第31話 日常編揺らぎ【自己欺瞞】

 好幸がグループホームの仕事についてから、早三度目の春が訪れようとしていた。
介護の仕事は思った程苦にならず、適正があるかは別にしてもそれなりに仕事をこなせていた。とはいえやはり下の世話ばかりは苦手意識が無くならず、好幸は常に神経を尖らせる必要があった。それも、ひと作業終える度に全身をくまなくチェックし、自身に微塵も汚れが付着しないように努める徹底ぶりで、元々の潔癖症に拍車がかかったようにも思えた。



 ホームの人間関係はというと、ある一人のおばちゃんヘルパーを除いて、概ね良好だった。

ボソボソと囁くように話す花田さんは、五つ年上の男性ヘルパーで、眼鏡をかけた猫背の見るからにオタク気質な先輩。
時折好幸を笑わせようとして冗談を言うのだが、あまりにボソボソ囁く為に肝心のオチが聞き取れず、好幸は毎回苦笑いするしかなかった。仕事に関してはヘルパーの中で一番丁寧で、その穏やかな人柄も相まって、利用者達からの信頼も厚く、好幸にとっても花田さんとシフトが一緒の日は当たり日でもあった。


 20代の年下女性ヘルパー山上さんは、身長が175はあろうかという高身長な割に、童顔小顔におかっぱのような髪型。もっさりとした舌ったらずな話し方で、先程の花田さん同様にオタク臭をぷんぷんさせた女性だ。
ちなみにこの花田さんと山上さんはとても仲が良く、休憩中や勤務時間外にはいつも一緒に当時流行していたモンスターハンターで共闘していた。やはりオタク同士引き合うものがあるのだろう。
事実二人は好幸がグループホームを去った数年後に結婚をした。
ちなみに先に述べておくが、残念ながら山上さんとのエピソードはないに等しい。
元々印象の薄い女性だったこともあるが、そもそも山上さんとは業務的な会話以外をしたことがなかったのだ。
正直、自身の記憶が欠落しているだけだという可能性も否定は出来ないが、山上さんとの印象的な出来事は、好幸が退社する日に、ハリボーのグミとよっちゃんイカの大量に入った菓子袋を彼女がプレゼントしてくれた事だけだ。


 ホームにはもう一人年下の20代女性、川野という先輩ヘルパーがいた。
川野さんは小柄でぽっちゃり体系。前歯が特徴的なリスのような可愛らしい女性。一見すると柔らかい雰囲気の女の子だが、その実人間はしっかりしており、時に辛辣な物言いすらいとわない。
 仕事面においては誰よりもきっちりした女性で、100歳を越える敏三爺さんにお尻を触られても動じることなく、その手を叩いて『やめてください。何も出ませんよ。』と無表情で一蹴する気概もある。とはいえ20代女性であることに変わりはなく、意中の男性に片思いをしているらしく、男性心理についてを度々好幸に質問するのだが、事実上恵がはじめての女性である好幸は、恋愛経験の乏しい自分の意見など役に立つのだろうか?といつも疑問に感じていた。


 主婦ヘルパーの長田さんはおっとりとした年上女性で、過去にお水の商売をしていたせいか物言いがいちいち飲み屋のママのように聞こえてしまう。その柔らかく、何処か甘えたような話しぶりは、余程の重度の利用者でない限り、大抵の男性利用者を骨抜きにしていた。
二度の離婚経験があり、現在は新しい彼氏と子供の三人暮らし。後に2階フロアのリーダーとなり、好幸が退職してから四年後に一度だけ『人が居なくて、介護に戻る気ない?』と声をかけてくれるが、その頃の好幸は介護自体に嫌気がさしており、キッパリと介護には戻らないと断りを入れた。


 そして好幸にとって、天敵とも言えるおばちゃんヘルパーこと山副さんこそが、このフロアの現リーダーで好幸にとってはハズレ日のスタッフ。重箱の隅をつつくようなタイプのヘルパーで、自身のミスには見て見ぬふりをし、人のミスを見つけようものなら、鬼の首をとったように相手を責め立てる。
まさに絵に描いたような意地悪ヘルパー。
恐らく若かりし頃は美人だったであろう50代女性で、周りからも『あんたは喋らん方がええ。』とか『性格に難ありやなぁ。』などと言われる残念な人。
今にして思えば、性根の悪いタイプというよりは、口うるさいが、何処か憎めないいじられキャラだったのではないかと思う。


 そんな個性豊かな同僚達に囲まれながら好幸は、介護の仕事をそれなりに楽しんでいた。
デートで毎回手持ちが五千円程度しかなく、満足に恵に物を買ってやれない歯痒さに、男としてのプライドを引き裂かれる思いだった好幸も、介護職に従事してからは多少は羽振りが良くなった。
とはいえまだまだこの時の介護職は、他職種に比べ給料は安く、決して贅沢出来る程のものではなかったが、それでもアルバイトでしか働いたことのない好幸にとっては十分な額だった。


 それは9月の残暑尾を引く蒸し暑い夜に起こった。好幸の担当する2階フロアには100歳になる敏三さん。その妻である90歳の綾子さんが暮らしている。
敏三さん綾子さんから成る浜崎夫妻は、2階フロア一番の曲者で、毎日南ホーム長がご機嫌取りに来なければならないくらい気難しい夫妻だった。
特に妻の綾子さんに至っては鬱病を患っており、口を開けば被害妄想じみたネガティブな発言しかしなかった。
やれ、皆私に早く死んで欲しいと思っているだの。あのスタッフは私にわざと変な薬を飲ませただの。誰もが腫れ物に触るように扱っていた。
旦那の敏三さんの方はと言うと、綾子さんとは正反対で、昔気質の男性ながらも人懐っこい一面もあり、常に冗談を言ったり女性スタッフにセクハラを働くようなお調子者のお爺さんだ。

