第10話
こうして、二人の夫と、交互に夜を共にする日々が始まりました。
アイテルは、最初の夜よりは口付けや動きの深さが増しましたけれど、いつも、とても私を気遣ってくれます。
テフォンは、時には体が壊れそうになるほど激しく契ってきますけれど、終わった後はいつも優しく髪をなでてくれます。
二人の夫を持ったからなのでしょうか。
霊力が、日ごとに増しているようですの。
今、広間の霊水晶は、より白く青く、輝きを強めていっております。
あんなに祈っても何も起きなかった日々が、嘘のようですわね。
これこそが、巫は番を二人持つ風習の理由なのかもしれません。
広間で祈りを捧げる時、後ろには、いつもアイテルとテフォンがいます。
私は一人ではありません。
アイテルとテフォンがいつも私を見守っています。
ああ、一人でないということは、なんと素晴らしいことなのでしょう。
常に誰かが側にいて見守ってくれるということは、なんと心強いことなのでしょう。
そうしてアイテルとテフォンと交互に夜を過ごしてから、七日目が来ました。
七日目の夜は、どちらの夫とも夜を共にしない決まりです。
逆に昼は二人の夫と過ごす決まりなのですわ。
日の曜日は、公務も休みです。
部屋には、アイテルとテフォンが訪れておりました。
二人とも、今日は、金の指輪を首からかけております。
「それで? 今日はどうするんだ、姫?」
「天気がようございます。外でも内でも、姫様のお心のままに」
そう言われましても、何も考えが浮かびません。
これまで、私は一人でした。
日の曜日は、部屋から出ることなく一人で過ごしておりました。
本を読んだり、星見の記録をまとめたり、一人でただぼうっとしたり、ひたすら眠ったり。
それを、急にいきなり誰かと一日過ごせと言われても、困りましてよ。
「お悩みでございますか? 番がいない巫は、塔の外へは出られませんでしたから」
アイテルが、寝台に座る私を気の毒そうに見やります。
もう何度も椅子を勧めたのですけれど、アイテルは座ろうとはしません。
テフォンが露台の外を眺めながら口を開きます。
「ならば、出かけよう。この天気を楽しまないのはもったいないぞ。番が一緒なら、巫は自由に外へ出られるのだろう?」
「はい。女官長もそのように」
確かにアイテルの言うとおりですが、お母さまは、私が知る限り、塔の外へは出られませんでしたわ。
ずっと塔におりますと、外へ出るなど、何やら恐ろしく感じます。
「それで? 城下を見るか、郊外の森にでも行くか、どちらがいい?」
私の心中を知らないテフォンは、笑顔を浮かべて振り返ります。
ここで、外へ出るのは気乗りしないと言うのは気が引けますわね。
まあ、これも良い機会でしょう。
「よろしくてよ、外へ出かけますわ。ただ、静かな場所がよいですわね」
ええ、アイテルとテフォン以外の人間とは関わりたくありませんから。
私の返事を聞いたテフォンが、アイテルを見やります。
「姫の希望に添うのならば北の森が良いと思うが?」
「同感です。あそこならば姫様もお心が安らぎましょう」
「なら、決まりだ」
テフォンはそう言うと、真顔になり、私とアイテルを見ます。
「しかし、番がいるいないで、巫はずいぶんと待遇が変わるのだな」
「お世継ぎの問題がございますから。外の人間とは接触させたくないのかと」
「なるほどな、まあ一理ある」
巫が番を二人持ちますのは、巫は子ができにくく、さらに寿命が短いからだと聞いております。
巫の力は子に引き継がれると言われております。
私が死んだ後、次の巫となるのは、私の子か、それ以前の巫の血を引いた者に限られます。
なので、私に力がないと知った王は、私に婚姻を強く促しました。
今の私には力はありますが、それもあと十年と少しでしょう。
その前に私は子を成すべきなのですわ。ええ、理解はしておりましてよ。
ですが、いつ、子は成せるのでしょう?
アイテルとテフォンと、何度か契りを交わしておりますが、巫は子ができにくいとのことですから。
「姫様、いかがなさいましたか?」
心配そうなアイテルの声に、私は我に返ります。
夫の二人は、子について、何か聞いているでしょうか?
