第30話 日常編揺らぎ【恩師】

 好幸が実家暮らしであること。これまでずっとフリーターだったこと。
mixiで知り合った頃に下心から声をかけたことを告白された。ずっと騙していたことに気が咎めたのだ。
恵が『そんなこと気にするわけないやん。』と言うと、電話の向こう側で歯を食いしばる音が聞こえた後、暫くの間沈黙が流れた。
好幸が自分のことをどんな人間だと思っていたのかは分からないが、純粋過ぎる彼を見ていると、幾らか遊び人だった方がまだ気が楽だと思った自分がいた。
恵にとって好幸のように、ストレートに想いをぶつけてくる人間はこれまでに一人もいなかった。今の恵にはそれが嬉しくもあり、正直煩わしくもあった。
心の内を、他の誰かに明かすことなどしてこなかった恵にとって、何でも言い合える仲というのは、憧れというよりはある種の恐れを孕んでいる。心の内を明かせる人を望んでいたはずが、心の内を明かすことに戸惑いを覚えてしまうのは、人が未知のものに対して不安や恐怖を覚える感覚と似ている。

それに、好幸が何故そんなちっぽけな見栄を張っていたのか理解に苦しんだ。
自分が10代の頃は、高級車を乗り回す周りの男性を見ても『どうせ親の金で買ってもらったくせに』とか『車がなかったら自己主張も出来ないやつら』等と、車を一種のステイタスにするちっぽけな連中を下に見ていたし、上から下までブランドで固めた男性を見ると『あいつは自分に価値がないと信じている』等と揶揄していた。
そんな恵にとってアルバイトだろうが正社員だろうが、車があろうがなかろうが、下心がどうのこうのなんて全く気にしていなかった。

自分がそんなものに価値を求める人間だったなら、そもそも好幸になど見向きもしなかっただろう。恵にとって好幸は自分の話をちゃんと聞いてくれて、ほんの些細な変化も漏らすことなく気付いてくれる人。
恵にとってはそれだけで十分だった。


『ごめん。黙ってるのがしんどくて。本当…アホやな俺…ありがとう。』


『気にし過ぎ。そんなことで嫌いになるくらいやったら、そもそもmixiで返事なんかせぇへんとスルーしてるわ。』


『そうよな。ありがとう。それとさ、報告があんねん。』


 恵はガラケーをしっかり耳に当て直すと、つけっぱなしにしていたテレビの電源をオフにした。


『前に紗南さんに介護が向いてる言われたの覚えてる?この前さ、バイト先のお客さんやった人が、新しい仕事決まってないんやったら、私の会社に来たら?って言ってくれて。尼崎にあるグループホームなんやけど…まさかの介護の仕事…』


 そこまで言うと恵は興奮したように話に割り込んで来た。


『本間に⁉︎紗南さん言うた通りになったって事⁉︎すごいやん!奇跡やん?やっぱり紗南さんすごいって!だから言ったやん!本物やって!』


 紗南さんがいついつ何処何処で、介護の仕事が決まると言ったわけではなかったが、少なくともこの巡り合わせには必然性を感じていた為、好幸はそこには触れないように話を続けた。


『で、ヘルパーの資格取らなあかんから、三宮にある本社に、暫く介護研修受けに行くことになった。』


 週4日の短期集中コースで約一ヶ月程の研修。今となって分かることだが、余程倫理に外れたことでもしない限りは、まず落とされることのない研修。
それは人手の少ない介護業界の、来るもの拒まずといった体制を物語っているようだった。
事実、好幸が受けた研修最終日の試験は、授業をしっかり聞いてさえいれば、勉強をしてこなかった万年赤点の好幸でさえ簡単に満点を取れたし、実技試験においては文字通り、やり直しの効く形式上の試験だった。
勿論介護福祉士ともなればそう簡単にはいかないかもしれないが、好幸の中では、介護の世界で登り詰めるといった意志は皆無に等しかった。結局はそれがしたい仕事。望んでいた職種であったから…ではなく。
人に言われて決めた、人に誘われて決めた。
もっと言うなれば、偶然とは思えない不思議なタイミングで決まった仕事だったからに過ぎない。そこに自分の確固たる意志はなく。
結局はこの時もまだ、好幸は自分を生きてはいなかった。言われるがままに決め。決まったことで安心しきる。そこから先に、信念のような想いはひとつも持っていなかった。


