4-6 それぞれの選択②
「ダメだよ伊織、騙されないで!」
ただならぬ気配に、ロッティが伊織の右腕に縋りつく。
「たとえ『復活』の音叉を使っても、伊織の左手が……完全に治る事なんてないんだよ」
躊躇いがちな、完全否定。
たとえそれがロッティでも……ロッティだからこそ、伊織の奥底にくすぶる火種に、油となって注がれる。
「うるさい! 適当な事言うな!」
「適当なんかじゃない! ティアちゃんだって言ってたもん」
「なんて」
「伊織の左手はもう治ってる。ピアノだって、いつか弾ける可能性が高いって」
「いつかっていつだよ! そっちの方こそ、何の根拠もねーじゃねーか!」
伊織は乱暴にロッティを振り払った。それでも
「伊織お願い、目を覚まして。これは適当な話なんかじゃない。伊織だって教授の『復活』の音叉が、ただ傷を治すだけのものじゃないって分かってるんでしょう?」
伊織は下唇を噛み締めた――ティアやヴァンダの話を聞く限り、確かに不安はある。でも。
「僕の手は、
「だからだよ! 本来
ヒップ教授は大きく息を吐くと、「それは違う」と割って入る。
「確かに
ロッティは髪を躍らせ、必死に反駁する。
「違うっ! 伊織は左手の指を速く動かすだけで痛いって言ってた。ショパンの『革命』は、冒頭から左手が暴れまくる激しい曲。ショパンの指と
伊織の思考のモニタがザッピングを始め、暗い洞窟の絵が映し出された。
初めてショパンを喚び出した時の、囁き声が再現される。
――大丈夫、君は弾けるよ。
「伊織が左手に感じる痛みは、心因性によるもの。指の機能は治って痛みもないのに、怪我で弾けなかった時の痛みが頭に強烈に残ってて、それが
あれはそういう意味だったのか? 僕の手は、本当にもう治ってるのか?
「『復活』の音叉は、怪我を治癒する能力があるのかもしれない。でも伊織の左手がもう治っていれば意味ないし、心因性の疼痛まで効果があるとは思えない」
「それでも! ……ダメ元でいいんだ。わずかでも良くなるなら、僕は――」
「そのためにみすみすヒップ教授を逃がしちゃうの!? 教授が逃げた先で同じ事を繰り返しても、伊織は自分がピアノを弾ければそれでいいって言うのっ!?」
涙ながらに訴えるロッティに、胸が詰まる。
分かってる。分かってはいるけど――目の前のチャンスは掴んでみなければ分からない。
それが『運』か『不運』か、掴んだ者しか分からない。
「さぁ、もういいだろう伊織くん。後は君の決断次第だ」
伊織はロッティに振り向いた。そのまましばし視線を交わすと背中を向ける。
そのままゆっくりと教授の隣まで進み、並び立った。
「ありがとう、伊織くん。君の左手は然るべき場所で『復活』の手術を行うと約束しよう」
「立ち去る前に一つだけ。今すぐ『千人の交響曲』を止めてくれ。あとはどことなりでも、僕はあなたに付いていく」
「させない!」
ロッティはライフルを構えた。もちろん伊織相手に引き金が引けるわけもない。
ただじっと、見つめ合う事しかできない。
「ロッティ……前にも言ったよね。夢を追いかけるってのは現実を見ない事なんかじゃない」
「むしろその逆……なんでしょ」
魔導士と共鳴士。今生の別れを見守りながら、ヒップ教授は『復活』と『千人の交響曲』の音叉をジャケット内で入れ替えた。
そのまま音叉に指を触れ振動を止める――刹那、ガンッ! と大きな音が部屋に響く。
伊織は書斎机を、前に思いっきり蹴飛ばした。
机の上に置かれていたブリーフケースが、ロッティの足元に滑っていく。
ロッティは反射的に飛びついてブリーフケースを確保した。
「貴様!」
「いてててっ!」
慌てたヒップ教授は、逃げようとする伊織の手を後ろ手に取って締め上げた。そのまま顔を近づけ、憎々しげに睨みつける。
「やってくれたな伊織くん! だがマーラーの音叉は全て私のジャケットの中だ。残念だったな!」
「やめて! 伊織を離して!」
ブリーフケースを抱えたロッティに、ヒップ教授は唾を吐きつけた。
「鞄の音叉はくれてやる。その代わりそこを動くなよ。動けばこいつの手首、へし折ってやる!」
関節をあらぬ方向に締め上げられ、伊織はまたも悲鳴を上げる。
これではロッティも迂闊に手が出せない。
教授は伊織を拘束したまま、部屋奥の
片手で棚の本をいくつか落とすと、隠してあったスイッチを押す。
本棚が左右に開き隠し通路が現れた。
伊織は俯き抵抗を止めた。
ひとまず、ブリヴェットによるヴァルソヴィアの竜害は止まった。
たとえ捕まったとしても、教授に協力さえしなければ――。
そう思ってた矢先、聞き慣れたピアノと澄んだ声が聞こえ顔を上げる。
音叉を両手で握りしめる金髪少女は、とぐろ巻く炎の中心で、祈るような詠唱を唱えていた。
* * *
「音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べをしばし解き放て」
勉強もできない、楽器も弾けない。
「来たれ魔導士シャーロット・クラクスの名と身において」
それでもママに憧れて、あたしは音叉魔導の道を選んだ。
環境が変わればヒトも変わる。ヴァルソヴィア魔導学院に入れば、バカなあたしでも魔導士になれるかもしれないと思った。
だから死ぬほど嫌いな勉強もして、死んじゃう一歩手前まで身体を鍛え上げた。
それでもあたしは魔導士になれなかった。
伊織、あなたに出会うまで。
「演じよピアノの詩人、フレデリック・ショパン」
何の知識も苦労もなく、いきなり魔導士になっちゃった伊織に、嫉妬や妬みがなかったわけじゃない。
それで嫌な態度を取っちゃった事もあったし、無理なお願いもした。
それでも伊織は、あたしを信じ受け入れてくれた。
意地悪なお母様を説き伏せて、二人で世界に革命を起こそうって、引っ張ってくれた。
伊織だけじゃない。
逃れられない運命を、思いの強さで克服したティアちゃん。
半人半竜の宿命を背負っても、人竜の橋渡し役を買って出たヴァンダちゃん。
皆の協力で、あたしは
環境が変わればヒトも変わる。
でも環境って場所じゃない。そこで出会う仲間の事だ。
皆のおかげであたしは変わった。変われたはずだ。
だから今、今ここで――、
成長したあたしを見せなくちゃならない。
ねぇショパン、あなたもそう思うでしょう?
だからお願い、出てきてよ。
あなたの『革命』で、私に革命起こしてよっ!
「ピアノ
* * *
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