メンタルクリニック

 お昼から夕方少し前にかけて、ヤエとの逢瀬を楽しんだ後、駅の荷物を回収し、人込みに紛れるように電車へ向かう。


 東京都江戸川区平井。そこが東京での住処だった。 築五十年を超える古い木造アパート『コーポ ストリート』。 内装はリフォーム工事が入っているとはいえ、環境は少々悪い。 小さなアーケード商店街を基に作られたアパートは日当たりが悪く、小さなベランダにすら日の光が入らない。 日中だろうと部屋の明かりは必須。 そういう状況から湿気がこもりやすい。


 ただ、駅から離れているのもあって部屋の広さに比べて、かなり賃料は安い。 そんなコーポストリートの一階にアズマの部屋はある。 パソコンや机、ベッドと言った基本的な家具だけの生活感の無い部屋。近くのコンビニで買った弁当をアズマは食し、シャワーを浴び、タオルや着替えを洗濯。少しばかり掃除をし、ベッドで仮眠。


 二十一時という遅い時間に起床したアズマはのそりのそりと着替えを行う。ヤエと会う時よりはラフでありパーカーにジーンズである。歩きやすいスニーカーを履いて駅へ。 向かう先は錦糸町。そのラブホテル街だ。


『くまがいこころクリニック』


 錦糸町駅南口から徒歩五分。居酒屋やホテルの煌めくネオンの中に、そのクリニックはある。 比較的新しい雑居ビルの二階、院内処方ができるクリニックだ。 診療時間は深夜までやっており、完全予約制。 待合室には十人ほど入るスペースがあるがアズマは見たことが無い。 白や暖色を基調とした室内のテレビには世界の様々な絶景が延々と落ち着いたナレーションと共に映されている。


「こんばんは」


 いつも通りに診察券や保険証を受け付けにアズマは提出する。


「……こんばんは、いらっしゃい」


 医療従者とは思えない、ボサボサ頭の女性。 歳は二十代前半。 顔立ちは綺麗だが、目元のクマとぼんやりした目、髪の毛が全てを台無しにしている。 真っ白な制服が浮いているほどだ。


「こんばんは、今日も人は居ませんね」

「その為の予約制だ」

「そういうもんですかね?」

「そういう方針だよ」


 苦笑いをして、アズマは待合室のソファに座る。


「あれ?」


 その目線の先にはメタルラックに冊子やチラシが飾っている。 不登校、発達障害、心の相談先。 くまがいクリニックや区が行っている取り組みを紹介しているようだ。その中に真新しい冊子が一つ。


『幼児性幻想発育障害を知っていますか?』


 ゆっくりとその冊子をアズマは取った。


「黒板に白いチョークで点を描いた時に、何に見えますか?と問う。 大人は白い点とか、チョークだと言う。だが、幼児は違う。 てんとう虫の点だったり、太陽だったり、自由な発想をする」


「社会性、経験、様々な要素で、そういう発想は消えていく。 だが、稀にそれが残ったままの人がいる。 鬱などの精神状況でもなく、薬などの外的要因でもない」


「発育の段階で消えていく発想。 もはや幻想と言えるような世界を保持したまま年齢を重ね障害となっていく――――」



 ため息を吐いてアズマは冊子を戻した。 日本では東京錦糸町、大阪難波、北海道すすきの、この三か所でしかこの幼児性幻想発育障害を見れるクリニックは存在しない。二千年初めに発見されたこの障害は研究に研究が重ねられてはいるものの治療の確立されていない障害であった。


『硲 アズマ様 診察室へどうぞ』


 放送が鳴り響き、診察室へ入る。 診察室には優しそうな初老の男性、熊谷 総一郎くまがい そういちろうと助手の看護師が一人。 看護師はパソコンに向かい、患者と医師の会話を記録するためにいるようでアズマの方に見向きもしない。 アズマも慣れたもので、そちらに意識は向けない。


「こんばんは」

「こんばんは、よろしくお願いします」


 対面するような形で柔らかなソファへと座る。 清潔そうな真っ白な部屋だが、圧迫感は無い。 子供の患者にも配慮してか、怪獣やぬいぐるみ、子供に人気なアニメのフィギュアなどが飾られており、強迫的な白さを緩和させている。フィギュアについている刀や剣は取り除いてあり配慮のためにも置いてあるのが伺えた。


 熊谷医師は自分のパソコンで前回の情報を振り返りながら、声をかけた


「どうでした、今週?」

「やはり、アチラに居る時は抑うつ状態というか、やる気みたいなものが無いです」

「会社の状況は変わらず?」

「はい」

「そっか、気にしないのが一番。 何処かで切り替えればいいんだけど」

「そうですね、分かっているのは分かっているのですが」

「そう簡単にはいかないよね……食欲や睡眠は?」

「食欲は、何とか三食食べれています。 ただ、やはり睡眠は薬が無いと寝れないですね」

東京こっちでは?」


 しばらく考えたのちに、アズマは答えた。


「こちらでは大丈夫な事が多い……ですね」

「そっか、仕事のストレスはだいぶかかっているね。 今まで通り、アルプラゾラムを出しておくよ」

「ありがとうございます」


 アルプラゾラム、精神安定剤の一種。副作用として眠気を誘発する場合がありアズマも睡眠薬代わりに飲んでいる。 緊張を緩和しつつ、副作用で寝る。それが様々な投薬の末に行きついた服薬だった。


「あとは、幻覚とか、幻聴の類いは大丈夫かい?」

「いえ、そういうものは……ただあの頃の夢をよく見ます」


 そう言ってアズマは天井を仰ぎ見た。

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