しかったな。
美味しい?
ちょっと違うな。
気持ち良かったんだ。
そうだ。吞み込んだ時に気持ち良かったんだ。
そうなんだ。
でも妻は、どうしてあんなに驚いてたんだろう?
卵を吞んだことがないんだろうか?
きっとないんだろうな。
そう言えば、最近蛙を食べてないな。
そう思ったら、急に蛙が食べたくなってきた。
無性に食べたくなってきた。
***
会社に行くと、すぐに上司に呼ばれた。
「杉浦君、最近すごく調子が悪そうだけど、大丈夫かね?」
朝から怒られると思っていたら、違っていた。
「今日ね、産業医の先生が来てるんだよ。僕がね、朝一で問診の予約を入れといたから、これから行ってきて」
「え、いや。別に医者に診せるようなことはないんですけど」
「そう言わないでさ。第一会議室で先生が待っていらっしゃるから、行ってきなさい」
最後は命令口調だったので、僕は従うことにした。
今朝の妻同様、それ以上話すのが億劫になったからだ。
会議室に入ると、少し瘦せ気味の男が会議机の上にパソコンを置いて座っていた。
「杉浦さんですね。どうぞお掛け下さい。産業医の玉田です」
僕が座ると、玉田は徐に問診を始める。
「杉浦さん、最近仕事中にぼんやりされていることが多いそうですが、何か悩み事がおありですか?些細なことでも構いませんので、気軽に仰って下さい。ここでの相談内容は、原則上司の方にも同僚の方にもお話しないことになっておりますので、ご安心下さい」
「はあ。そう言われましても、特に何もないんですけど…」
「ご家庭で何かあったとか、上司や同僚とトラブルがあったとか、何か思い当たることはありませんか?」
「はあ、特にないですね」
僕は玉田という医師と話すのが、段々面倒になって来た。
「そうですか。#“!?*#$%&*?>?*#$%」
そして途中から、玉田の話が、まったく頭に入って来なくなった。
「もしもし、杉浦さん。どうされました?」
そう言いながら、玉田が僕の顔を覗き込む。その声で僕は我に返った。
「あ、すみません。ちょっと、ぼうっとしてしまって」
「そういうことは、よくありますか?誰かと話している最中にぼうっとなってしまうようなことが」
「そう言われると、そんな気がします」
僕の答えに、玉田が深刻な表情を浮かべる。
「杉浦さん。つかぬことを伺いますが、この部屋に入って来られてから、一度も瞬きされていませんよね」
瞬き?
何だろう?
「実は杉浦さんの同僚の方からのお話で。あなたが仕事中ずっと瞬きせずに前を見つめて、ぼうっとされていることが多いそうなんですよ。自覚はありますか?」
「うーん。あまり考えたことがないですね」
玉田は更に深刻な表情で言った。
「申し訳ないですが、一度瞬きしていただけませんか?」
僕は、彼が何故そんなことを言うのか理解できなかったが、言われた通りに瞬きしてみた。
ちゃんとできる。
「ああ、出来ますね。ということは機能障害のようなものではないということか」
玉田はそう独り言ちた。
僕が瞬きしていないなんて、そんなことがあるんだろうか?
いや、待てよ。そう言えば最近、眠る時も瞼を閉じていないような気がする。
気のせいだろうか?
結局玉田は、一度専門医にかかるように言って面談を終えた。
職場に戻ると、上司が僕を手招きする。
「杉浦君。今日はもう帰っていいから、1週間くらい休みを取ったらどうだろう。人事には僕から言っておくから」
僕は上司の言っている意味が、よく分からなったが、反論するのも面倒になって、彼に従うことにした。
席に戻って帰り支度をしていると、周囲の同僚たちが、僕の方を恐々と盗み見ているのを感じた。
しかし、それもどうでもよかった。
帰りのバスの中でも、僕はずっと考えていた。
随分と長い間、蛙を食べてない。
蛙が食べたい。
無性に食べたい。
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