「子はいつできるのか、二人は知っておりまして?」
私の言葉に、アイテルとテフォンは困ったような表情になり、互いに顔を見合わせます。
ああ、二人にも、わからないのですわね、きっと。
「授かりものだからな、あれは」
「いずれ、時が来れば、と」
「姫の母上がそうであったように、いずれは子を成すだろうが、それがいつかは誰にもわからん」
力がなかった頃、毎朝、霊水晶に祈っていた時と同じですわね。
いつ、事を成せるのかわからないのは、とても不安ですわ。
「ま、先々のことを案じても仕方あるまい」
「そうですわね」
私の返事に、アイテルがほっとしたような表情を見せます。
「では、女官達に森へ行く準備を整えさせましょう」
そう言うと、アイテルはテフォンとなごやかに話しながら部屋を出て行きました。
いつものように部屋に一人になりますと、私はなぜかほっとしました。
一人ではない暮らしは、確かに心強いものですわ。
二人の夫は、よく尽くしてくれていますし、互いに仲も悪くないようで、それも安心です。ええ、なんの不満もありません。
それでも、一人になるとほっとすることがあるだなんて、我ながら妙なものですわね。
それから女官に外出用の厚手の衣を着せられ、歩行用だというサンダルを履かされました。臑に紐をぐるぐるとまきつける履き物でして、このようにすると足が疲れないのだそうですわ。
女官は、飲み物や食べ物が入った大きな籠も用意してくれました。
すっかり準備が整うと、アイテルがまた部屋を訪れます。
テフォンは先に下へ降り、馬を準備しているとのことでした。
私は籠を持ったアイテルと連れだって部屋を出て、塔の階段へ向かいます。
この階段を降りますのは、年に一度くらい。
下にあります図書室ヘ行くときくらいでしょうか。
階段は長く、暗く、狭く、降りるたび、足音が響きます。
「お疲れではないですか、姫様」
先を行くアイテルが、たびたび心配そうに後ろを振り返ります。
「平気でしてよ、図書室まではいったことがありますもの」
「さようでございますが、それも、もう一年は前になるかと思いますので」
「そうですわね。あなたたちを夫に迎える前は、できる限り、部屋から出たくなかったのですわ」
「本日は、よろしかったのですか?」
「ええ、いい機会だと思いましたの」
「それはようございました。きっと楽しい散策になると思います」
前は、とにかく、何をするのもおっくうでした。
書物が並ぶ図書室は好きでしたけれど、よほどに調べ物への情熱がわかない限り、足を向けることはありませんでした。
今は、だんだんと心が弾んでおります。
塔の上から見ていた世界は、どんな感じなのでしょう?
地上へ近づくにつれて、胸が高鳴ってまいります。
無言でアイテルとひたすらに階段を降りると、巨大な鉄扉の前に出ます。
これが塔の扉なのでしょう。
扉の横に立つ護衛が一礼し、二人がかりで扉の横の鎖を引いていきます。
きしむような音を立てながら扉がゆっくりと開き、まぶしい光が漏れ出ます。
「来たな! 見ろ、行楽日和だ!」
外にはテフォンが二頭の馬を連れて、太陽のように朗らかに笑っておりました。
テフォンは笑うと少年のようにあどけなくなりますのよ。
テフォンが連れていますのは、白い馬と、茶色の馬でした。
「アイテル、馬は乗れるな?」
「はい」
「これに乗れ。賢い、いい馬を選んできた」
テフォンは白い馬の手綱を引いて、アイテルへと渡します。
「姫はこっちだ。俺の馬でな、戦地に置いていくのも忍びなく、連れてきた」
テフォンに手綱を握られた茶色い馬が、首を震わせて、じっと私を見ます。
黒い瞳は大きくて、いかにも賢そうです。
「姫、乗せるぞ」
テフォンは茶色い馬の手綱を放しますが、馬は逃げるそぶりもなく、じっとその場に留まります。
テフォンがふわりと私を抱え上げ、馬に乗せます。
鞍がありますのに、馬の上は、思いのほか、温かくありました。
