3-6 欺瞞に満ちて①

 今まで戦ってきた竜は、どれも五~十メートル級。しかしこの黒竜は十メートルを優に超え、四階建ての魔導学院校舎ほどある。その圧倒的巨躯を前に、伊織は戦意も言葉も出てこない。

 それでもロッティは音叉を構え、聳え立つ黒竜に対峙した。しかしその表情に笑みはなく、立ってるだけなのに、はぁはぁと呼気が乱れてる。

 いくら体力自慢のロッティでも、ここで戦うとなれば三戦連続。疲れていないわけがない。

 なら逃げの一手といきたいところだが、ティアは自力で起き上がれない状態。

 伊織がおんぶしたら走れないし、ロッティがおぶったら殿しんがりを守る者がいなくなる。


 どうすればいい――。


 絶体絶命のピンチに限って、思考のモニタはスクランブル。

 肝心な時に役に立たないポンコツ頭をぶんぶん振ってると、どこからかピアノの音が聴こえてくる。

 曲は……リスト『愛の夢』第三番。

 思えばこの曲に導かれて……!?


「待って、ダボーグ!」


 甘く切ない旋律に乗せて、巨竜の背後から女の声が上がる。

 森の木々の隙間から、カーキ色の外套ローブを覆いフードを目深に被った人影が現れた。右手には音叉を持っていて、そこから『愛の夢』のピアノが響いている。

 高い声から、女性である事は間違いないが……あからさまにヒトの視線を避けたその恰好は、どこの誰かも分からない。

 とにかく、只者じゃない雰囲気だけはビシバシ伝わってくる。


 女は臆する事なく黒竜に近付くと、音叉で竜の鱗を擦り始めた。白い細腕には、武骨な肘当て鎧アームガードのようなものが装着されている。


「大丈夫よダボーグ、落ち着いて。ここは私に任せて」


 音叉で撫でられただけで、血走った竜の目に理性の光が灯る。

 興奮で持ち上がっていた太い尻尾は轟音と共に大地を打ち、敵対心を表わす前傾姿勢も猫のように丸まり大人しくなった。


「驚かせてごめんなさい。少し確かめさせてもらいたいのだけど……」


 声を掛けられても、伊織はすぐ反応できない。驚愕と疑念が頭の中を支配する。


 今、何をした? 竜をペットみたいに宥めた? これも魔音叉の楽曲の加護ムジカブレス


「……あなた、誰? 共鳴士なの? なんでヒトが竜と一緒にいるのっ!?」


 戸惑ったのは伊織だけではなかったようだ。ロッティはローブの女に問い質す。


「私の名前はヴァンダ、この子はダボーグ。詳しくは話せないけど、どうしてもあなた達を確かめなければならないの」


 ヴァンダは伊織達の元へと歩み寄る。

 すかさず音叉を構え、警告を発するロッティ。


「止まって! 私の質問にちゃんと答えて!」

「私は共鳴士でもなければ魔導士でもない。ダボーグは家族だから一緒にいる。これでいい?」

「竜が家族って……ならどうしてあなたは魔音叉を持ってるの? さっきその音叉を使って、竜を大人しくさせたんでしょう?」

「……もうあなたの質問には答えたわ。次は私の番」


 ヴァンダはロッティの横を通り過ぎ、後ろの伊織とティアに向かおうとするが――、


「待ちなさい!」


 ロッティが背後から彼女の肩を掴み、力任せに自分の方へ振り向かせた。

 半回転の遠心力でローブが大きく翻り、目深に被ったフードも、はらりと首後ろに落ちる。

 零れ落ちたぼさぼさのセミロングは、漆黒の闇。キッと睨む瞳も黒眼の、黒髪黒目――。


「あなた……伊織の妹の、千里ちゃんなの?」

「違う!」


 黒髪黒目だけで決めつけるロッティを、伊織は即座に否定した。

 彼女が千里のわけがない。

 なぜなら――ヴァンダと名乗ったその女は、ヒトならざる者。


 ぼさぼさ頭の左右には、曲線を経て後方上空に反りかえる二本のツノ。ローブの下はビキニ姿で、その肢体の所々に赤黒い竜の鱗が生えている。

 背中には黒い羽根、お尻からは尻尾が伸びていて、どちらもローブの中に隠していたようだ。

 妹どころかヒトでもない。黒髪黒目の半人半竜。

 もしかして、竜と一緒に目撃された東方の旅人エトランゼって、この子の事か!?


