4-7 それぞれの選択③

 ショパン『革命』のピアノ曲が研究室にこだまし、部屋全体が熱狂する観客のようにざわめき立つ。

 炎巻き上げる渦の中、赤茶けた髪の神経質そうな男が、金髪少女の背中からむくりと起き上がる。

 ハシバミ色の瞳に強い意思の光を宿し、ロッティの隣に並び立つ。


「ロッティ!」


 伊織が右手を目いっぱい伸ばすと、ロッティは音叉を振りかぶった。

 我に返ったヒップ教授はロッティに音叉を突き出す。

 先端から、古代魔導レガシーオーダーのエネルギー弾が迸る。


 構わずロッティは音叉を投げた。『革命』の業火はすれ違いざまに教授のエネルギー弾を焼き尽くし、伊織の右手に収まる。


「ぐわあああっ!」


 ヒップ教授は悲鳴と共に後ろに倒れた。伊織を包み込んだ赤壁のオーラが、後ろ手を掴んでいた教授の手を焦がしたのだ。


 これが――音叉共鳴レゾナンス

 魔導士ロッティの全幅の信頼が、共鳴士いおりの心を奮い立たせていく。


 念をこめると音叉の先端にマグマが形成される。

 膨らむ火球の圧倒的熱量が、尻餅を付いた教授の必死の形相を照らし出す。


「その手を治せるのは私だけだ! 私を殺せば、お前は一生ピアノが弾けなくなるんだぞ!?」


 音叉の火球が二回りほど縮こまる。

 躊躇う伊織の背中越し、弾むソプラノの声が届く。


「伊織、ありがとう!」


 振り返ると、演奏するショパンの隣で、ロッティが飛び上がって喜んでいた。


「伊織が信じてくれたからあたし、ショパンの魔導士になれたんだよ! 周りの皆は絶対できないって言ったけど……伊織だけは信じてくれたから、私に革命が起きたんだよ!」

「ロッティ……」

「今度はあたしが信じる番。伊織のピアニストになりたいって夢、絶対叶えられるって、あたし本気で信じてる。そんなヤツに頼んなくてもあたしが信じていれば絶対、伊織はピアニストになれる!」

「ふっ……ふざけるなっ!」


 じりじりと後ずさるヒップ教授は、大声で喚き立てる。


「信じる信じないで、急にピアノが弾けるようになるか! 伊織くん、君の怪我は普通の治療では治らなかった。だったら、人知を超える音叉の力に頼るしかないだろう⁉ 本当に治したいと思うなら、私を選べ。恥ずべき事ではない。それは誰もが選ぶ、最適な選択肢なのだ」

「そうかもしれない……でも、伊織は言ったんだよ!」


 ロッティは叫ぶ。淡褐色ヘーゼルの瞳に、確信の炎を揺らめかせ。


「革命はいつも少数派がやり遂げる。誰もが違うって言えば言うほど、伊織は夢に、ピアニストに近づいているって!」


 気休めで言った言葉じゃない。

 事実、鳴り響くショパンの『革命』は、愚直に夢を追い求めたロッティが勝ち取った奇跡――家族にも無理だと言われた、革命の結実に他ならない。


 ロッティだけじゃない。

 ティアも、ヴァンダも……皆厳しい現実を受け止めて。

 どうしようもない不安を抱えて、それでも自分の信じる道を歩み続けている。


 考えろ。今僕は何をすべきか。

 自作自演を繰り返す、教授の甘言を信じるのか。

 自らの左手に向き合って、仲間と共に夢へ突き進むのか。


 伊織は思いを定めた。

 マグマの宿る音叉を、ヒップ教授に思い切り振り下ろした――その時。


 ガキンと、身も竦むような金属音が鳴り響いたかと思うと、音叉の火球が四方八方に飛び散った。

 隠し通路から飛び出た女が、伊織の『革命』を音叉で受け止め、教授を守ったのだ。


 この女、誰だ――!?


