3-9 欺瞞に満ちて④
マゾフシェの森中央、草木に囲まれた広場で、ロッティはショパン『幻想即興曲』の音叉に念を籠め
「演じよショパン! え、えと……エステ侯爵夫人に献呈した即興曲! 幻の蜘蛛が鍵盤を這うが如く? 想いを旋律に乗せた嬰ハ短調ピアノ曲、作品ナンバー六十六遺作『幻想即興曲』を!」
ちゅんちゅんと、つがいの小鳥が空に飛んでいく。
音叉は切れかけた外灯のように不規則な点滅を始め、最後にはぷつんと消えてしまった。
真っ赤になってぷるぷる震えてるロッティを、背中に長尺音叉を担いだティアが慰める。
「大丈夫よ、ロッティ。ここまでは想定通りだから」
「そうなのっ!?」
振り返ったロッティの足元、巨大な石に、勢いよく長尺音叉が叩きつけられた。
ヴァイオリン協奏曲『ラ・カンパネラ』が響く中、これが手本よと言わんばかりに、ティアは透き通った声で唱える。
「音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べをしばし解き放て。来たれ魔導士ユースティア・ドラテフカの名と身において」
ヴァイオリンを顎に挟んだ小男が、小さな背中からむくりとその身を起こした。
胸に埋め込まれたブリヴェットの影響か、にわかに興奮し始めるダボーグを、ヴァンダが『愛の夢』の音叉で宥めすかしている。
「演じよパガニーニ。ヴァイオリン
詠唱が終わる頃には、幻影パガニーニがティアの身体をすっぽりと包み込んでいた。伊織の姿を見つけると、弓弾きながら会釈を送る。
「はい! 次頼んだわよ、伊織!」
ダボーグが落ち着いたところで、ヴァンダは音叉を投げつけた。
左手で受け取った伊織は、当然のように光り始める音叉を、ぎゅっと握りしめる。
魔導士は一人の音楽家の音叉しか扱えない。なのにどうして、僕だけそうじゃないのか。その理由が、今なら少しだけ分かる気がした。
「音を導き閉じこめられし魔導の音叉よ、御身が主の調べをしばし解き放て」
ピアニストの道から転げ落ちていった僕は、それでも音楽が嫌いになれなかった。
音楽に絶望した僕を救ってくれたのも、また音楽だったから。
ショパン、リスト、パガニーニ。本気で弾いてきたからこそ、誰かが本気で弾いた演奏は心に沁みた。
演奏の巧拙より作曲家の意図をどう汲み取ったのか。同じ曲でも奏者によって様々な顔を見せるクラシックの魅力が、僕を捕らえて離さない。
ピアノを弾いてた時は、ミスなく弾く事に全てを賭けていた。楽譜の指示、技術の習得に気を取られ、こう弾きたいああ弾きたいは後回し。新しい楽譜が来るたび課題を見つけ練習するだけで、音楽を楽しむより最短でクリアする事に重きを置いていた。
それが鍵盤を離れ、楽譜の代わりに瞼の裏を見るだけで、音楽は僕を癒してくれる。
怪我したおかげで僕は音楽を、扉の両側から触れる事ができた。
演者として心の扉を叩き、観客として心の扉を開き招き入れる。
扉の先に言葉はいらない。
だってそこには吹き抜けの風と、音楽が流れているのだから。
「来たれ魔導士イオリ・タレイシの名と身において」
人の音楽を理解する事は、その人を理解するのと同じ事。
副科の勉強も無駄じゃなかった。音楽家の足跡を辿る事は彼らの音楽性を理解する、彼らの気持ちを慮るための、とても重要なプロセスだから。
僕にも足跡はある。怪我をした。ピアノが弾けなくなった。それだってきっと無駄じゃない。音楽に捧げた全ての時間は、決して僕を裏切らない。
だってそうだろう?
偉大な音楽家と心通わせた日々が、今僕を、音叉の魔導士たらしめてくれてるのだから。
「演じよピアノの魔術師、フランツ・リスト」
例えばリストの『愛の夢』第三番。
元々歌曲として作られた『愛の夢』は一八五〇年、リスト自身の手でピアノに編曲された。
その中でも抜きん出て有名な第三番の楽譜には、詩人フライリヒラートの詩『愛しうる限り愛せよ』が添えてあったという。
優美で情熱的なメロディは、この曲が男女の恋愛を
十九歳で父を亡くしたフライリヒラートは、父から教わった愛を詩に遺し、
十五歳で父を亡くしたフランツ・リストは、その想いを『愛の夢』の歌曲にした。
その後歌詞は、言語の壁なきピアノの旋律に置き換わり、あまねく世界へ広がる事となる。
だからリスト、僕は君にこう伝えよう。
「亡き父に捧げた人間賛歌。詩に紡がれた言葉が旋律となったピアノ曲。愛に溢れた旋律は『愛せよ、愛しうる限り』と想いを籠めた三つの
直後、伊織の背中からリストの幻影が姿を現した。
長髪面長の伊達男は、細身のスーツを着こなして、余裕の笑みを湛えている。
「ヴァンダ!」
伊織はヴァンダに『愛の夢』の音叉を投げ返した。
リストが幻の鍵盤に手をかざそうとすると、ティアの隣に立つ小男に気が付いた。
――パガニーニじゃないか!