アイテルも、テフォンも、護衛の兵も、皆が馬上の私を見上げています。
いつもは皆を私が見上げてきましたから、なんだか面白いですわね。
「どうだ、馬上は?」
「とてもよろしくてよ」
見上げると、空は青く、雲ひとつありません。
石畳の周りには大きな石造りの建物が並び、緑の葉を茂らせた木々がありました。
「姫の馬は俺が引こう。アイテル、乗れ」
アイテルはうなずくと、白い馬にひらりと飛び乗ります。
アイテルは見るからに馬に慣れておりました。
琥珀色の髪が、陽の光に当たってきらめきます。
青い瞳は清水のように透き通り、白い肌はなめらかで、陽の下で見るアイテルは、相変わらず人形のように綺麗でした。
テフォンが馬上のアイテルを見上げ、驚いた顔をします。
「意外だな。護衛は馬に乗る機会が少ないと思っていたが」
「塔に来る前に、少し」
「ああ、兄君は乗馬の名手だったな」
「ご存じで?」
「少しな。城でお目にかかった」
二人が会話する光景もなんだか新鮮ですわ。
アイテルはテフォン相手だと、少し言葉が砕けるのですわね。
「それで、どうする? せっかくだ、城壁を見るか?」
テフォンが私を見上げます。
「姫が張ったオケアノスの防壁は、今は見えないだろうが」
「行きたいですわ」
即答しますと、テフォンが破顔する。
「わかった、すぐそこだ」
アイテルがゆっくりと馬を進め、その後ろを、テフォンが手綱を引きながら、大股で歩いていきます。
馬の背に揺られますのは、とても心地良いものでした。
ぱかぱかという足音も、一定の調子で揺れる背中も、普段よりも遙かに高い視線も、気に入りましてよ。
白馬に乗ったアイテルは、人気のない小道へと馬を進めていきます。
あたりは三階建ての石造りの建物ばかりで、人の気配はございません。
そういえば、塔の上から眺めてましても、静かなものですわね。王都には大勢の人が住んでいると聞いておりますのに。
「このあたりに人は住んでいない。皆、王宮を囲む城壁の外にいる」
馬を引くテフォンが言うと、アイテルが振り返ります。
「このあたりは城壁にも王宮にも近いゆえ、軍の詰め所が多いのです」
「見ろ、あれが城壁だ」
道の突き当たりに、遙か上までそびえる灰色の石壁が見えました。
「見たとおり、姫様のお力を霊水晶に注いでいるときは、あの壁の上に、淡い光が出るそうです」
とはいっても、今見えます城壁は、ただの石の集まりです。巨大で、堅牢である以外は、塔の石壁と変わりありません。
そのまま真っ直ぐ進み、城壁の側まで行きますと、衛兵たちが一定の間隔で並んでいるのが見えました。
アイテルが私を守ってきたように、彼らはこの壁を守るのが努めなのでしょう。
私達の姿を認めますと、衛兵たちが一斉に礼を捧げます。
私は、衛兵たちに礼を返しては、馬に揺られながら壁際を進んで行きます。
不甲斐ない巫のせいで、あの衛兵達の負担は、さぞ大きかったことでしょう。
私はずっと国のために祈ってきたつもりでした。
けれど、祈りを捧げる国のことは、何も知らなかったのですわ。
城壁添いを馬に揺られて進みますと、とても大きな鉄扉がありました。
塔の扉よりもずっと大きなものです。
扉の両脇には、細い塔がそびえております。
「西の城門だ。脇は見張り塔。外敵が来ないか、ここから昼夜、兵が見張っている」
馬を引きながら、テフォンが塔を見上げて教えてくれます。
前を行くアイテルも見張り塔を見上げています。
「城門は南と東にもある。南の城門が一番大きい。人も多い」
アイテルが門の前で馬を止めて振り返ります。
「こちらの門は兵の他、王族や貴族が使う門になりますね。王宮からはここが一番近いので。なので人通りもご覧のとおり、ございません」
アイテルが待つ間に、テフォンが馬を引き、アイテルの隣に並べてくれました。
門を貫く石畳の道は幅が広く、馬二頭を並べるのに十分だからでしょう。
アイテルが私を見て、柔らかく微笑みます。