 華奢な身体に白いコートを羽織り、ホットパンツから伸びる素足は、ハッとするほど白く艶めかしい。

 緩くカールした黒睫毛と、真っすぐ伸びた黒髪ロング。

 負けん気と生意気が同居する黒い瞳は、伊織と目が合った瞬間、黒瑪瑙オニキスのような深い煌めきを帯びていく。


 驚きのあまり伊織は後ろに飛び退いた。

 その隙に、女はヒップ教授に手を貸し立たせる。

 教授は胸に手を当て、自分より二回り以上若い女に恭しく頭を下げた。


「ありがとうございます、千里せんり様。お早いお戻りで助かりました」

「まさか今日、計画を実行するなんてね。やっぱりお兄ちゃんが……ううん」


 千里と呼ばれた女性は手の甲で涙を拭うと、泣き笑いを伊織に向ける。


「やっと会えたね。お兄ちゃん」


 妹の面影を残すその笑顔に、伊織は慄き震え、二、三歩後ずさる。


「違う……君は、千里じゃない」

「私、千里だよ。お兄ちゃんの可愛い妹、垂石千里」


 そう言って自称千里は、記憶にない豊満な胸に手を添えて、記憶にある悪戯っ子な笑みを浮かべる。

 物怖じしない性格、すぐ涙する感受性、家族の前でだけ見せる生意気な笑顔……猫の目のようにくるくる変わる表情は、確かに妹を思い起こすけど――。


「伊織……妹ちゃんと再会できて、ホントに良かったね……」

「だから違うんだって、ば!」


 隣で泣いてるロッティとショパンに、連続でツッコミを入れる。


「彼女が千里なわけがない! だって千里は……十五歳になったばかりなんだぞ!? この人はどう見ても二十代。明らかに僕より年上じゃないか!」


 ロッティは驚くも、自称千里とヒップ教授は、微妙な面持ちで互いの顔を見合わせていた。


「分かった……これもヒップ教授の差し金だな? 音叉の力で妹そっくりの女性を作り出し、懐柔しようってわけか!」

「私だって信じられないくらいだから仕方ないけど……年を取ったのはしょうがないじゃない。あれからもう、十年も経ってるんだし」

「十年?」


 自称千里は、胸の谷間からネックレスの音叉を取り出した。

 ブレスレットの金属部分に打ち付けると、ノイズで掠れたショパンの練習曲エチュード『別れの曲』が聴こえてくる。


「今から十年前、私は『別れの曲』の音叉でポーラに転移した」

「そんなわけあるか! 僕はついこの前、ポーラに来たばかりだぞ!」

「あの時お兄ちゃんは、ショパンの魔導士として召喚魔導サモンスタイルを行使した。私も無意識に共鳴士として音叉共鳴レゾナンスし、『別れの曲』の楽曲の加護ムジカブレスが発動した。それは異世界に転移する能力だったけど……私達は別の時間軸に転移させられてしまったの」


 突然伊織は、呻き声と共に、頭を抱えてしゃがみこんだ。

 思考のモニタが、映画の始まりのようなカウントダウンを始める。


 三、二、一……映ったのは、自宅リビング。

 今までの思考モニタは、ノイズだらけの断片的なイメージしか映らなかったが、今回は鮮明な映像となっていた。


 引っ越したばかりのリビングには、ショパン『別れの曲』が流れている。

 光る音叉を持って抱き着いてきた千里を、伊織は受け止めて――。


 妹を拒絶し、思いきり両手で突き飛ばしていた。


 捻じ曲がった空間のひずみは伊織と千里を別々に呑み込んで、そのまま離れ離れになり……伊織は洞窟の岩盤ベッドで目を覚ました。


 伊織はハッと顔を上げる。


「ごめん千里! 僕があの時、お前を突き飛ばしたから……」

「しょうがないよっ!」


 十も年を重ねた妹でも、涙の雫は重ねられない。

 落涙する彼女に、記憶の妹が重なっていく。


「だって……先にお兄ちゃんを突き飛ばしたのは、私だから。それでお兄ちゃん、転んで……手を付いた床に、割れたガラスのコップがあって……」


 ……忘れていたわけじゃない。思い出したくなかったんだ。

 泣いて謝る千里も、痛くて動かない左手も、何もかも嫌で。


 だから僕は、千里を無視していた。


 あの頃、何を言っても無反応な僕と千里の関係は、ぎくしゃくしていた。

 後悔し始めた頃には千里も喋りかけてこなくなって……だから突然抱き着いてきた千里を、僕は……。


 気まずそうに俯く千里だったが、やがて意を決したように顔を上げた。


「お願いお兄ちゃん、一緒に来て。私達なら、お兄ちゃんの手を治せるかもしれないし、世界を救う事もできると思うの」

「世界を救う? 何言ってんだ。ヒップ教授は人竜戦争を引き起こして、世界を混乱に陥れようとした、張本人だぞ!?」

「それは……私がそうしようとしてるから」

「え?」


「竜は駆逐されなければならないの。この世界から、一匹残らず」

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