4-5 それぞれの選択①
魔導コロシアムを出た学院の敷地内にも竜がたむろし、多くの学生が戦っていた。
逃げる教授の背中を見つけた伊織は、その先で竜に襲われている女学生を発見する。
ヒップ教授は助ける素振りすら見せず、その傍を全速力で駆け抜けていった。
「あんの野郎……」
伊織は彼女に駆け寄ると、背後の花壇から柵を一つ引き抜いた。
一つだけ三又になってた柵をロッティに放り投げると竜は彼女への攻撃を止め、その放物線を目で追いかける。
ロッティのライフルで三又柵が空中で爆散すると、竜はがくんと、スイッチが切れたように項垂れた。
「え?」
女学生が驚く間に、竜は再起動。
新たなブリヴェットを感知したのか、怯える彼女を置いてどこかへ飛び去っていく。
伊織はひしゃげた三又音叉を拾うと、彼女に渡した。
「あ、あの……これは、いったい?」
「その三又の音叉もどき――ブリヴェットによって、竜は正気を失ってるんだ。学院にも町にも、至る所にこれと同じ三又の音叉が紛れこんでいる。それを片っ端から壊して回れば竜は森に帰っていくはずだ。この事を他の学生にも伝えて、皆で撤去してくれないか?」
「え……えと、あの、分かりました。でも、あなたは?」
「僕の名前はたレッヒイィ――!」
「じゃあお願いねー!」
のんびり話してる暇はない。ロッティに首根っ子を掴まれた伊織は、引きずられるように、その場から走り去っていく。
しばし茫然としていた女生徒は、自らの音叉とひしゃげたブリヴェットを見比べた。
近くで聞こえた悲鳴で我に返ると「よし!」の掛け声と共に走っていった。
* * *
教授の研究室に駆け付けると、音叉ライフルを構えるロッティと、悠然と自席に座るヒップ教授が対峙していた。
教授の手には音叉が握られ、机の上には音叉が入ってるであろうブリーフケースが置かれている。ロッティに先に行ってもらって正解だったようだ。
「おや、伊織くん。随分遅いお出ましじゃないですか」
「そっちこそ……はぁはぁ……随分余裕な態度ですね、ヒップ教授」
息切れする伊織を見て、ヒップ教授は眉をひそめる。
「竜姫ヴァンダを仲間に引き入れ、ティアのブリヴェットまで破壊した君が、体力は人並み以下ですか……。安心しますよ、音叉無双の東方の
「そんな事より、今すぐ『千人の交響曲』を止めろ。音叉魔導の未来を担う魔導学院の学生が、命の危機に晒されてんだぞ」
「未来を担う? あのバカ共が?」
ヒップ教授は大声で笑い出した。
おかしい……教授は音叉魔導の将来を危惧し、こんな事をしでかしたんじゃないのか? それとも他に目的が?
「笑ってないで……その音叉を止めなさいって、言ってるの!」
我慢の限界に達したロッティは、教授の音叉に狙いを定めライフルをぶっぱなした。
しかしエネルギー弾は、見えない壁に弾かれる。目を丸くしたロッティは続けざまにライフルを放つも、同じように弾き飛ばされてしまう。
「
戸惑うロッティに、ヒップ教授は手にした音叉を愛でるように擦ってみせた。
「この音叉はマーラー交響曲第五番、第四楽章『アダージェット』。この楽章は、マーラーの妻アルマ・シントラーにあてたプロポーズとして、後から追加された楽章だ。妻を守りたいマーラーの思いが、このようなバリア効果の
伊織の背中に冷たい汗が伝う――なぜそれを、ヒップ教授が知っている!?
マーラー交響曲第五番第四楽章には、確かにそういうエピソードがある。それが元でこの曲は、イタリア映画の名作『ベニスで死す』の劇中曲に使われ、マーラーの名が世に知れ渡るきっかけとなった。
逆に言えば映画を知らなければ『アダージェット』のエピソードなんて調べようもなく……映画の存在しないポーラのヒップ教授が、なぜそれを知っている!?
教授は立ち上がると、ジャケットの中から新たな音叉を取り出した。
「伊織くん、私を見逃してはくれないかね」
「……ここまで好き勝手やっといて、よくそんな事が言えるな」
「私もやりすぎたとは思っている。だからタダとは言わん。相応の対価を用意しよう」
教授はそう言うと、手にした音叉を二人に見せた。
「これはマーラー交響曲第二番『復活』。他者の傷であれば、どんな傷もたちどころに治してしまう奇跡の音叉だ。医師でもない私が、どうやってティアにブリヴェット埋め込んだと思う? これがあれば多少強引に皮膚を切り裂いたとしても、傷跡一つ残さず治癒できる」
目の前の男が幼女を切り刻む残虐シーンを想像し、伊織は吐き気と嫌悪感を覚える。瀕死の赤子とヴァンダも、そうやって切り刻み『復活』させたというのか。
悪魔の所業か神の思し召しか……そんな議論は後でいい。
外ではティアが、ヴァンダが、多くの学生達が必死に竜害を食い止めている。
一刻も早くこの騒動を収めないと、本当に人竜戦争にまで発展しかねない。
「そんな音叉どうだっていい。それより『千人の交響曲』を止めろ、今すぐだ」
「どうだっていい? とんでもない! 魔導士の君が『復活』の音叉を手に入れても、君自身の傷は治せないんだよ? この意味を、もう一度よく考えてみるといい」
「だからそんな音叉、僕に興味はな――!?」
そこまで言って、急に伊織は黙り込んだ。
「伊織?」
ロッティが不思議そうに顔を覗き込んでも、伊織は目も合わせない。どこに焦点が合ってるかも分からない黒眼を、ギラギラ光らせてるだけ。
「ちょっ……伊織! どうしたの?」
心配するロッティを右手でどけると、伊織は教授に向け左手をまっすぐ伸ばした。
大きく開いた手のひらの、星型の痣を見せつける。
「これも……治るのか?」
「ああ、そうだ。夢だったんだろう? ピアニストになる事が」
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