光のせいでしょうか、琥珀色の髪と青い瞳がまぶしく輝きます。
妙に気恥ずかしくなり、思わず私は目をそらしました。
「南や東の門は、ここよりももっと大きゅうございます。扉は陽が落ちるまでは上がったままで、人通りが絶えません。馬車も何台も通ります」
テフォンがあたりを見回します。
「南門は、戦車も通るからな。ここは兵しか通らん」
「皆は、南と東の門を利用しますのね?」
「そうだ。南門は、それは活気がある。来た時は驚いた」
「今は、姫様がお力を与えました防壁もございます。いっそう、賑わっていることでしょう」
「朝、姫が霊水晶に力を与えるとき、塔の上が金色に淡く光るさまは、それは美しいそうだ。目当てに来るよそ者も多いだろう」
力を注いでいるとき、塔がどう見えているかなど、知りませんでしたわ。
けれど、見る人に喜ばれているなら、よしとしましょう。
城門の脇には、見張りの兵が直立不動で立っています。きっと見張り塔の上にも兵がいるのでしょう。
私は疑問をテフォンへ投げかけます。
「防壁を張ったのに、まだ見張りが必要ですの?」
「当然だ。王都へ入るには通行証がいる。その確認と、通行証を持っていても怪しい輩ではないかの確認。見張りの責務は大きい」
「ですが、今も見張りの兵が必要なら、防壁はあまり意味がないのではなくて?」
私の言葉に、テフォンとアイテルが顔を見合わせます。
「防壁を張るのが巫の務めだとずっと言われてきましたわ。オケアノスの防壁は、防衛の要だと。防壁がないからだめなのだと。その言葉を信じて、毎日祈ってまいりました。今は力を注げていますけれど」
「もちろん、意味はある」
テフォンが私の言葉を遮るように口を開きます。
「毎朝、姫が力を注ぐときに塔が光るのも、また防壁だ。その不思議な光景は、近隣に知れ渡る。敵国はうかつにはオケアノスには攻められない。現に、国境での敵国の動きは停滞していると報告を受けている」
「姫様の毎朝のお勤めが、防壁そのものになっているのです。ですが、それと、見張りの兵がする責務は別のこと」
アイテルの言葉に、テフォンが頷きます。
「アイテルの言うとおりだ。姫だけに防衛を担わせるのはおかしいと言ったのは、物の例えではない。事実だ。国の守りは防壁のような大きな備えがひとつ、兵たちの日々の働きのような小さな備えがひとつ。ふたつが支えあって成り立つものだ」
すると、アイテルの馬が、蹄をかつんと鳴らしました。
「テフォン殿、堅苦しい話はその辺にしましょう。今日は休日ゆえ」
「……そうだったな。行こう。門を抜ければ森はすぐだ」
「門を開けよ」
アイテルが朗々とした声で門番に命じますと、門番が扉の横の取っ手を回します。
大きな鉄扉が、きしむ音を立てながら、ゆっくりと上がっていきます。
外には、石畳の両脇に、塔の庭園のような草地が広がり、木々が茂り、花々が揺れておりました。
行く手の右に、こんもりとした森が見えます。
空は広く、鳥が囀っています。今宵はいろんな星が良く見えることでしょう。
「まいりましょう。あの右手の森がそうです」
アイテルが馬を進めますと、テフォンも馬の手綱を引いて、歩き始めました。
城門を出てしばらく進みますと、無事、目的の森へ到着しました。
森の地面は柔らかな草地で、色とりどりの花があちこちに咲いております。
木々はのびのびと枝を伸ばし、地面に心地の良い日陰を作り、気持ちよく葉を風に揺らしておりました。
森の中央には澄んだ水をたたえた池と湧き水があって、さわやかな水音を立てています。
木の枝の上には、小鳥がさえずりながら忙しく動き回っています。
塔の庭園も気に入っていましたが、ここは、人が作った庭園とはまた違った趣がありますわね。木と草が作った、美しい光景ですわ。
馬を使わずとも十分に近い距離に、こんな清かな森があることに驚きましたが、ここは、人気がまったくありません。
「ここは、誰もいないのですわね」