そんな浜崎夫妻に普段から手を焼いていた好幸だが、妻の綾子さんに関しては付かず離れずで、ネガティブな発言があったとしても言葉巧みにはぐらかしていたのだが、敏三さんだけはどうにもソリが合わないらしく、事あるごとにイライラさせられていた。
勿論100歳ともなれば物忘れも激しくなるし、言うまでもなく認知機能は低下している。
それに加えて昔気質ともあれば手を焼くのは当然だ。しかし、この頃の好幸は社会生活においてくちばしの黄色い小鳥のようなもの。
いや。気難しさで言えば攻撃的なヒクイドリと言っても過言ではない。
敏三さんの言うブラックジョークでさえ、ただのブラックになってしまう。



 その日も敏三さんの我が儘にイライラしながらも、夜勤の業務をこなしていた好幸だが、夜中の2時頃、敏三さんがトイレに起きてきた際に、自室のスライド式ドアを力いっぱい開けた。廊下中に衝撃音が響き渡り、案の定大人しく寝ていた利用者達が次々と目覚め始めたのだ。
中でも一番起きて欲しくない勝山さんという元教師の男性利用者は、一度目が覚めてしまったら、どれだけ就寝介助を行っても、何度も起きてきてしまう。それだけならまだしも、時折女性利用者の部屋に侵入してマスターベーションまでする始末。
聖職者と言われる真面目な人間程、理性が外れると下が緩くなるものかと思いながら、好幸はケアの合間を縫って勝山さんを寝かし付けに行くのだが、数分後にはまたドアを開けて顔を覗かせる。
その日もやっとのことで寝かしつけた勝山さんが、敏三さんのせいで起きてしまったのだ。
好幸は既に怒りが頂点に達していた。
好幸はトイレが終わり自室に戻る敏三さんに声を掛けた。勿論平静を装ってだ。


『あの〜敏三さん?夜中の二時なので、皆寝ていますのでドアは静かに開けてくれませんか?』


 敏三さんはまるで初対面の人間でも見るように前のめりに顔を突き出した。


『あぁ?わしがどんな開け方しようが関係あらへんわ!』


 そう言うと敏三さんは、廊下の方に向かって突然狼の遠吠えのような大声を上げた。
すると実際に狼が仲間の声に反応するように、次々とホームの仲間達が目を覚ます。と同時にそれは、敏三狼が自らの縄張りを主張しているようでもあった。
好幸の中で、これまで押さえ込んでいた何かが一気に逆流し、超新星爆発を起こした。




『さっさと寝ろ!クソジジイ!』


 好幸は中指を突き立て、敏三爺さんを睨みつけながらその場を離れた。手は出さなかった。
それだけの理性は残されていた。
しかし後には白色矮星のような儚さも残さなければ、後味の悪い虚無だけが光をも飲み込む。
好幸の中で何かが変わった瞬間でもあった。


 翌朝9時。好幸は南ホーム長に相談も、報告もせずに帰路に着いた。
帰り道。昨夜のことを一人思い返していた。
相手の状態や立場を理解していながら、自分を抑えることが出来なかった。
仕事と割り切ることが出来ずに感情的になってしまった。そもそも介護とは何なのだろう?
敏三さんだけじゃない。勝山さんにしてもそう。いや…全員がそうだ。
認知症は進行して行く。回復することはない。そんなのは当たり前ではないか?
 ホームに入り。自由に外出も出来ない。
一度転倒すれば、転倒しないようにと半ば拘束じみた措置を取らざるを得ない。
食べたくないものでも栄養の為だと口に押し込まれ、トイレに行きたくなっても自由に排泄出来ない。周りの同居人達が一人、また一人と呆けて行き、会話する相手が居なくなれば必然的に自分の認知も進む。
半ば軟禁状態の生活に刺激もなく、家族すらも面倒臭くなって面会の回数が日に日に減って行く。認知症が進行するのは必然だ。




 好幸が初めてホームに来た時に、優しく話しかけてくれた新谷さんというお婆さんが居た。
物腰の柔らかい上品なお婆さんで、仕事が慣れるまではずっと一緒に折り紙をしたり、絵を描いたりした。
ある日新谷さんが好幸に呟いた。


『私らはもうここで死んで行くだけなんよ。楽しみも何もないし、お父さんも死んでしもた。身体も日々言うこときかんなるし。いつまで折り紙も出来るか…お兄ちゃん。私が折り紙のやり方忘れても一緒にやってくれるか?』


 新谷さんの固まって曲がらなくなった細い指先が、左右非対称になった折り紙に触れる。


『勿論ですよ。やりましょ!』


 そう言って好幸は今し方自分の折った鶴の翼の部分に【未来へ】とだけ書いて新谷さんに渡した。


『未来なぁ。あるとええなぁ。』


 そんな新谷さんも、今では一日中居室の中で喚いている。好幸のことも、折り紙のことも、未来も忘れて、ただ苦しみの声を、やりきれなさを投げかけてくる。勝山さん同様に、夜中に目を覚ますとなかなか眠らない。眠れないとまた叫び出す。
あの新谷さんにさえ、今の自分は憎しみにも似た感情を抱いてしまう。
好幸は追い詰められていた。何の為に介護をしているのか…何の為になるのか…周りのスタッフ達のように愛情を持てないのは、自分が人を大切にしてこなかったからなのか?
自分がおかしいのか?自分が間違っているのか?


 いつしか仕事に疲弊しだすと、恵に対しても優しさを持てなくなる自分がいた。
自分という人間が誰かの見ている儚い夢のように思えて、消えてしまいそうだった。


【続く】

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