 正体を見られ開き直ったヴァンダは、ローブを脱ぎ捨て尻尾を伸ばし、全身の伸びと同時に背中の黒翼こくよくをはためかせた。


「私はヴァンダ。生まれついてのヒト型の竜族――竜姫りゅうきヴァンダよ」


 改めて自己紹介すると、ヴァンダは右手に持った音叉を、腰に巻きつけた革製の音叉ホルスターに収納した。そして地面に横たわるティアを指差す。


「私もダボーグも、ヒトと争いたいわけじゃない。用があるのはそこの女の子よ。もっと正確に言えば、彼女が持ってる音叉」


 伊織は咄嗟に、ティアから借りた『カプリス二十四番』を背中に隠した。しかしヴァンダは気にも留めず、ティアに向かって歩いていく。

 その後ろを慌ててロッティが追い縋った。


「ちょっとちょっと! どういう事かちゃんと説明しなさいよ!」

「この子の音叉は悪魔の音を放っている。その音が、ダボーグをここまで引き寄せてしまった」

「悪魔? パガニーニの音叉って事?」

「どうしてこんな苦しんで……まさか!?」


 ティアの前でひざまづいたヴァンダは、幼女のシャツのボタンを上から三つほど外した。


「ちょっと! いきなり何するのよ!?」

「治療みたいなものよ。あなたさっきからうるさい。黙ってて」


 ふくれっ面のロッティを無視して、ヴァンダはティアのシャツの隙間に手を差し入れだ。


「やっぱり……」


 続いて『愛の夢』の音叉を取り出すと、幼女の胸の前にかざす。そのままじっと動かない。


「ねぇ、何がやっぱりなの? 今何してるか、ちゃんと説明してよ」

「静かに」


 短く答えるだけで、ヴァンダはロッティに振り向きもしない。

 困って視線を送ってくるロッティに、伊織は『様子を見よう』とアイコンタクトを送った。


「ねぇねぇ、悪魔ってパガニーニの事? それともティアちゃんが、ダークサイドに落ちちゃったって事? この羽根、本物? 触っていい? こんなんでホントに空飛べるの?」

「ロッティ、黙っとけ」

「ぶぅ」


 ロッティは唇を尖らせるも、それ以上は喋らなかった。

 アイコンタクトは伝わらなかったが、伊織がヴァンダを容認してる雰囲気は伝わったようだ。

 実際、治療というのも嘘ではなさそうだ。ヴァンダが診始めてから、明らかにティアの表情が和らいでいる。しばらくすると胸にかざした音叉から、微かに『ラ』の音が響き始めた。


「音叉が、勝手に鳴り始めた?」

「いいえ。この子の心の音叉に共鳴してるだけよ」


 ヴァンダの説明に、きょとんとする伊織。またもロッティが、得意げな顔で説明する。


「ヒトはドキドキしても、身体の外まで音は伝わらないでしょ? でも共鳴士の心の音叉は、外の魔音叉と共鳴できる。あたし達はこれを利用して、古代魔導レガシーオーダーを発動してるのよ」

「そうなのか……いつもどっかに叩いて音叉を鳴らしてたから、そういうものだと思ってた」

「まぁ、心の共鳴だけじゃ小さすぎて威力出ないから、結局普通に叩いちゃうんだけどね」


 伊織は高校の授業でやった、音叉の実験を思い出した。

 同じ高さの音叉を二つ並べ片方を鳴らすと、鳴らしていないもう片方も、音の波長を拾って共鳴する。それと同じような原理が、心の音叉と魔音叉の間に働いているのかもしれない。

 しばらくすると音叉の音に変化が生じ、今度はウォンウォンと耳障りな音が聴こえてきた。


「これは……うなり?」


 うなりとは、音の高さがわずかに異なる音叉を二本、同時に鳴らした時に聞こえるものだ。音の波長の上下が揃わず、それがうなりとなって聞こえる。これも実験でやった事だ。

 ヴァンダはうなりを鳴らしたまま、伊織とロッティに振り返った。


「心の音叉も魔音叉も、音の高さはA=四四〇ヘルツ。どうしてうなりが聴こえると思う?」

「……分からない」


 そもそも伊織のいた世界とポーラでは、音叉の常識が根底から違う。

 しかし魔導学院で音叉を勉強していたロッティは、何かに気が付いたようだ。


「近くに第三の、高さが違う音叉が鳴ってて、それがうなりの原因になってる?」

「正解」


 第三の音叉? 伊織は辺りを見回して、近くにある魔音叉を数えてみる。

 ロッティが持っている『幻想即興曲』、伊織が持っている『カプリス二十四番』、遠くで地面に付き刺さったままの長尺音叉『ラ・カンパネラ』。これで全部だ。


 全ての音叉は標準音A=四四〇ヘルツ。うなりの原因となる高さの違う音叉ではない。

 視線を戻すとティアが小さな手を伸ばし、ヴァンダの手首を掴んでいた。

 ヴァンダの持つ音叉を、自分から遠ざけようとしてるのか……潤んだ翠眼が「それ以上言わないで」と懇願してるように見える。

 そんな幼女の想いが、竜姫に届く事はなく――。


「あなた……胸の中に、音の高さの違う魔音叉を埋め込んでいるのね……」


 ティアの落涙と同時に、黒竜ダボーグは苦悶の咆哮を上げ、野鳥が一斉に飛び立った。

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