そう声に出しますと、アイテルが馬からひらりと降りて、答えてくれます。
「ここは王宮の門から近いので、皆、遠慮があるのでしょう。それに小さい森ですし。皆は、もっと開けた南の森へ行きます」
すると、テフォンが無言で私に向かって腕を伸ばします。
テフォンへ応えて腕を差し出しますと、テフォンは私を抱き上げ、馬から下ろしてくれました。
テフォンの肌からは、夜と同じく、香辛料のような香りがします。この香りを、私は好ましく思っておりましてよ。
テフォンがアイテルを見て、口を開きます。
「南の森には湖があるそうだ。釣り人が集い、広い花畑があるから女子供も集まるらしい」
「その点、この森はこじんまりとしていて自然そのままです。狩りをするにも狭いですしね」
言いながら、アイテルが馬二頭を池へ引いていきます。
辺りを見渡しますと、木漏れ日が美しくきらめいていました。
聞こえるのは、馬が水を飲む音と、葉がさやさやと揺れる音、小鳥のさえずりだけ。
なんと静かで、心地の良い場所なのでしょう。
「私、この森が気に入りましてよ」
大きな声でそう言うと、アイテルが振り返ってにっこりと笑います。
「でしょうね」
テフォンが私を見て、破顔します。
「この森は、きっと姫が気にいると、前々からアイテルが言っていたのさ」
「そうですの?」
アイテルを見ますが、こちらの声が聞こえてないのでしょう。アイテルは水を飲む馬を見ながら、その背を撫でていました。
「アイテルは、姫に隠し事が多いようだ」
テフォンはアイテルを見ながら茶化すように笑うと、肩からかけた布を取って、近くの切り株へ被せます。
「座れ」
テフォンは別の切り株に腰を下ろします。
池の周りを囲むように、いくつか切り株がありました。
「椅子代わりにしつらえたんだろうな」
これだけ王都から近いのですから、人の往訪自体はありますのね。
私はテフォンが示した切り株へ腰を下ろします。
アイテルは、相変わらず馬たちを見守っておりました。きっと、アイテルは馬が好きなのでしょう。
「いい馬だろう?」
テフォンがアイテルに大声で呼び掛けると、アイテルが振り向いて笑顔で頷きます。
やがてアイテルは手綱を近くの木に結び、地面に置いた籠を持ってこちらに歩いてきます。
「あれはいい馬ですね。俺が乗った馬もですが、テフォン殿の馬も素晴らしい。さぞ、走るでしょう?」
「ああ、戦場で何度も助けられた。帰りに乗るといい。気難しいやつだが貴公なら喜んで乗せるだろう」
「ぜひ」
アイテルは切り株の前に籠を置くと、かがみこんで籠を開け、敷布を広げます。
「食事にしましょうか」
オレンジの果汁が入った瓶と葡萄酒の壺、パンとチーズ、魚と牛肉の燻製に野菜の酢漬け、干し果物と焼き菓子が次々と敷布の上に並べられます。
「さすがに豪華だな。行軍の食事とはまるで違う」
テフォンが、まじまじと敷布を見ます。
「それは、姫様がご一緒ですから」
アイテルは品を並び終えると、葡萄酒と果汁の瓶、真鍮のコップと皿、フォークを私とテフォンに分けてくれます。
「まず、姫様はこちらで」
アイテルが私にコップを手渡し、果汁を注いでくれます。
「ありがとう。どうぞ瓶はそこに置いてちょうだい」
「仰せのままに」
アイテルは果汁の瓶を私の足元へ置きますと、テフォンの隣の切り株に座り、葡萄酒の瓶を掲げます。
「一献どうです?」
「いいな、もらおう」
アイテルがテフォンのカップに葡萄酒を注ぎ、続いて、テフォンが慣れた仕草で同じことを返します。
「では、我らの初めての休日に」
テフォンがカップを掲げ、アイテルも倣います。
「乾杯!」
「乾杯」
「…乾杯」
私も、軽くカップを掲げ、口をつけます。
オレンジの果汁はみずみずしく、いつもよりも美味に感じました。屋外で味わうからでしょうか。
「テフォン殿は、王都には慣れましたか?」
「さすがにな。我ながら、今の境遇が信じられんが」
「それは、俺もです」