幻影パガニーニを見つけ、リストは大声を上げる。だがその声はティアやロッティ、ヴァンダには届かない。伊織の頭の中にある、思考のモニタから聞こえてくるからだ。
パガニーニは皮肉めいた笑みを浮かべると、モニタの中に入ってきた。
――よう、ピアノの魔術師。お前もこいつに喚び出されたか。
――お前もって……他に誰が喚び出されたんだ?
――ピアノの魔術師の前なんだ。ピアノの詩人しかいないに決まってんだろ。
――なるほど。どおりで彼の中は、懐かしい音楽で満たされているわけだ。
頭の中で、リストとパガニーニが思い出話に花を咲かせていく。
伊織はモニタの前でしばらく聞いていたが、いつまで経っても終わらない昔話にしびれを切らすと、モニタをガッと掴んで話し掛ける。
『ショパンならロッティの持ってる音叉にいる! 二人からも呼びかけてくれ!』
――そうなのか? 何故出てこない? 相変わらず付き合いの悪い男だ。
――そうでもないぜ。ついこの前、俺と二人でセッションしたしな。
――なんだって!? それはずるい! 私にも聴かせてくれ!
幻影同士はモニタの中で喋るだけで、一向にショパンを呼んでくれない。目論見が外れた伊織はヤケクソ気味に訴える。
『だから! セッションが聴きたいならショパンを呼び出してくれって、言ってるだろ!』
するとモニタの中の二人は、真っすぐ伊織に向き直った。
――勘違いするなよ、イオリくん。君は楽譜を通して、私達の曲を弾いていたんだろう?
――楽譜が音叉になっても、それは変わらん。演奏は、自分の情熱をぶつけてするもんだ。
伊織は大声でロッティに叫んだ。
「ロッティ! もう一度
大きく頷いたロッティは、再び
詠唱を終えると、最後に思いっきり大声で付け加えた。
「いいから出てきなさいよショパン! あたし含めて皆、あなたのピアノが聴きたいって言ってるでしょう!」
一瞬の静寂後、音叉が強く光ると、ロッティの背後から赤茶けた髪の神経質そうな男――ショパンが姿を現した。先客のパガニーニとリストに視線だけの挨拶を送ると、ロッティの隣に並び立つ。
幻影ショパンが自分の五感と
「ロッティ、音叉を投げろ!」
伊織の声で我に返ったロッティは、『幻想即興曲』の音叉をティアに投げ渡した。
「ティアちゃん!」
散々リストに自慢してたパガニーニは、遅れてやってきたショパンと一緒に『ラ・カンパネラ』を弾き始めた。ティアだけが光属性のオーラに包まれる。
よし……少し慌てたが、ここまでは想定通り。
伊織はショパン以外の音楽家を喚び出せるし、お膳立てすればロッティでもショパンを喚び出せると踏んでいた。
同時代を生きた三人の音楽家――ショパン、リスト、パガニーニが揃えば、岩竜水竜戦の時と同じように、勝手にセッションが始まってもおかしくはない。
ここからが本番。伊織は目を瞑って、思考のモニタにいるリストに話しかける。
『リスト、聞いてほしい。パガニーニを喚び出したティアは、胸に仕込まれた悪魔の音叉ブリヴェットによって、自由と夢を奪われている。『愛の夢』の音叉にはブリヴェットを抑え込む力があるけど、それだけじゃ根本解決にはならない。彼女の胸のブリヴェットを、壊すか取り除く事はできないか?』
――うるさい、静かにしたまえ。私は今、ショパンとパガニーニの演奏を聴いているのだ。
『ああ……すごいだろう。これはクライスラー編曲、ピアノとヴァイオリン協奏曲『ラ・カンパネラ』――あなたの楽曲を、後世の偉大なヴァイオリニストが編曲した名作だ。この曲を最後まで聞きたかったら、ティアのブリヴェットを排除する方法を教えてくれ。さもなくば、僕はここで
――なっ……君は我々を喚び出すだけでなく、取引までしようっていうのかい?
『これは取引じゃない、お願いだ』
――同じことだ。我々は音楽家、音楽しか為すべき事はない。
『リスト……国籍が原因でパリ音楽院に入れず、身分の差で伯爵令嬢との恋仲を割かれたあなたなら、ティアの無念を分かってくれるんじゃないか? ティアは胸に埋め込まれた音叉のせいで音楽を……音叉魔導の夢を諦めかけている。それを取り除いてやりたいだけなんだ』
リストは考え込んでいる。
でも今は、それを
なぜならリスト。僕はあなたがどんな音楽家なのか知っている。
『あなたは『愛の夢』第三番の楽譜に、“
リストは静かに答えた。
――私の音叉を、彼女の胸の前にかざしなさい。
「ヴァンダ! ティアの胸に音叉をかざすんだ!」
「わ……分かった」
橙色のオーラに身を染めたヴァンダが、慌ててティアへと突っ込んでいく。
『ありがとう、リスト』
――私は何もしていない。これは元々『愛の夢』の音叉が持つ、
ショパンとパガニーニによる協奏曲『ラ・カンパネラ』は、
演奏の終わりと共に、ヴァンダの音叉がティアの胸を突いた。
カシャンと、ガラスの砕け散った音が幼女の胸に響くと、音叉のうなりが霧散する。
その様子を見守った幻影の音楽家達は、それぞれの音叉に戻っていった。
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