 それでも誰かの為に真面目に働こうという動機は、信念とは呼べないまでも、これまでの好幸にはない摯実しじつなものであることだけは確かだった。

 

そして翌年の春。好幸は見事ヘルパー二級の研修課程を修了し、尼崎にあるグループホームに正社員として介護職に就いた。
前職の靴屋に客として来店していたあの中年女性は、好幸の就職した介護施設の責任者だった。
南ホーム長は、気さくな関西のおばちゃんを思わせる人で、うるさいくらいに声が大きく、何をするにもオーバーリアクションのとても人間味に溢れた上司。
初出勤は、雨上がりに差し込む日差しが、静かに寄り添うような陽春の頃。
好幸がホームに到着した際には『この子私がスカウトした子だから!すごくいい子だから皆仲良くしてあげてね!』と言って好幸を快く歓迎してくれた。
また偶然にも好幸の勤めるグループホームは、実家の寿司屋に近い距離にあり、そういった意味でもやはり好幸は運命のようなものを感じていた。


『介護全くの初めてやんな?じゃ、初めに真面目な話だけしとくな?』


 初出勤当日、ホームの事務所に呼ばれ、南ホーム長のデスク横に置かれたパイプ椅子に座ると、新卒の面接さながらに好幸は拳を膝の上に乗せ、背筋を伸ばして耳を傾けた。


『まずはヘルパー二級おめでとう!あんたがここに来たのも巡り合わせ、縁やと思う。本間に来てくれて感謝してる。ありがとう!よう頑張ってくれたね!』


 初対面の人間に歓迎された記憶のない好幸にとって、南ホーム長の言葉には胸をそっと掴む何かがあった。
嬉しいのに何故か息苦しさを覚える優しさ。
初めて触れる時に、堰を切ったように溢れる心の欠片が、キラキラ揺らめいて熱を帯びてゆく。そんな幸せに似た感覚を堪えるのに必死だった。


『私達のしてる仕事は…介護は臭い、汚い、きつい…って言われる仕事。誰も進んでやりたがらへん仕事。認知症のお年寄りを相手にしてたら、どんなベテランでも腹の立つこともあるし、手が出そうになることもある。
テレビで虐待の話が出る度に表面しか知らへん人間はやれ可哀想だの、虐待なんて人のすることやない…みたいに言うけど、介護は実際やってみないとその大変さは分からへんし、理想論だけで語れるような綺麗なものでもない。
時には人の心を壊してしまうこともある。
私はテレビで虐待のニュースを見る度に、施設の人間はなんで先にケアする側の人間のことをしっかり見てやれなかったのかって思うのよ。
ヘルパーも人間。機械じゃない。感情がある以上は誰にも必ず浮き沈みはある。
勿論虐待が駄目なのは当たり前。暴力に訴えてしまったら負け。でもな。腹がたってもいい。最悪暴言吐いてしまっても仕方がない。私がフォローしとく。
でも少しでも自分の中で何かが変わったと思う瞬間があるならすぐに私に相談して欲しい。
私達が扱うのは人の命やけど、利用者さんだけが命ってわけじゃない。あんたらも大切な人の命。利用者さんに直接接するあんたらのことをを通り越して、利用者様第一なんてそんなものは嘘でしかない。本間に利用者が大切やったら、その利用者に接する人間こそ大切にせんとあかん。私達のしていることは命で命に向き合う仕事なんやから。』