穏やかなテフォンとアイテルの声を聞きながら、私は空を見上げてみます。
緑の葉を茂らせた木々の合間から、抜けるような青空が見えます。
可愛らしい小鳥のさえずりに、アイテルとテフォンの朗らかな笑い声。
この場所は、私を放っておいてくれます。
だから、心が落ち着くのかもしれませんわね。
「姫、何か食べるか?」
「よろしくてよ、自分で選びますわ」
私は立ち上がって、皿にパンとチーズと酢漬けの野菜を乗せます。
ああ、自らの手で何かをなせるというのは、なんと気楽なのでしょう。
テフォンとアイテルは、会話に花を咲かせています。
「軍のほうは落ち着いたのですか?」
「まあな。どのみち、この腕だ、軍務では役に立たん」
「十二分に外地で働いたのです、王都にて果たせる務めもございましょう」
「そうだな。軍人が巫の夫になったからには、防衛を一から見直したいものだ」
「ですね。国はもちろん、王宮も塔も」
「貴公にも考えがあるだろう。一度、話すか」
「是非に」
執務中、私達は言葉を交わすことはほぼありませんし、夜は、片方ずつとしか会いません。
今朝もおやっとは思いましたが、まさか二人がこんなに親しいだなんて、ちっとも知りませんでしたわ。
けれど、最初は違ったはずです。
テフォンが塔に来たときは、アイテルはテフォンを警戒していたように見えました。
テフォンも、私とアイテルに対して厳しかったですわね。
「…すみません、姫様。つい、テフォン殿と話し込んでしまい」
ぼうっとしている私に気づいたのか、アイテルがすまなさそうに声をかけてくれます。
「よろしくてよ、けど」
私はオレンジの果汁を一口飲んで、二人の夫を見やります。
アイテルは白い肌に、琥珀色の髪、青い瞳、王都の貴族の出。
テフォンは浅黒い肌に、黒髪に黒い瞳、王都ではないどこかの軍人の出。
背が高くて、剣が使えて、馬に乗れて、手にマメがあるというくらいしか共通点は見つかりませんわ。
「二人とも、意外と親しいのですわね。最初は違いましたでしょうに」
私の言葉に、アイテルとテフォンは顔を見合わせます。
「まあ、同じ女を妻とする身だからな」
「信頼はしています。嘘をつかない誠実さがおありですから。それに高名な将軍だけあって力にも優れ、経験も豊かです。知識も豊富です」
「学はないがな」
「学問の知識と、世で必要な知識は、別物でございましょう」
「テフォンも、アイテルを信頼しておりますの?」
「当然だ」
テフォンが、迷いなく言い切ります。
「アイテルのように誠実な人間は、王都の貴族には珍しい。それに優しい男だ。だからこそ姫の護衛に選ばれたのだろうが」
「アイテルは、塔に来た時から、真面目で誠実でしたわ」
「姫はアイテルの美点を重く見ていないかもしれないがな。真面目で誠実というのは得難い資質だ。軍で多くの人間を見てきたからわかる。それに、何より男前じゃないか」
「まあ……瞳の色は綺麗だなって思いますけれど」
するとテフォンが笑いだし、アイテルが困ったような顔になります。
「テフォン殿、あまりからかわないでください」
「いや、なかなか報われないなと思ってな」
「もう慣れておりますから。テフォン殿はどうです? 都の暮らしは気に入りましたか?」
テフォンは少し考え込んでから口を開きます。
「こうなったからには当然、受け容れてはいる。だが……」
テフォンは言葉を切って、辺りを見回します。
「都は人が多く、このような木々がないのがな。どうにも落ち着かない。海も遠く、潮風が届かない」
「テフォン殿の故郷はどのあたりなのですか?」
「北だ。海沿いの小さな漁村だった。今は、もうない」
テフォンは池を見つめながら、少し間を置いて口を開きます。
「子供の頃、外敵に襲われてな。助かったのは俺だけだ」
初めて聞く、テフォン自身のことでした。
しばしの沈黙の後、アイテルが遠慮がちに言葉を紡ぎます。
「確か、テフォン殿の父君は」
「あれは義理の父だ。運よく、将軍に拾われた」
テフォンが、馬を見やります。
「父はよくしてくれたが、他の家族もいるからな。それもあって早くから戦場へ出た」
話を聞きまして、なぜ、私はテフォンのことをよく知るまでもなく受け入れたのか、なんとなくわかりました。
テフォンもまた、居場所がなかったのですわ。
それで私を気にかけてくれたのでしょう。
私もまた、自然と彼を受け入れられたのだと思いますわ。
「そんなわけで、姫の夫となれたのは、幸運だった。家族ができたからな」
テフォンは私とアイテルを見て、微笑みを浮かべます。
「家族……。私とテフォンとアイテルは、家族、ですのね」
家族。
それは私には無縁の言葉でした。
お母さまも、二人の父も、私には関心を持ちませんでしたから。
「そうだ。俺の故郷は、あの塔で、家族は、姫とアイテルだ。いずれは子も加わるだろう」
アイテルが私とテフォンを見て、微笑を浮かべます。
「そうですね。今の俺の家族は姫様と、テフォン殿です。俺の家族は健在ですが、昔からどうも合わなかった。護衛の話に飛びついたのも、幼いながらに家が合わないと感じていたのでしょう」
「だろうな。兄君を見る限り、よく貴公のような者があの家から出たと思うぞ」
テフォンは軽く笑いますと、私をじっと見ます。
「どうだ、姫? この家族は不満か?」
「いいえ。気に入っていましてよ、とても」
本心ですわ。
私は、二人の夫を、私の家族を、とてもとても、気に入っております。ええ、自分でも意外なほどに。
「ならいい。苦労した分、これからは二人分、愛されればいい」
テフォンがアイテルを見て、からかうように笑います。
「もっとも、アイテルは姫を独り占めできないから不満だろうがな?」
「テフォン殿!」
アイテルが眉を吊り上げ、珍しく大きな声をあげます。
「姫、アイテルの傍へいってやれ。俺は、少し周りを見てきたい」
「わかりましたわ」
テフォンが立ち上がるのを見て、私はテフォンが座っていた切り株へと腰を下ろします。まだ、テフォンの温もりが残っていて、あたたかいですわね。
アイテルが戸惑ったように私を見ます。
「姫様、何も……」
「アイテルとは、長くいますけれど、あまり話をしていませんわ」
「そう、ですね……」
テフォンが茶色の馬の手綱を外しながら、こちらを振り向き、叫びます。
「夜はどうしても別物だからな。まあ、二人で親交を深めてくれ」
そう言うと、テフォンはひらりと馬へ飛び乗り、馬を走らせていきました。
テフォンが馬と駆け去るのを見ていますと、アイテルの声がします。
「この辺りは安全です。右腕の怪我があるとはいえ、テフォン殿ならおひとりで問題ないでしょう」
「そうですわね」
続く言葉はありませんでした。
しばらく沈黙が続いた後、アイテルの声が、また聞こえます。
「姫様」
アイテルは、澄んだ青い瞳で、じっと私を見つめていました。
先に、顔を近づけてきたのは、アイテルでした。
私は目を閉じ、アイテルと唇を軽く触れ合わせます。
唇はすぐに離れ、目を開けますと、アイテルがかすかに微笑みます。
こうしてアイテルが微笑むさまは、とても優し気で、好ましく思っておりますわ。
「俺は、幸せです。姫様もですか?」
「ええ、幸せでしてよ。前よりもずっと、ずっと」
私はアイテルの大きな手を取ります。
「ねえ、私も馬にひとりで乗ってみたいですわ」
「すぐには難しいと思いますが……でも、やってみましょうか」
アイテルは笑って立ち上がり、私へ手を差し出します。
ええ、アイテルはいつも私を否定しません。そういうところも好ましいのですわ。
私はアイテルと手を繋ぎますと、白馬の元へ向かいます。
私はもう一人ではありません。
私には、二人の夫が、家族がおります。
それはとてもあたたかくて心地のよい事実なのですわ。
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