 好幸は高校時代の化学の先生を思い出していた。安井先生。小柄で華奢。肌は色白…というよりは青白くいかにも不健康な見た目。
黒縁メガネをかけており、髪型はスポーツ刈り。見るからに神経質そうな教師。

 

 高校卒業間近の二学期。突然安井先生は授業にマイクとスピーカーを持って現れた。
周りの生徒は好幸を含め皆が一様に、その光景を小馬鹿にした。
声を出すのが面倒くさいんじゃねぇ?とか
大学講師の真似事かよとか、中には、先生一曲歌ってよ!なんて茶化す生徒まで現れた。それでも安井先生は嵐をものともしない、しなやかな竹のように、生徒達の嘲笑を受け流し、確固たる意志のようなものを示していた。


 ある日同じクラスの女子生徒数人が『安井先生末期の癌らしいで。本間なら今すぐにでも入院せんとあかんらしいけど、緩和ケアっていうのを選んで、最後まで授業したいからって入院断ったんやって。』そう話していたのを聞いた。
好幸は大人しく入院してろよ。と思うだけで安井先生に対して可哀想とか、真面目にしようなんて情は湧かなかった。


その後も授業態度が変わることはなく、一度当てられた際にも好幸は無視を決め込んだ。
安井先生は叱るでもなくただ『黙秘権…』とだけ呟いた。
好幸は『何が黙秘権や…。』と悪態をついた。
そんなある日の放課後、僅かに開いたままの化学教室の奥に安井先生が見えた。


 デスクに俯き加減で眉根をひそめるその姿は、必死で何かに耐えているようで、好幸は歩みを止めて、その姿に息を潜め佇んだ。
 好幸の視線に気付いた安井先生が顔を上げ、手招きをする。


『髙橋。ちょっとええか?』マイクもなく弱々しい声が呼んだ。


 その時は無視をしなかった。授業では周りの生徒を意識するあまり悪態をついて格好つけていただけで、それはあまりにも稚拙な自己表現でしかなかった。
好幸は教室の奥にある、実験を行う大きなテーブルの窓側の座席に安井先生と向かい合うように座った。


安井先生は、痛む身体の節々を気遣いながらゆっくりと席についた。


『髙橋。僕達教師は何と向き合う仕事か分かるか?』


『生徒。』


 安井先生の目を見ないように、日に焼けた化学教室の床を見つめる。
窓の外から聞こえてくる生徒達のかけ声が、室内の空気に遮られるように、カーテンの揺らめきと一緒に流され落ちる。


『じゃあ医者は何と向き合う仕事か分かるか?』


『人の命。』


『じゃあ。ゴミ清掃員は何と向き合う仕事や?』


『そりゃゴミちゃうんですか?』


『違う。人の命や。』


 好幸は先生が何を言っているのか意味が分からなかったし、遠回しな物言いに時間を奪われるようで、小刻みに床を踏み締める足に力が入る。


『何の話がしたいんですか?』


『ゴミ清掃員の人が街のゴミを回収して、処分してくれへんかったら街中が不潔になって、そのうち病気になる人が出始めるかもしれへんやろ?その病気になった人は、もしかしたら死んでしまうかもしれへんと思わんか?
ゴミ清掃員の人はそうならないように一生懸命働いてくれてる。
それはある意味人の命と向き合う仕事やないか?
コンビニのアルバイトはどうや?商品だけを扱う仕事か?
違う。やっぱり人の命と向き合う仕事なんや。食べるもの、飲み物、栄養ドリンクもある。日用品もある。雑誌にしたって、ある人には生活を支える大切なものになる。全てが生きる上で必要になる。
最近やったら、震災の時に救援物資送ったり募金をしたりして被災者の為に動いている。まさに命と向き合う立派な仕事やないか?
一見すると地味で取るに足らないような小さな仕事も、巡り巡って人の命と向き合う仕事になってるんや。僕達教師も生徒という、親御さんから預かった大切な命と向き合う仕事。
真面目に働くというのは、規則に従って従順になることじゃない。周りに迷惑かけないように責任感を持つのとも違う。
自分の命を燃やして、仕事の先にある命と向き合う覚悟を持つことやと僕は信じてる。
こんなことを話たら馬鹿にしてくるやつもおったけど、僕は本気でそう信じてる。
仕事がつまらないとか、大企業だけが偉いと勘違いするのは自分達の扱ってるものを分かってないから。目先のことだけで本質が見えてないからなんや。自分が命であることを忘れて、限りある命がずっと続くと信じて生きてるから大切に出来なくなる。どんな仕事も上下なく命と向き合う立派な仕事なんや。
僕のことはもう知ってるな?僕は…恐らく後二ヶ月、もしかしたらもっと短いかもしれん。入院したとしても一、二ヶ月生き延びるくらいやと思う。ひょっとしたらもっと短いかもしれん。
本当は恐いし、妻と子供が心配でたまらなくなる時もある。一人でいる時に逝ってしまわないか恐くなる。
でも残された時間を伸ばして、病院のベッドで何もせずに過ごすくらいやったら、意義あることに命を燃やして死にたい。妻や子供に大切なものを残したい。教師が好きやからこそ教師として最後まで君達と、自分の命と向き合いたい。
馬鹿にしたいならしてもええ。言っている意味が分からんでもええ。でもいつか君も命を燃やさないといけなくなる日が必ず来る。
流されて生きることが、必ず苦しくなる時が来る。自分に嘘をついて生きることが、どうしょうもなく悔しくなる時が来る。
その時は僕のこと思い出してくれ。
君は自分が嫌いか?自分のことを信じていないやろ?いい目をしてるのに…本当に勿体ない…付き合わせて悪かったな。最後の悪あがきかもしれんな。最近やたらに人と話したくなるんや。ありがとうな。もう帰ってええで。後…授業で黙秘するのはやめろ。分からないことは恥ずかしいことやない。』


 そう言うと先生は、テーブルを支えに立ち上がり。化学室の奥へと歩いて行った。
外では部活に励む生徒。友達と楽しそうに会話をする生徒。一人で本を読む生徒。
沢山の命が今を生きていた。
切り取られた景色を眺めながら、自分の中で言葉が枯れてゆくような感覚を覚えた。

馬鹿にはしなかった。意味が分からないわけでもなかった。安井先生は全てを見抜いていた。ただ…空っぽになった自分の中身を、どう探せばいいのかが好幸には分からなかった。
命を燃やすほどの芯が、好幸には見つけられなかった。掴みたいのに掴めなかった。

それから一ヶ月後。安井先生は命の火を燃やし尽くした。
あれだけ燃やしても、冷えたままの命がここにはまだまだ沢山居た。
それは好幸も例外ではない。
翌日には忘れ、心の足跡を覆い隠す日常に、誰もが時を急ぎ足で駆け抜ける。


『さぁ。初出勤やから利用者さんに挨拶して回らなあかんな!』 


 南ホーム長の言葉に過去から引きずり戻される。卒業してから今までずっと、安井先生の言っていたようにはいかなかった。
命を燃やすことの意味も、自分の命のことも忘れて生きて来た。仕事は仕事でしかなかった。
本質を分からないままに生きていた。
気に入らないなら簡単に辞めたし、それが間接的だとしても、到底命と向き合う仕事には思えなかった。
ここではそれが見つかるのだろうか?命と、自分と向き合えるのだろうか?ただ流されるように辿り着いたこの場所で、強い何かを掴めるのだろうか?好幸は期待と不安の入り混じる心象の先に自分だけの答えがあることを願った。


 担当する2階フロアに上がると、利用者のお婆さんが嬉しそうに騒いでいた。


『虹が出てるわよ!虹よ!綺麗ねぇ!皆見て!虹が出てるわよ!』


 ホームの外では、青空に綺麗な虹が架かっていた。この場所からでしか綺麗に映らない虹。
この場所だからこそ綺麗に思える虹。


【続く】

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